やがて柳の座の舞台が始まると、ほとんどの客は舞台の見える院子に移った。ところが小狼は運悪く舞台に興味のない客に引き留められ、遠くに聞こえる楽の音と客達の楽しそうな叫好の声に耳を澄ましながら相手をする事になってしまった。
大軸戯(その日の主演目)の番も近づき、なんとかこれだけでもとさりげなく誘ってもみたが、相手は一向その気はないようで、主人側に迷惑をかけるので勝手も出来なかった。
困り果てていると、邸の家生がやって来て、手際よく小狼をその場から連れ出してくれた。
阿選のところへ呼ばれたのかと思ったが、連れて行かれたのは庭の両脇に配された二人掛けの席のひとつで、そこにいたのは驍宗だった。
頷いて傍らに座るようにと合図したので、とりあえず座って置かれた酒を注いだが、すぐに舞台が始まり、すると今度は顎で舞台を示された。
先ほどの稽古を本番さながらと思ったのは間違いだった。所詮稽古は稽古。目の前で繰り広げられる本番はあれとは比べものにならず、座と自分の芸のためだけに見るはずが、小狼は初めて観客のひとりとして夢中で舞台を楽しむ事になり、周りの客への気配りなどすっかり忘れて舞台に浸りきってしまった。
武生のりりしさ、それに寄り添う旦角のけなげさを、唄い踊り、楽器を奏で、小狼らと同じような事をしながら、これほどまでに人を楽しませ喜ばせる事が出来るのかと、最高の舞台の持つ迫力に小狼は圧倒され続けた。
一方舞台に興味のない驍宗は飲むものがなくなると酒肴をつつき、それからしばらく空っぽの杯を眺めて我慢をしていたが、少しでも舞台に間が出来ると肘で小狼をこづいて酒の催促をした。周りからもっともらしく見えるよう身体だけは驍宗に斜めに寄り添って座っていた小狼は、上の空で注いだが、驍宗としても花旦を侍らせながら手酌で飲むわけにもゆかなかった。
そしてにぎやかな銅鑼に送られて役者が全員舞台を下がると、すぐさま驍宗は小狼を置き去りにしてどこかへ逃げ出した。いくら阿選の頼みでも、見物客から丸見えの席で花旦を独り占めして酒を飲んだと、明日から当分口さがないのに言われるかと思うと気が滅入ったが、王宮で阿選に捧旦〈旦の贔屓〉の噂をたてさせるわけにもゆかなかった。
しかし小狼の方は今見た舞台で頭がいっぱいで、驍宗がいなくなったことにも気づかず、まだ頭の中で響き続けている拍子に合わせ軽やかに立ち上がると、演じられた切れ味の良い足捌きを思い出し、それをなぞりながら、興奮冷めやらぬままに院子を巡った。
それは外から見れば可愛い花旦がふわりふわりと散歩でもしているかのようで、よもやその衣の下では全身の筋肉を張りつめさせ、そこここですれ違う客に愛想良く会釈をする度、実はその相手に見えない剣を振り下ろし、あるいは突き立てているとは、時折白い水袖の下に透けた指がびくりと縮こまる以外には外からは見えないはずだった。それでも少し離れたところで客の供をしながらこちらの様子を窺っていた阿選だけが、一瞬の足取りの乱れと細い肩のこわばりに気づき、密かに微笑んでいた。
その後もそれを頭の中で思い返していれば、宴の相手も少し楽に思え、別室に呼ばれ何かやってくれと言われた時には、先ほどの唄い方をさりげなく取り入れて自分の声で試してみたりもした。
やがて夜も更けて座が乱れ始めた。
さすがに田舎の宴とは違いそれなりの客と場ではあったが、もともとこの国は酒が好きで強い者が多かった。
また気性の激しさは十二国でも有名で、黄海にいた時聞いた話でも、戴からの昇山者は蓬山で酒を飲んで喧嘩など珍しくなく、女仙を追いかけ回した者もあったとか。そう言えばその王となった者も丹桂宮にいた僅かの間に見初めた女仙をその後すぐに何人も後宮に迎えたという事だった。焚き火を囲んでの宰領〈おやかた〉達のそんな話を漏れ聞いたときは意味も分からず遠くの世界の話だったが、考えればそれは阿選を含め、ここに集まったほとんどの人々の仕える王の事だった、と改めて気づいた。
すでにまともに舞や歌など聴く状態ではない客を見ながら、抜け出す潮時と機会をうかがっていると、再び聞き慣れた声がかかった。
「私にも注いで貰えるかな」
小狼は先程から困った酔客に細い腰を我が物顔に抱え込まれ、酒でべたべたした口を首筋に押し付けられそうになって、そろそろよろけた振りをして膝でどこかを蹴ってやろうか、それとも口元に押し付けられた杯を傾けてやろうかと思案中だったので、口実が出来たと喜んで抜け出した。
「少し酒が回っているようだな、まずは外の空気にでも当たってはどうか」
引き留めようとする客の手前、酔いが回ってひとりでは立つことも出来ないかのように細い指先を驍宗の腕に絡めて縋った花旦を、驍宗は羨ましそうな周りの視線に得意になるどころか、これで俺の評判も決定的だなと諦めた。あまりに不作法な客を見かねて声をかけたのだが、せめて相手が毎日剣の相手をして饅頭を頬張っているのを見ている小童〈こわっぱ〉ではなければよかったのだがと見下ろした。
「まあ、ありがとうございます、ぜひお連れ下さいませ」
周りに聞かせるために甘えるように礼を言いつつ、小狼は驍宗にしては気が利くではないかと思った。
酒席のあしらいなど最近ではすっかり慣れたし、今夜は上座からこちらを心配そうに見ていた阿選があまりにしつこい客の時に家人を寄越してくれたが、彼の立場を悪くする訳には行かないので、抜け出すまでには至らなかった。
絹の刺繍を施した彩鞋(靴)のつま先に付けたふさふさした毛玉を揺らしながら、そのままよろよろと歩いていたが、人目のない堂の外の暗がりへ出ると、すぐに腕を放し、澱んだ空気から解放されて大きく息を吸った。
「黄海の空気の方がいいか?」
その様子に面白そうに声がかかった。
「ああ、いい。暑くてむっとするから嫌だと思う人の方が多いだろうが」
声の聞こえる範囲に誰もいないのを確かめていつもの口調で答えた。
「騎獣について目利きなのは分かったが、まだ黄海の事を覚えているならいい機会だから少し話しをしてゆかないか?聞かせて欲しい事もある」
「いいよ。あっちはもう俺の事なんか忘れているさ」
人目に付かぬよう先ほどの控えの房でと思ったが、奥の方へと誘われた。阿選に付き添うために、こちらに泊まる事も度々あり、一部屋与えられているということだった。
「冷たいものでも持たせようか?」
「ああ、ありがたい」
「私はあんな席では飲んだ気がしないから飲み直す事にする」
阿選の父親の館での驍宗の房は、奥の臥室も手前の起居も飾り物など目に付くものはすべてこちらで用意されたままらしく、彼らしさを感じさせるものは何もなかった。
だだっ広く飾り立てた人の多い堂から逃げ出したかった今はその狭さもむしろ落ち着けたが、召使いがすべて宴に取られているので自分で厨房まで飲み物を頼みに行った驍宗が戻ってくると、とたんに窮屈になった。
驍宗は運ばせた物を起居ではなく、奥の臥室に並べさせると、そこに置かれた榻に身体を投げ出し、黄海について質問を始めた。
よけいな話はせず、すぐに用件に入る彼のやり方は小狼も毎日の練習で慣れていたので、水を持って窓のある起居の方に座り外からの風を感じながらそれに答えた。北の国の夏は夜になればさわやかな風が吹き、夏も盛りを過ぎた今では朝方には少し肌寒さを感じさせるほどになっていた。
風と共に宴席の物音が切れ切れに聞こえ、それに重なるように落ち着いた声で懐かしい場所について問われると、先ほどまでの緊張や興奮を少し忘れた。
「王のいる国から黄海へ行きたいという事なら騎獣狩りだろうけど」
「ああ、そうだ」
「狙いは?騶虞とか」
阿選ならこんな事を言われれば、またからかう、と嬉しそうに相手になっただろうが、履き物を履いたままの脚を上げて寛いでいた男には当然の質問だったようで、そのまま悠々と酒を飲んでいた。
「いや、最初からそれは狙いすぎだろう。まあいずれとは思っているが」
小狼は黄海で出会ったこういう男達を思い出した。皆このように自信に溢れて、冒険を求める男達だった。
単に騎獣が欲しければ騎商から買えば良いこと。路銀や装備に加えて案内の者も必要で、黄海までの費用はかなりなものだった。あげくに手ぶらで帰る者の方が多く下手をすれば命を失うとなれば、騎獣狩りは騎獣だけが目的ではなかった。
それは並以上の金と技と度胸を持つ者だけに許される究極の道楽で、それなりの獲物を捕らえて帰国すれば、それからの長い年月、実用品としての価値以上に、ことさら見せびらかす必要もなくまわりの羨望の的となりその力を誇る事が出来るものだった。
しかし朱氏は彼らを避けていた。獲物を横取りされるとか、狩り場を荒らされるというだけではなく
、黄海をよく知らない者の近くは妖獣も落ち着かなくなり、狩りにくくなるからであった。
「あいつらは空気が読めない」
宰領はいつもそうこぼして、門を入り翌日黄海の中に分け入るとさっさと違う方向に行こうとした。
おそらくこの驍宗もそういったひとりになるのだろうが、彼の騎獣を乗りこなす腕と剣の腕なら、どこまでも追って力づくで何かは捕らえられるような気がした。
「俺はそろそろ正式に軍に入ろうと思っている」
阿選から聞かされていた話だったが、それに何も言わず小狼はただ頷いた。
驍宗もそれが阿選にどう関わるかは何も言わなかった。
「一度軍に籍を置けばそうそう長い休みを取るわけにもゆかない。だからその前にまずは一度行ってみようと思うんだ。そうすれば軍で使うのにいい騎獣が手にはいるかもしれないし」
――あるいは戦で命を落とす前に黄海で餌になるかもしれないし
寂しげに、それでも驍宗のためにそれを認めようとする阿選のためにそのくらいは思っても構わないだろうと、小狼は考えた。
しかし、小狼も阿選の事を考えたのはそこまでだった。出来れば来年、当然のようにそう言う言葉に、小狼は思わず、ではその時は俺が一緒に行こうと言いかけているのに気付いた。
そしてはっとした。
俺は今何を言おうとした。
飾りのついた頭をふっと振って、小さな金具のたてる音を耳元で聞き自分の今の姿を今一度確かめようとした。
―― 俺は何をしているんだ、こんなところで、娘の格好で、踊っているなんて。何が芸の練習だ。
俺は朱氏なんだ…
しかし先ほどたしかに一瞬、黄海へすぐに帰る事を前提として考えていた。
この大胆な男は心の奥底に押し込んでいた少年の封印したつもりの願望を呼び起こそうとしていた。
今はまだ無理だ、今俺が抜ければこの座はすぐにもつぶれる。
そう思って心の中奥深くに封印し続けていたのだった。
声の技と力の匠である朱旌としての小狼は、無意識に相手の声を判別するようになっていた。市井であったいろいろな人物の声や特徴を捕らえて芸に取り入れ、先輩や名人と言われる芸人に会えば、それを分析して学んで来た。
客観的に声を聞き取る訓練をしていたからこそ、その声に引きずられかけたものの立ち止まれたのかもしれなかった。
まだ揺れる飾りの震えを感じながら身体を硬くして座ったまま、相変わらず隣室からの旅についての質問に機械的に答えていたが、その相手の声を初めて意識して耳をそばだてた。
いつもは阿選の方がよくしゃべっていたし、その陰で気付かなかったのだが、驍宗の声はそれはそれで魅力のある声だった。屋外で大声を出すことの多い武人は、よく通る声が多かったがさすがに美声のものは滅多にいなかった。しかし彼の声は割れてもいないし深みのある快い声だった、この先軍で働いてもそれほど酷い声になるとは思えなかった。
そしてそれは一瞬とはいえ小狼に一座を捨てて、黄海に案内をさせようとしていた。
別にそうして欲しいと言われた訳でもなかった。勝手にそう小狼に望ませたのだった。それは人が密かに持つ願望を、巧みに引き出し自分の思うままに従わせる事の出来る声だった。
もし朱旌ならこれで戯楼いっぱいの客を思いのままに操れる事ができたかもしれなかった。そして戦場でこの声に行けと言われれば、部下は喜んでどんな敵にも怖じけず向かうのではないだろうか。
そして阿選の事を考えた。
彼は今、自分の才能を捨ててあてもなく軍に入ろうとしていた。
聞かされたときはとっさの方便と思っていた驍宗の事が、実は本人も意識していない本音であったなら。
あの美しい声を驍宗のためにつぶすのか。
絶え間ない日々の練習の積み重ねの必要な芸の世界には二度と戻れなくなるかもしれないというのに。