木蘭座 4

翌朝小狼のところへ案内されてきたのは昨日のあの少年だった。

「やあ、邪魔だったかな」
ひとり籠もって何か書き付けていた小狼に愛想良く訊ねた。

鴻基の街の南にあるこの一画は朱旌が滞在を許され芝居小屋が集まる通りで、朝のこの時間は準備や朝稽古に皆忙しく、客と呼び込みでごった返す興行の時間とはまた違った活気があった。
それは朝を迎えたこの国の何処もが同じはずなのだが、この通りに一歩足を踏み入れたとたん阿選の繊細で敏感な感性は余所とは違う何かに包まれたのを感じた。
長い間に多くの芸人がここで社会からはみ出たまま現世にあり得ない世界を演じ続けているうち鬱積したものは、この一画に享楽と退廃の澱となって深く沈殿しており、それは客を日常とは違う世界に引き込む力となったが、この時間はただ朝のさわやかさを遮るだけで、よそ者である阿選に不快感を覚えさせたのだった。しかし阿選も、目の前の少年が未だにやはりそれになじめず、嫌悪感すら持ち続けていたとは気づかなかった。



阿選は戯楼すらあまり来たことが無く、まして観客席以外の場所に入るのははじめてだったので、気遣いながらも珍しそうに舞台裏の一室を見回した。どちらを向いても色とりどりの衣装や舞台道具が所狭しと吊され置かれていたが、部屋そのものは殺風景だった。

「本当に来られたんですか」

小狼は昨日はなにやら勢いもあって頼んだのだが、一夜明けるとあんな育ちの良さそうな雲の上の人間が朱旌に何か教えに来てくれるなどとは信じられなくなっており、それどころか自分の態度や言った事を思い返してみれば、しっぺ返しが来るのではと心配になっていた。そのため昨日より丁重に返事をしようとした。

「うん、そう約束しただろう。でも時間を決めていなかったから、こんな時間でよかったかなと思って」

阿選はそれにただそう答えたが、実は朱旌との目新しい経験への興奮のためか今朝は早くから目が覚め、驍宗の都合も考えてなんとかこの時間まで我慢したあげく、迎えが来るなりいそいそと来た事までは言わなかった。
王宮勤めの中にも戯迷〈芝居好き〉はいたが、公演時間外に戯楼まで通うのはごく僅かで、それもこんな時間には来るはずもなかった。そこで阿選も一応目立たぬようにしようとはしたのだが、どうやってもそれはここでは彼には無理と解り、あたりの視線からも自分が場違いな存在と意識せざるを得なかった。

「私の朝の練習は終わったのですが、急ぎの用があるので、これを終えるまで待って貰えますか?」
「いいけど、なんだいそれは?」

先ほど至る所で練習をしている座員の間を通り抜けて来た阿選は、てっきり目的の少年もその中にいるものと思ったのだったのに、奥でひとり小さな書卓で書き込みするのを見て意外に思ったのだった。そして卓の上に広げられたものを覗き込んだ。

「帳簿です」
「帳簿?」
「もうすぐここの楼主が来るのでそれまでに昨日の上がりを計算しておかないといけないんです。それにさっき買い込んだ食材も付けておかないと。まあ俺たちに掛け売りするところはないから帳簿と言ってもすぐ済みます」
「そんなことは座長がするんじゃないのか?」
もしかしたらこの花旦は大人より計算が得意なんだろうかと考えたが、返って来たのは意外な答えだった。

「俺がここの座長なんです」
「座長?」
「おかしいですか?」
「いや、花形が座長ならいいだろうなと」

少し的はずれな返事をしながら、阿選は改めてこの新しい知り合いを見直した。今日は化粧もせずごく普通の木綿の半袴姿だった。だから案内されてここを覗き込んだ時に見たごく普通の少年の姿に、むしろ妙な気恥ずかしさを感じたのだった。
考えてみれば、王宮の知り合い以外で、同じような年頃の少年と知り合うのは初めてかもしれなかった。

阿選に座るように促すと、また帳簿に屈み込んだ鼻筋の通った横顔は、痩せているがまだ子供の曲線を残しており、この北国の者よりなお色白な、というより青白い肌は、彼が他の少年とは違う生活をしていると感じさせたが、昨日の舞台の華を感じさせるものは何もなかった。唯一目に付くのはいかにも染め粉を使ったと分かる紅い長い髪くらいだったが、それも今は首筋で括って阿選に見えない側の肩に流していたのでそれほど違和感を感じさせなかった。

じろじろ見るつもりはなかったのだが、する事もないのでぼんやりと横顔を見ていると、突然こちらを向かれて、ひどくばつが悪かった。

「お待たせ。こちらは終わりました」
相手は阿選の興味ありげな視線に気づいたのか気づかなかったのか、ごく普通に言った。
「あ、ああ」
そこで一緒に外へ出ると、そこには驍宗が待っていたが、ただまわりを見ているだけで、あたりの戯子たちを居心地悪く落ち着かなくさせていた。


翌日も、またその翌日も毎日二人はやってきた。最初のあの不愉快な少年は二度と来なかったし、そのことに触れる者はいなかった。
驍宗は約束通り、毎日剣の型を手際よく教え、しかし王宮で初心者や年少者に手ほどきするのと違い、説明も何もなくただ次々と手本を見せるだけだった。

「あれだけで覚えられるものなんだ」
結局阿選も見ているだけでは退屈だったらしく、どうせ自分稽古をするのだからと言って毎日それに加わったのだが、丁寧とは言えない最低限の教授についてくる小狼に感嘆していた。

「踊りを習う時だって、師匠からきちんとした教えを受ける訳じゃなし、年上の座員から見よう見まねで覚えてゆくだけ。それに余所で一度見ただけの踊りや唄を覚えてなど良くあることだからな」
小狼はあっさりそう答え、剣の稽古の後は朱旌の演目の台詞や振りを伝授した。
「それから物覚えの悪い小童に我慢して芸を仕込むのも仕事さ」
そして同じ台詞を、請われるまま何度も繰り返したあげくに言い添えた。

それは阿選の覚えが悪いからではなく、ひとつひとつ丁寧に順序立てて指導されてきたという育ちに加えて、王の前ではどんな些細な間違いも許されないためだった。そして阿選の慎重さが何度も念を押させ、それに小狼も我慢強く応じたのだった。

実際には小狼もそんな軽口をたたきながらも阿選の飲み込みの早さに内心舌を巻いていた。彼は徹底した基礎があるためか、おそらくいつも演じているのとは違うはずの形式の台詞も所作も難なく吸収していった。
これを見れば座に来たばかりの頃、小狼の覚えが悪いと座員が苛立ったのも無理はないと思った。実際には全くの素人で歳も十才を越えていたにしては、驚くほど飲み込みがよかったのだが、較べるような同年代が身近にいないため、王宮きっての天才児である阿選と自分を比較するしかなかったのであった。

「酷いよそれは、そんなに言われるほど酷くないよ」

それが分かった上でからかわれていると気付いている阿選も大げさに憤慨してみせ、そんな風にじゃれ合いながらもふたりとも一生懸命だった。阿選は今までは嫉妬とやっかみを込めて誹られるか、見え透いた賞賛で誉められるばかりだったので、身分は違っても芸への熱意は同じな同年代の少年とこんな風にやりとりする楽しさを知らなかった。
その間驍宗は横で素振りをしたり持ってきた弓で近くの的に射たりして時間を潰していた。

――驍宗殿は歌舞管弦すべてお嫌いか?
ある時、小狼の投げかけた問に、近くでひといきつきかけていた阿選が振り向いた。

驍宗は小狼が持ってきた冷たい水に礼を言って一息で飲み干して答えた。
「嫌いとまでは言わないが、今の王宮はいくらなんでも管弦が多すぎるという気が。以前はこれほどではなかったと聞く」

「父の子としてはそれには同意しかねます」
聞いたことのないよそよそしく冷たい阿選の声に、驍宗は慌てて、無礼を詫びた。
ちらと小狼が見ると、阿選はその歳とは思えない厳しい顔をしていたが、小狼の視線に気付くとすぐにのんびりと明るいいつもの顔に戻した。

「父の仕事というと、舞人かい?」
よく分からず訊ねてみると、阿選の父親は宮中の楽部を取り仕切っているとかだった。

この二人がなぜいつも一緒に来るのかと小狼は思っていたのだが、どうやら青年はこの阿選の警護を命じられているようだった。しかし親が偉いからといって、見習いとはいえ王宮の武官がつくものなのかと思ったが、こちらから聞けるものでもなかった。