都の戯楼の多くは、夏に座付きが地方巡業に行く間、旅回りの戯班〈一座〉を呼んで演じさせることにしていた。そして今年そのひとつの小さな戯楼である天球楼に呼ばれたのは木蘭〈むーらん〉座という戯班だった。
小さいとはいえ戯楼の班と旅芸人とでは同じ朱旌とはいえ格が違い、呼ばれただけでもその後の興行の宣伝にもなった。その上木戸銭も高く(もちろん楼主と分け合うのだが)、屋根のあるところで長期滞在が出来るとなれば朱旌にとっては願ってもない事だった。
木蘭座は以前は雑劇〈しばい〉から上索〈かるわざ〉まで一通りの演し物を揃えた旅回りとしてはそこそこ大きな規模で、しかし取り立てて特徴のない一座だった。しかし最近座長が代わり演目も一新されたとかで、その評判でここへ呼ばれたのだが、到着してすぐ挨拶に来た顔ぶれに、楼主がこれは失敗だったかと先行きを案じたほど妙な一同だった。
たしかに座員が少なくかなり変則的な演し物をしているとは聞いていたし、その新鮮さが好評の理由のひとつとはいえ、そもそも花形役者の花旦〈娘役〉が化粧を落とせばまだ子供で、これが座長も兼ねていると聞かされれば楼主が頭を抱えたのも無理はなかった。しかしいくら集まった座員の背後を見ても、他にはたいした女はいないようだった。
いまさら他の座を呼ぶわけにも行かず楼主は興行を始めるしかなかった。
毎年この時期には見馴れた顔ぶれとは違うその年の旬の班による公演を楽しみにしている戯迷〈芝居通〉も多く、公演が始まって暫く経ったその日も、楼主の心配を余所に小屋はなかなかの入りだった。
この日の演目は長めの戯曲一本だけで、旅先で兄とはぐれた娘が男装してその土地の女地主の元で働くうち、その女主人に一目惚れした若者の恋を、自分の彼への恋心を押さえて手伝うというものだった。
普通は青衣〈女主人公〉と小生〈若者〉が中心のよく知られた筋だが、この座では男装した花旦〈娘役〉を中心に書き直されていた。
劇場の照明によく映える紅い髪をした花旦はくるくるとよく動き、短いお仕着せの袴の下に白い股引〈たいつ〉を履いて少年を演じた。
花旦で特に人気が出ると元の芸名とは別に紅娘と字される事があり、そうなれば着るものや髪をその色にすることも多かった。おそらくこの戯子もそれに合わせて染めたのだろうが、表情豊かな軽めの歌声と色白の頬に紅い髪はよく似合い、鬱々と閉じこもりがちな女主人を力づけようと歌って聞かせる場面では、この女主〈おんなしゅじん〉でなくともほろりとさせるほど可愛らしかった。
一方で女であることを隠しているために奄仲間に汗を流そうと誘われたり、上を脱いで薪割りをしろと言われるなど、次々ととんでもない目にあっては戯楼を笑いの渦に巻き込んだ。
常設の小屋なので客席は間が卓で埋められており、客は舞台の合間にはその卓を囲んで食事や茶を楽しみながら演目や出演者についてそれぞれひとくさり述べ合うのだった。中にはただ知ったかぶりの的はずれなものもあったが、周りの客から意見を求められるような目利きのさすがな言葉まであり、いずれにせよまだまだ未熟なところが目立つとはいえこの主役の花旦の評判は悪くなかった。
有望な若手を見つけるのは戯迷にとって何よりの楽しみで、それが無名でまだこれからとなればそれはそれで客を喜ばせるのだった。
芝居の後半では花旦はやっと再会出来た兄と悪漢に捕らえられ観客をはらはらさせたりもしたが、あの若者に助け出されるとその胸に縋って震える声で恐ろしさを訴えた。客にはその哀れさに涙を浮かべる者もいたが、榻に横座りした娘の足首が濃い黄丹の袴子の僅かな隙間からちらりと浮かび上がって男の客に身を乗り出させたりもした。
少年のはずの者になぜか心惹かれはじめた事に戸惑っていた若者も、兄に会うために着替えていた娘姿に安堵して改めて愛を告げ、ちょうど現れた女主人と兄が互いに一目惚れするなど話は一気にめでたく終結した。そして寄り添い去った兄たちに続いて、花旦が若者と袖を絡め見つめ合って舞台から去る時には、観客は拍手と歓声で見送った。
何度も拍手喝采を浴びた一座が下がると、客がいちどきに立ち上がり、前席に陣取ったおかげでなかなか出る事が出来なかった三人の若者もやっと抜け出すと、騎獣のところへ向かった。
「やれやれ下々の見る目というのはあの程度と言うことか。何が人気の一座だ。聞いたか、あのひどい台詞回し、いや聞いてなんかいられなかったよな。
それをごまかすためにはしょうがないんだろうが、若い娘が肌を見せて喜ばせようなんて」
そう言ったのは十七くらいだろうか、茶色の上着は一目で高価とわかる贅沢な品で、甘やかされて育ったのか態度も言葉も傲慢そうだった。
「肌なんか見せていたでしょうか。そう見えただけでは?」
穏やかな言い方ではあったが言い返したのは少し年下らしい少年で、やはり贅沢な品だが場に相応しく地味な身支度だった。それでもこの人混みの中で、しかも華やかな舞台を見終わったばかりの通りすがりの人を振り返させるものがあった。
「本当にそうなら即興行停止になる。今日も途中で役人が覗きに来ていた。気付かなかったのか?」
他のふたりより年長らしくひとりだけ色合いの簡素な武人の衣の青年がそっけなく言った。興味もない芝居に長々とつき合わされた上、この茶色の衣の少年が舞台の花旦に涎を垂らさんばかりにしている姿を、ずっと卓越しに見せられうんざりしていたのだった。
「とにかく時間の無駄だったな」
花旦のちらりと流された眼差しにだらしなく口を半開きにして見とれたあげく、最後には不覚にも涙ぐみそうになっていたことなど、他のふたりには知られていないつもりの最初の少年は、まだ自分は小屋を埋めていた他のやつらとは違うのだというところを見せたがった。
その時、近くに繋がれた騎獣を取りに来ていた少年が通りすがりにちらとこちらを向いたが、三人連れがそれに気付くとすぐに視線を逸らし、騎獣を連れて黙って行きかけた。
「おい、おまえ。何か言いたそうだな」
何を言ってもだれも同意してくれないのがしゃくだった茶色の衣の少年が、やや八つ当たり気味にかけた声に再び振り向いた少年は、舞台衣装こそ着ていなかったが、明らかに朱旌と解るてらてらとした青い衣で、よく見ると髪は紅色だった。
「君、さっきの?」
年下の方の少年の声に、紅の髪の少年は黙って軽く眼で礼をするとそのまま行き過ぎようとしたが、もうひとりの言いたい放題の少年に止められじろじろと見られた。
「おまえ…旦〈おんながた〉だったのか」
「珍しい事ではないが」
素っ気ない答えのとおりたしかに戯子が少年ばかりという座までもあった。しかし茶色の上着の少年は先程まで夢中で見ていたのが、若い娘ではなく生意気そうな自分より年下の少年と分ってひどく不機嫌になり前に立ちふさがった。
「まともな女はいないのか、ここは」
「生憎年寄りか見習いの童くらいだ。ところでご贔屓がこの騎獣をお待ちだ、通してくれ」
「なんだ、その態度は、女の衣を着ていなけりゃ人並みの挨拶も出来ないのか。一見の客だって客だ」
「いいかげんにしてはどうか。子供に絡むなど」
武人姿の青年がうんざりしたようにそう言うと、小狼に顎をしゃくってさっさと行くように合図した。
しかし小狼が数頭の騎獣を連れて表に回ろうとすると、狭い路地なので自然その後に三人がそれぞれの騎獣を連れて後に付くことになり、背後からぶつぶつと聞こえよがしの悪口を聞かされる羽目になった。
小狼が年配の婦人ふたりに最初に騎獣を引き渡すと、客は機嫌良く芝居の出来を褒め、そのひとりが少年の懐に小さな金包みを挿し入れてやった。少年は丁寧に礼を述べ、それぞれの手をとって騎獣に乗せ見送った。
「おい、いい加減に早く乗れ」
三人組のうちの年上の青年は、そのまままた別の客のところに騎獣を連れて行く小狼をを憎々しげに見ている茶色の上着の少年をせかした。
小狼は騎獣を配りながら、他の客にも手際よく挨拶をしては見送っていたが、やっと客が切れた。
見送りならともかく花形である彼が騎獣まで引いてこなくてもいいのだが、人熱れで澱んだ上に化粧などの匂いの混じったほこりっぽい舞台裏の空気から一刻も早く抜け出したい小狼は、客を口実に、いつも幕が下りればすぐ騎獣のところに向かうのだった。
そしてのんびりと主を待っていた騎獣に触れ、そのゆっくりとした動悸を胴体に這わせた両の手のひらで受けると、満員の観衆を前に力一杯演じ終わった後、全身を狂ったように駆け回るものを押さえて静める事が出来た。
しかも売れっ子の彼が手ずから手綱を渡せば当然客にはたいそう喜ばれ、渡される心付けも普通より多くなった。また再度来てくれた客を舞台から目ざとく見つけて騎獣を連れて行くと、喜んだ客がそのまま贔屓客になってくれたこともあり、まだこちらに来て間がないのに、何人もの客が何度も、しかも知り合いを伴って来てくれるようになっていた。
むろんそんな些細な機嫌取りだけが理由ではなく、演し物が気に入られたからこそではあるが、常連客が出来るなど常設小屋での長期公演ならではだった。
「おい、おまえ」
奥へ戻りかけた小狼を、残りのふたりの停めるのも聞かず、あの不愉快な少年が呼び止めた。小狼はいやいやそちらを向く前に辺りを見回し、仲裁してくれそうな年嵩の座員を探したが、誰もいないのを見て取るとしぶしぶやって来た。客に絡まれるのは珍しいことではないが、こういう同年代の相手はしたくなかった、
「何でしょうか」
その時突然それまで黙っていた年下の少年が口を開いた。
「とても楽しかったので、それを言いたかったのです」
割り込まれてむっと睨み付けた連れに構わず、にこにこして褒める相手にむっつりも出来ず、小狼は不機嫌な方は無視してそちらを向いた。
「おい、阿選、こんなやつに世辞を言うのか」
どうしても邪魔をしたいらしい方の少年がまた嫌みを言った。
久々の小狼くん、前回の出発から少し経ってなんとかうまくいっているようです。
今回のゲストは、はい、この方です。
戴国の話は、原作者が新作で続きを書かれることが確定しているし、あの事件の真相が分からないままで二次は書きたくないのですが、もっと遡った時代のエピソードならまあいいかなと。
ちょっと何よと思われたら、ダースベーダだって元は可愛かったじゃないという事で。
寒いメンツ揃いの寒い国のハートウォーミングな(本当か)ひと夏です。
たぶん小狼の朱旌時代で一番安定した時期のお話しですので、のんびりお付き合い下さい。
芝居小屋について:
朱旌は原作では春から秋は旅巡業をして冬は大きな街で常小屋を借りて過ごすと書かれています。
この作品では常小屋というのは粗末なもので、常設の戯楼・戯院と言われるような専用の舞台や客席を持つ建物とは違うのではないかと考え、こういう設定をつくってみました。
朱旌にもやはりランクがあり、大都市に定住して通年興行する戯楼付きの座、そして通常は旅をして冬は常小屋など屋根のあるところで過ごせる座、さらにその下に自力では小屋を借りることも出来ない座があると思うのです。
そして、鈴がいた朱旌の一座というのは、下働きしかしない座員を抱える余裕があるということからたぶん上のランクで(だから鈴は小狼よりずっと楽だったはず)、祥瓊の里に来たのは相当下のランクではと思います。
ちなみに私がイメージした木蘭座の戯楼は、前に書いたようにこんなのです。無駄に長い妄想戯言なので、本文を読み終わってお暇ならご覧になって下さいね。
むぎのーと四万打お礼増刊号 小狼君の職場