阿選は小狼の話を頷きながら聞いていた。
「分かった、そこまで言うなら。じゃあ、今からでもちょっとやってみる? 時間が惜しいだろう」
言ったものの自分の両の手ひらをしげしげ眺めて、さて何を見せようかと考えた。
その脇に立って阿選の迷う様子を見ていた驍宗は、突然数歩進み出て腰の剣を抜くやいなや小狼に向かって振り下ろした。
傍らでいきなり抜刀された阿選は止める事も出来ず、ただぎゅっと眼を閉じた。彼は剣が人を斬る音を知らなかったが、それらしきものはいつまで経っても聞こえなかった。
そっと眼を開くと、剣を振り下ろしたところで止めたままのその刃先には何もなく、三歩先に朱旌の少年が立っていた。
驍宗は剣を引き、ちらりと阿選をみると諫めた。
「主上の前でそんな顔を見せたらびっくりされますよ」
あわてて阿選はまだ力の入らない顎をなんとか閉じたが、とてもしゃべれるような状態ではなかった。
「ぎょう、驍宗…」
「かかわるのがいやならそう言えばいいだけじゃないか」
横から声がかかった。震えてはいないがさすがにそれまでとは違い声が低かった。
「いくら楽部のためとはいえ、王にお仕えするためのものを教えるとなれば、せめて費やした時間が無駄にならない程度の相手であって欲しいもの。
それに下手はまだしも、こちらの動きを受け損ねて勝手に怪我などするような手合いは迷惑だ。
」
しらっとそう言うと驍宗は剣を鞘に戻した。
その意味することに二人の少年は驚いた。
「で、合格か?」
小狼は訊ねた。
「まあ、逃げるくらいは出来るようだな。剣は使った事があるのか?」
「おれはまだ武旦じゃない」
答えをはぐらかす事で、目的はともかくあまりに乱暴なやり方に抗議の気持を示したが、相手は気にしないようだった。
「それにしては、見事な身のかわし方だった。面白いやつだ、ずっと朱旌じゃないだろう」
「親も出自も何もないのが朱旌だ。 」
まだ収まらない怒りに少し色の薄くなった琥珀色の瞳が、ゆったり腰の剣に重心を傾けた紅い瞳を恐れず言い捨てた。
「そろそろ王宮に戻る時間だ。では少し手ほどきしてから帰ろう」
尊顔なのか無頓着なのかわからない青年は、そう言うと剣を納め、拳を軽く握りまっすぐに立った。
鍛えられた長身の肉体は、ただそれだけでどんな武生もうらやましがる見事な立ち姿だった。銀色に輝く白い頭は天を突こうとするかのようにまっすぐ伸び、血のように紅い眼はどこか遠くに視線を定めながらも周りの全て動きを見逃しそうになかった。
傍らで見守る阿選はその力強さに眼を奪われていたが、対面する小狼は、先ほど剣を振り下ろされた時以上の殺気とも言える気迫に怯みそうになるのを押さえると、傍らにおかれた把箱〈武具入れ〉から急いで舞台用の剣を取り出し腰の帯に挿した。
そしてまずぐっと頭を上げて首筋だけでなく身体全体を伸ばして軽くしならせた。
すぐに腹の底から響く低い声共に、ゆっくりと片方の手が剣を抜き、はっというかけ声と共に剣が大きく空を払った。そのまま手がゆっくりと空をかくように下ろされながらも手首の動きによって刃の向きが変わるのを、小狼は鋭い目で見取ると真似た。
緩急取り混ぜた動きには細かな動きが加わりさらに複雑になり、空を斬る剣の立てる音が青年が発する短い声と共に響いた。
やがて地を踏みしめていた足が大きく一歩踏み出され、さらに小さく向きを変えて滑り、それに従って腕の動きもいっそう大きく激しくなった。
何の説明もなく速度も落とさずそれは続き、小狼は必死でそれを目で捕らえ自分の動きにした。
時間にすれば数分だっただろうが、終わった時には小狼は汗ぐっしょりになっており、緊張によって頭が痺れそうだった。
「木刀では充分手が伸びないだろう。真剣とは言わないがもう少し重さがないと」
そっけなくそれだけ言われたが、驍宗は初見でこれだけ付いて動いた少年に内心驚いて、芸人の猿まねというのも侮れないと思った。ある程度基礎のある者でも、普通なら一通り振りを覚えるだけでも一月はかかるもので、人前に出せるにはそれからまだまだかかるものである。
阿選は剣の刃こそ交わらせてはいないが、真剣勝負ともいえるその間の緊張に固まっていたが、終わるとぱちぱちと嬉しそうに拍手した。
「すごい、すごいよおまえ。先ほどの彼はもっと簡単なのでも半年くらいかかっていたよ。毎日狭い共用の房で剣を振り回すので、みんなが迷惑したので覚えているんだ」
不作法な年長の少年への先ほどのあの我慢強さをいっとき忘れたように、これが他の者ならざまあみろと言いかねない言い方だった。
新しい演目を早く覚えるのも仕事のうちだから、と小狼はあっさりと答えたが、内心一度で覚えきれたかとすばやく頭の中の記憶を辿り始めていた。驍宗がもう一度やって見せてくれるとは思えなかった。
「でも初心者にこんな難しいものをいきなりさせるなんて……」
遠慮がちに抗議する阿選を驍宗は無表情で見返した。
「これは剣の一通りの動きが組み合わさったまとめのようなものだ。あれこれ覚えるよりこれひとつ覚えておけば便利だろう。そのまま舞台に出すわけではないのだから、このなかから見栄えのするのを選べばよい」
「ああ、その通りだ。いいものをありがとう」
小狼も低い声で礼を言い、茶色の眼と紅い眼が再びじっと見合ったが、その紅い眼は告げているようだった。お前のためではない、阿選のためだと。
「さあ、ではあとはまた別の日に。今度こそ戻らなくては。お急ぎを」
そう言うと驍宗は、まだすごいよすごいよと興奮して言い続ける阿選をせき立てた。