「阿選殿、そろそろ戻らないと」
そこへあの年嵩の青年が騎獣に乗るよう再度促した。場をとりあえず納めようとしたというより、朱旌などを相手のいざこざを嫌っての事なのだろう。
彼はいつも他のふたりの背後に控えていたが、それでも年上というだけとは思えない存在感で、年少の他の三人をただいるだけで圧するところがあった。しかし阿選への態度はなぜか丁寧だった。
餓鬼相手に『殿』呼ばわりかよ、何様だい、と小狼は阿選と呼ばれた少年には悪意はなさそうに思ったが、こっちの気にくわない客の連れなら同類かもと油断しなかった。
「おまえたちの芸を見てやろうとこんな所まで来たんだ」
まだ言い足りないらしいその態度の悪い方がさらに嘲った。
――そりゃーありがたいこった、しかしもう見たんならとっとと帰ってくれないか。
これ以上口を開けば何を言うか保証できないぜ、と小狼はうんざりしていた。
夜の興行の準備もあるし、その前にさっき大道具で仲間を潰しかけたここの道具係に言っておかなくてはならない事があった。いつもとは桁違いの場所なので備え付けの道具と人手を使えるのはありがたいが、それだけに気心の知れた者同士の作業とは違って連携がうまくゆかない事もあり気が休まる間がなかった。小さな座なのでけが人を出しても代わりなどいなかった。
「それはありがたいが、芸の善し悪しが解るようなお客は少ないし、幸い俺たちは客を選べない」
どう相手をしても機嫌よく帰るとは思えず、どのみち二度と来るまいと思ったので冷たく応えた。腹も減ってそろそろ彼の辛抱も限界だった。
―― 衣装も髪飾りも重くてなよなよするだけでも腹が減るんだ。
絶えず座への用に追われ、それでいつも頭がいっぱいの彼にはこの時間が本当に惜しかった。
「幸いだと?」
貴様、と色を成した少年が聞き返した。
「ああ、入り口で銭を払えば誰でも客になれる。そいつがどんなヤツでも払った金の分は楽しんで貰えるように俺たちはやってるんだ」
客商売と心得てはいても、つい地金が出るのはどうしようもなかった。しおらしく客に頭を下げるのは、黄海で妖魔や妖獣をやり過ごしたり捕らえるために地べたに伏せるのと同じと思ってここまでやって来たのだったが。
「客がこんなところで期待するものなど決まっているだろう。木戸銭の分だけ愉しませるというなら、あれではとても足りん。そうだな、もったいぶらずに肌でも見せるんだな」
いくら嘲られてもこの程度の事で顔が怒りで青ざめるような時期はとうに過ぎ、今では不愉快な事は聞き流すことにしている小狼は、そのまま無言でただ睨み合った。言葉以上にきついその眼差しに、ついに相手は顔を真っ赤にして怒り始めたが、振り返っても同行者からの応援が期待できない様子にこれ以上自分ひとり騒ぐのもみっともないとは気付いたようで、たかが紅娘の分際でと言い捨てると、こんなところに長居は無用とばかりに騎獣に飛び乗りさっさと行ってしまった。
――覚えてろとか言われたら、いちいち覚えてなんかいられねえよっ、とでも言い返すのだが、紅娘と言われれば、事実そうなんだからどうしようもないな、と小狼は、客と言い争った自分の馬鹿さ加減と短気にうんざりした。
とにかくこれでやっかい払いしたと思ったが、なぜか阿選という少年の方はまだ動く気配を見せず、武官の青年は茶色の衣の少年についてはどこへ行こうが気にする様子もなくやはり動かなかった。
「すまない、紅娘。ここと君の評判を聞いて来たのだが、あの者は驍宗に供を頼んでいるところを聞いて、勝手についてきたんだ」
先ほどあきらかに蔑称として使われた字を、阿選は本来の芸人への賞賛を込めた呼び名として使う事で、取りなそうとしているようだった。
「変わったものを見たいっていうだけでも、それはかまわないぜ。客は多い方がありがたい」
言いながらも小狼はこの少年の態度に、なぜか先ほどの少年に対して以上に苛立った。表情には見せなかったが、内心先の少年に小狼以上に腹を立てているように思えたからだった。
小狼は他人に横暴な人間も嫌いだったが、必要以上に我慢して心に仕舞う質の人間を見るのも嫌いだった。
それはひとつには、耐えるしかない人間ばかりの底辺の世界で、すぐに彼を殴ったりしかったりする大人の中で育ち、あげくに朱旌になって狭い馬車や天幕で一日中顔をつきあわせる集団で暮らしてみれば、すぐに泣いたりあちこちに当たり散らしてほどほど発散するような輩の方が、本人にも周りにとってもむしろ安全だと気付いたからだった。
言いたいことがあればすぐ言えばいい、ただ溜め込めばそれはやがて毒を持ち留めなく膨らんでゆく。
だから我慢しすぎていいことなんかあるものかと思っていた。
それは彼自身自分が、いつかとんでもない爆発を起こすのではないかと日々密かに不安に思っていたからでもあった。
だからまあ、さっき馬鹿やったのもしょうがないか…と小狼は自分を慰めた。
――それにしてもどうして俺は愛想良くしっぽを振れないんだ。
そしてさりげなく謝罪を言うのはどうすればいいのかと考えながら、改めて再び話し始めた阿選の方を向いた。
「宿下がりしていた者からここの話を聞いたのだが、この休みで一番楽しかったと言っていた。なんでも天綱についてとても解りやすい話になっているので、読み書きの出来ない彼女のような者にもよく分かったと言っていた」
阿選は、小狼の言葉に隠された刺に気付かないほど鈍いわけでもないようだったが、あえてこれも受け流すことにしたようだった。そこで小狼もそれに倣うことにした。
「演目にもいろいろあるが、天綱っていうのは大事なお題のひとつだ。どこの朱旌もやる。ああいう硬い話もいろんな時代の王や戦いの話も俺たちがやるといい娯楽になるし、みんなの知識を増やす。むろんちょっとおもしろおかしく変えてることが多いけど害になるほどじゃない」
阿選はそれに肯きながら聞いていた。
「今度宮中でもそういのをやってみようかと思っていたんだ」
「宮中で?」
その身なりと態度からどこぞの金持ちのぼっちゃんだろうとは思っていたが、さすがに王宮と言われてまじまじと相手を見た。そういえば武官の姿のお伴がついていたんだったとやっと思い至った。
「ああ、私も先ほどの者も王宮のいわば楽人なんだ」
「まあそんな仕事の者もいるとは思うが、おまえまだ若いだろう」
豊かに育ったらしい相手は小狼より肉付きが良く背も高かったが、歳はそれほど変わらないと見えた。
そして年上の高貴な身分と分かったはずの相手におまえよばわりする朱旌を、驍宗が不快そうに咎めようとしたのを、阿選はそっと頷くことで押さえた。小狼は先ほどの少年と揉めた時にすっかり商売用のもの言いを忘れてしまった上、とんでもない相手にびっくりしたあまり自分ではそれに気付いていなかった。そして先ほどの問いに答える少年がその前になぜか一瞬口ごもったのもつい見逃した。
「王宮にはたくさんの子供やごく若い者がいるよ。王宮でも王のお側の奥の方の仕事になるので誰でもというわけにはゆかないから、さっきの彼のようにちょっと傲慢にもなってしまうんだ」
先ほどの同行者についての遠回しな詫びのつもりなのだろうが、朱旌などに言い訳をしようとする少年に小狼もさらについ口が滑った。
「じゃあ、育ちが良くて出来のいいのがわざわざ朱旌みたいな事をしているのか?学校とか行かないのか?」
我慢も限界といった様子の驍宗とは違い、重ね重ねの無礼に怒りもせず、しかし少年はさすがに苦笑いした。
「そういう場合は官籍をもって縁を戴くわけじゃなくて、ただ王宮に出入りを許されて、そうだね、主上に個人的に預かって戴いているようなものでね。
親元から通う者もいれば王宮内の私達のための宮に住まわせて戴いている者もいて、普通の子供のように学校へ行ったり師についたりして勉強しているよ。そしてその合間に、主上のおそばでいろんなお役のまねごとのような事をしているんだ」
あまり聞き慣れない珍しい話に、小狼は腹の減ったこともしなくてはならない用事も少し忘れた。
「私は楽所にいるのだけど、この彼は将軍のお世話などをしながら武術を学んでいる。私ももちろん多少は武術も学ぶが、たぶん彼に言わせれば剣を振って踊っている程度なんだろうな」
へええ、と小狼はふたりを改めて見たがふとある事を思いついた。
「こういうのはどうだろう。よかったらそれを教えてくれないか?剣の基本でも剣を持っての踊りでもなんでもいい。見栄え良く剣を振るえるようになりたいんだ。その代わりにこっちの演目を教えるぜ」
「剣?」
舞台衣装ではなくしかも一応少年の姿だが、明らかに素人の着るものとは違うけばけばしい薄く身体にまといつく衣を思わず上から下まで見てしまった阿選に、小狼は苦笑いした。
「さっき言ったようにいろんな役をする。今日は花旦だからなよなよしていたけど、俺なら旦でも動きの多い武旦の方が無理がないだろうと言われたんだが、どうも決まらないんだ。今日も俺が剣をふるって敵から逃げるという台本もあったんだけど、あんまり下手くそなんでやめになったんだ」
ひどく突っ張っているこの少年が、急に浮かない顔になったのがおかしかったが、真剣に芸に取り組んでいるからこその悔しさも感じられ、阿選は笑いそうになるのを押さえた。
「そりゃ面白そうだ。私もああいうのを見るのは好きだよ。きれいな娘が背に長い飾りを挿して両手に細身の剣を持って大男を倒すんだよね。見ていても爽快だから演じたらさぞ気持ちいいだろうねえ」
「ああ、まあ見たほど楽なもんじゃないけどね。とにかく本当の剣の使い方を知っていればもっと迫力があって面白くなるのではと思ったんだ。毎日毎日可愛い娘ばっかりするのにもいい加減飽きてきたしな」
「でも本当に可愛かったから、やめたらさっきの彼みたいな客が残念がるよ」
阿選はやはりどうしても笑いが抑えられず、くすりと笑って茶々を入れたが、小狼は大まじめだった。
「だから前に上級の学校じゃ剣や弓も練習をすると聞いたから剣術を教えて貰えないかと思ったんだけど」
阿選という名の少年は笑いを引っ込めしばらく考え込んでいたが、答える前に困ったようにもうひとりを見た。
「教えてもいいけど、さっきも言ったように剣は彼の前で人に教えるなんて恥ずかしくて言えない腕なんだ。それでいいなら私はかまわないよ」
阿選の言葉は王宮の若手では一番と言われている驍宗を意識したため必要以上に控えめで、武術に専従している者を除けば同年代の中で決して劣っているというようなものではなかった。それを知る驍宗は紅い眼を細めてそれを聞いていたが、芸熱心なふたりのやりとりにしぶしぶ口を開いた。
「我々も余興として剣を持って舞うことがあるが、それは舞ではなく、あくまでも剣の正しい動きのつくる美しさを見せるためのものだから、そう簡単に出来るものじゃない。それより誰が教えようが、毎日やってもとてもここにいる間で覚えきれるものではないと思うが」
「もちろんそんな簡単なものじゃないとは解っている。ただ少しでも格好がついて芝居に迫力が出たらなと思って。とにかく俺が上手くならないと座が困るんだ」
貧しい親が子を売る時や孤児の引取先は女の子なら黄朱以外に伎楼か遊郭という道があった。そちらは借金を返せば普通の生活に戻る可能性が残されるのでそちらを選ぶ親も多く、朱氏はもちろん朱旌ももともと女が少なかった。
だから苦しい時期を越え、あのあと徐々に合流する座員も増えここまでになったが、主役の出来るようなよい女の役者はこんな座には来てくれず、多少女の座員も加わったものの未だに小狼が頼りだった。
そして芸の未熟な彼に見せ場を作るために、さまざまな工夫がされた。
今日の演目で目を引いたしどけない場面も、本当なら子供の彼にはとても無理なのだが、相手役の男の芝居の巧さに助けられ、小狼はただその手に操られるようにして動いていたに過ぎなかった。それでも小狼も榻でただ寝そべっていたわけではなく、支えもないまま大変苦しい無理な姿勢で半身をひねり、あちこちの筋肉が痙りそうになるのに耐えて台詞を言っていたのだが、これは身体が重く硬い大人には無理な振り付けだった。
そしてそのような工夫のひとつが台詞や歌の多い文戯にも彼の身の軽さを生かした立ち回りの多い武戯を取り入れた変則的な演し物だった。これも客には期待通り受けたが、激しい動きの場面で引き立ててくれるような脇役がおらず、実際に手本となるものを見せてくれるものもいないとなれば、自分ひとりで見せ場を作る力のない小狼は切実になんとかしたかったのだった。
少ない座員と年寄りばかりの座では、それを補うために何かにつけて主役がよほど派手に動かないと場面が盛り上がらないのだった。
先ほど聞かされた王宮の話のお返しをするかのように、普通なら決して余所者には語らないそんな内輪の事情まで小狼はぶちまけた。この阿選には殿上人なのになぜかそんな話まで聞いて貰いたくなるものがあった。