木蘭座 5

「その騎獣はやめておけ」
背後から囁かれた阿選は、袖を引いて首を横に振る友の顔を訝しげに見つめた。

   

ある日すっかり日課となった練習の後、これから近くの騎商に寄ると聞いた小狼がちょうど近くに用もあるから途中まで付いて行ってもいいかと訊ねた。
いつも阿選が乗っているのはおとなしくよく調教された騎獣だったが、その扱いやすさを見込まれて身内の少女に譲る事になり、その代わりを探しにゆくのだった。

いいよ、と言われると、小狼は簡素な半袴姿に着替えて来たが、色鮮やかすぎる髪には布を巻き付けていた。朱旌、それも花旦と連れだって歩いたと知られて阿選に迷惑になってはという為らしかった。

「なんかお忍びの麒麟みたいだな」
服装に気を遣っただけではなく、一緒に来たのに少し離れて歩こうとする小狼を振り返ると、頭に巻いた木綿の布を指さして阿選は面白がった。
「行儀知らずの俺ならともかく、王宮の人間がそんな事言っていいのか?」
人混みで距離をとってはいても、修練を積んだ声は阿選とやはり一歩離れて歩く驍宗にだけは明瞭に届いた。

それに対してこれまた響きの良い声で、あはははと楽しそうに阿選は笑った。
「誰かがよその座の小説で聞いたそうだよ、隣の国の台輔は見た目は君ぐらいのお歳で、たまに髪を隠して町中を歩かれるそうだ。でも延台輔なら木綿ではなく絹を巻かれているだろうけどね」

「四百年も王宮にいたらたまには余所へ行きたくなるんだろう」
こちらでの久しぶりの定住生活は確かにいいことづくめのようだったが、ほんの数週間ですでに落ち着かない気持ちになってきていた小狼は本気で同情しかねなかった。


目的の騎商の店に着くと、上客と見分けた主は入り口に繋がれた数頭は見せもせず、すぐに店の奥に案内した。
「ぼっちゃんになら、もっとぴったりなのが奥にたんと居りますよ」
そこで店の奥なら安全だろうと、驍宗は隣の店で騎獣の道具を見てくると言い置いて出て行き、逆に店先で別れかけた小狼は、奥を見たかったらしくついて来てそのまま残った。

他に客のいない奥に案内すると、騎商は一頭ずつ仕切りに入れられた数頭を見せた。そして彼がごゆっくりと言って店に戻った後、その中の背に斑のとんだ細身の騎獣の前で嬉しそうに屈み込んだ阿選に小狼が注意をしたのだった。

「なぜ?」
こんなきれいな騎獣のどこが?という阿選の問いに答える代わりに、小狼は騎獣の腹を撫でてやるような振りをしてさりげなく屈むと後脚に手を滑らせた。

「こいつはそのうち足に問題を起こしそうだ。すでに一度はなっているのかもしれない。だから売られたような気もする。そもそもこれは迷子になりやすいんだ」
「騎獣が迷子になるのか?」
「ああ、そのくらい鈍いところがあるんだ。見た目のかっこよさで騎獣は買うもんじゃないぜ」

「きみのところには綺麗な騎獣がいたけど」
小狼が暇な時は一頭の美しい騎獣の手入れをしたり、側で寛いだりしているのを知っている阿選は不満そうに言った。
「あれを選んだのは俺じゃないし、芸人には見栄えは人間でも騎獣でも大事なんだ。それにあれは見てくれ以上に働きものなんだ」

それでもまだ納得できないまま、阿選は一応訊ねた。
「じゃあ、どれならいいと思うんだい」

両隣の柵をやはりあまり気の乗らない目で見ていた小狼だったが、あたりを見渡してからふと奥の暗がりの一画をじっと見つめた。
「あれよりはましだが、ここのはまあどれも同じようなもんだな。俺ならここのじゃなくて、あっちの隅のを見てくる」

親指でぐいと指されたそこには、騎獣がぽつんと一頭だけいた。ざわざわと絶えず動く騎獣の気配の中で、店の一番奥の隅の仕切のその一頭だけは身じろぎもせず立っていた。そのため小狼に言われるまでそれがいることすら阿選は気づかなかった。

そこで阿選はその仕切に近づきがっしりした騎獣を眺めたが、獣は尻を向けたままだった。阿選は横で彼の反応をうかがっている小狼に気を遣って、わざわざ仕切りの横へ回ると獣の顔を覗き込んだが、騎獣はやはりこちらを向こうともせず、じっと壁を見つめたままで、短いしっぽを振ろうともしなかった。
阿選にはなぜ小狼がこれを薦めたのかが分からなかった。どうひいき目に見ても他の仕切りの騎獣の方より勝っているとは思えなかったからである。

「なんか、こっちの方がもっと頭悪そうだよ。誰が主が分からないんじゃないか?」
友達の気持ちを損ないたくなかったが、一応遠慮がちに反論した。

「だってあんたは今はこいつの飼い主じゃないだろう」
まあ、言われてみればたしかにそうだけど、と思ったが、小狼はそれ以上何も説明しようとはしなかった。
そのため阿選はこのずんぐりした地味な色合いの無愛想な騎獣と、鮮やかな色の髪が一筋布からこぼれたままの無言の友に挟まれ、未練がましく背後の美しい騎獣を振り返りながら悩むはめになった。

そしてしばらくして様子を見に来た騎商に向かって思い切ったようにその見栄えのしない騎獣を指さした。

商人はそれに少し驚いたようだったが、値段を言う前に念のためという風に尋ねた。
「おうちの方のためだったんですかな」
「いや、自分用だ」

その答えに騎商は少しためらいながら値段を言った。阿選はこの地味な見かけから他のより安いと思いこんでいたのだが、むしろ予想していたふつうの騎獣より高価だった。
思わず騎商の影に立つ小狼をちらりと見ると、少年は琥珀色の目を細めてしばらく騎商を背後から鋭い目で見ていたが、小さく頷いてみせた。

それに促されるように心を決め頷くと、騎商は突然破顔して何本か歯の抜けた口を大きく開けて笑い、若い客を驚かせた。

「旦那、お若いのにこれを選ぶとは、いやお見それしました。こいつは掘り出しもんなんですぜ」
いくらそう言われても阿選はまだ少し納得できなかったが、自分のものとなったと思えば、たとえ売り手の見え透いた口上と分かっていても素直に喜ぶしかなかなかった。
「ではすぐに準備いたしますので。なに手のかからない、本当にいい騎獣ですので」

そう言うといそいそと書類の準備にかかり、騎獣は呼ばれた下働きの少年に引かれて最期の手入れのために外へ連れ出された。
用を済ませていた驍宗が、ちょうど戻って来てそれとすれ違い、残されたふたりの少年にいぶかしそうに訊ねた。

「まさかあれを?」
阿選が頷くともう一度出口を見やったが、一度動けばその姿からは意外なほど身軽だった騎獣はすでに見えるところにはいなかった。
「若い人にはえらく地味…ではありませんか?」

すべてに華美を競い合う王宮の中でも、武人の目から見れば本人の姿形はもちろん着るもの持ち物にまで見た目ばかりに拘っている楽所の一員で、しかも王の寵児でもある阿選があれに乗りたがるとは思えなかった。

そして言われた少年の方でもその言葉にやや大げさに溜息をついてみせた。
「やっぱりそう思う?私は小狼があの騎商とぐるなんじゃないかと疑っているんだ」

さも困ったという風に友人を睨んでいる阿選と、それに対して先ほどの騎獣に負けないほど無表情をつくる小狼をちらりと見た驍宗は、笑わずにはいられなかった。
「しかし、あの騎商は私も友人もよく使っています。その彼が掘り出し物と喜ぶものを選んだのならきっと本当に掘り出し物なのでしょう」

そうかなあ、と言いながらも、阿選は、あれがしっぽを振る事なんてあるのか、と小狼にさらに文句をつけていた。
この朱旌と阿選の奇妙な取り合わせの交流を傍らで見てきた驍宗は、この朱旌を信じてあれを選んだ阿選を、最近今までとは少し違った新しい目で見るようになっていた。

親の身分だけでなく本人の容姿・技量もあまりに秀ですぎ、しかも幼い頃から王の寵愛を受けているため、阿選は他の少年達からは少し間を置かれてしまい、王宮では不思議なほど親しい友達がいないようだった。阿選自身も気立ては良いのにどこかうち解けにくいところがあり、誰よりも共に長い時間を過ごしている驍宗に対しても、いつまでもどこか遠慮がちな頑なな態度を崩さなかった。

そんな少年はなぜかこの生意気な朱旌の少年に会ってからは、彼と対等に話すことがひどく嬉しいらしく、最近は王宮にいてもどこか楽しげで、昨夜は王にまで何かよい事でもあったかと声をかけられていた。そして毎日暇を見つけてはいそいそと出かけるのを見ると、驍宗としてはあまりありがたくないお役目に時間を取られることにはなったが、協力する気になったのだった。

そこへ書類を書き終えた男が、阿選に署名をもらいに戻ってきた。

「あれは実は私が自分用に買い取ったものなんで、店には置いていましたが、見た目の割に高いので売れるとは思っていなかったんですわ。まして旦那のような方に」

書類を見せながらの意外な話しに阿選も少し驚いた。

「それは悪いことをした。売り物とばかり思っていて」

「いやいや、まだ若い騎獣ですので、若い方と一緒の方が幸せにきまってまさあ。店にあるからには売り物ですし。
実はあっしには付き合いの長い老いぼれがいましてな、そろそろ隠居させてやろうとしたんですが、後釜が来たとわかって張り合う気になったのかその後妙に元気になりましてな。そうなるとなにやら不憫で。そこでどうしようかととりあえずあちらを店に出してみたんです」

そう言うと、書類を受け取って確かめながら嬉しそうに言った。

「あれはある朱氏が自分の騎獣にしていたのですが、不運があって手放したやつで。そういう素性なんでいい主人を持たせてやりたかったんですが、旦那なら安心だ。
頼りになるやつですが、主人が変わってすぐしっぽを振ったりはしませんので少し気長に可愛がってやっておくんなさい。慣れれば子猫みたいに懐きますし、どこでも行きたいところへ、他の騎獣が尻込みするようなところでも、ちゃんと連れて行ってくれますぜ」

ふと阿選は、最初彼をぼっちゃんと呼びかけていた騎商がこれを選んでからは旦那と呼んでいることに気づいた。どうやら自分は騎商の目で一人前と認められる選択をしたらしく、それはどんな世辞よりあの騎獣の価値を証明していた。

そのまま手入れの仕方などを聞いている阿選を待つ間、驍宗が小狼に訊ねた。
「騎獣の目利きとは知らなかった。騎商に知り合いでもいたのか?」

「以前朱氏の見習いをしたことがある」

ぽつりと言われた言葉に驍宗も少し驚いたが、どちらも黄朱ならそんなことは良くあることなのだろうと思った。

「そうか、朱氏が合わなくて朱旌になったのか」

悪いヤツではないが、どうも勝手に思い込む男だなと小狼は否定もしなかった。
人、特に黄朱以外の人間の考えることは気にしないことにしていた。