木蘭座 6

前にも話したと思うのだけど、私の父は大師を拝命している。大師というのは、王宮の楽士の長でね。だから私も当然のように唱い舞っているんだけど。

   

先日の騎商行きのような事もあったが、ふたりが一緒に戯楼から出ることはほとんどなかった。
その代わりに時間が許せば練習の後、阿選が持って来る贅沢な點心をつまみながらとりとめなくしゃべる事が日課のひとつになってきた。 移動やそれに伴う用がないので、ここに落ち着くにつれて小狼もゆっくりした時間がとれるようになり、阿選もこの季節は主上が政務でお忙しく、楽所は昼間は暇なんだと、のんびり座り込んでいた。しかし時々夜に宴会があるらしく、そんな翌日は少し眠そうだったが休まず通ってきた。
そういえば学校は何に行っているのかとは聞かなかったが、どのみち夏休みなんだろうと小狼は思っていた。

はじめは共通の話題である芸の話をするうち、少年らしい興味に共通したものもあり、やがて個人的な話もするようになっていた。それでもその日聞かされた事には驚かされた。

「実は私は仙なんだ」
蒸した米と木の実を透明な葛で包んだ宝包という菓子に、その上品さにふさわしくない行儀でかぶりつきかけていた小狼も、思いがけない言葉にぽかんとした。
「仙って、もっとおっさんだと思ってた」

阿選は笑い転げた。そこに見えるのは友達同士の冗談にはしゃぐごく普通の少年だった。
「そうだね。もしかしたら中身は『おっさん』かもしれないよ」
笑いすぎて溢れた目尻の涙を拭いながら言った。

「君にもたくさんの贔屓のお客がついたようだが、私にもこの姿で舞うのをいつまでも見たいというご贔屓がいらしてね、それがたまたま尊いお方だったって事さ」

涙を拭く手の陰で表情が曇り、それに気付いた小狼は尋ねた。
「なりたかったのか?」
「君は小旦になりたかった?」

それに小狼はさらりと答えた。
「冬の寒空に路上で腹を空かせたことなどないだろう。それにおれには彼らとの世界しか生きる場所がないからな」

「飢えたことはないね。でも主上や父親をないがしろにして私が生きて行けると思う?私も王宮でしか生きるすべを知らないんだよ。それからこちらで冬に路上にいれば旦になる決心をする前に凍え死ぬね」
彼らしくもないそっけない言い方だった。

「それに仙になるのはこれは初めてじゃないし、最初の時は仙になりたいか聞かれても答えられないような年だったから」

唖然とする小狼ににやりと笑った。先ほどの言い方といい、彼がそんな笑い方をするとは思わなかった小狼のとまどいに構わず説明した。

「御前での童舞に加わっていた私をご覧になった主上がお気に召してね」

自分の背より大きな蝶の羽を付けて一生懸命舞ったあと、主上に呼ばれた時のことはおぼろにも覚えていない。たぶん何かお褒めの言葉、うまくすればおそばの菓子でもいただけるのかと、わくわくしていたのかもしれない。

朝家を出た時は普通の子供だったが、胡蝶の衣装を着たまま昇仙させられたんだ、と目を丸くしてそれを聞いている仙には一生ならないはずの年下の友に、まるで毎日誰かがそうなっているかのように自分では覚えてもいない記憶を語った。
しかし阿選もこれを自分で語るのは初めてのことだった。彼の生きる狭い世界では知る人は当然知っており、今更わざわざ言う相手もいなかった。しかし淡々と言っているつもりだったが、小狼の耳はその中のかすかな音の揺らぎを捕らえていた。

「子供はすぐ大きくなる。だから教えられてもやっとうまくなった頃にはその舞には向かない歳になっている。仙にしておけばいつまでもご覧になれる。ついでにひとりだけでもまともに舞えるのがいれば、他の子の手本にもなる、とお考えになったようだ」

だから私は覚えの悪い小童なんかじゃなかったんだよ、と固まったままの小狼の気持ちをほぐそうと少し笑いながら言い添えたが、小狼が自分の悪気のない冗談がどう受け取られたか考えいっそう表情を不安げにしたのを見ると、、気にしていないという風に改めて笑って首を振った。
そして細い指でつかんだままの葛餅の柔らかな薄皮が、今は紅の跡もない唇の一歩手前で破れそうになっているのを見ると、屈み込んでぱくりと半分食べてしまった。半開きになったままだった唇が、いきなり近づいた顔に驚き、それからはっと我に返ってぎゅっとすぼんで、おい、と文句を言った。

「私は舞うだけではなく、主上のお側でお菓子をお出ししたりもした。でもお茶は熱くてあぶないからと扱わせて頂けなかった。やけどくらい仙ならすぐ治るのにね」
小狼が一番木の実の多い上半分がなくなってしまった菓子を恨めしそうに見てからあわてて口に押し込むのを見ておもしろがっていたおかげで、そんな言葉も苦々しげにではなく、ただ残念そうに言えた。

「王宮では同じような仕事をしている子供は珍しくもないんだけど、もちろん仙は私だけだから、やがてみんな別の仕事に移り、次々と顔ぶれが代わる中でいつまでも菓子を運び童舞を舞うのは私だけだった」

すこし言葉が途切れて空いた間に、小狼はこんな話を阿選ひとりに語らせるのに忍びなく、何か自分も言わなくてはとおずおずと口を挟んだ。
「大人になったら出来る事がいつまでも出来ないって、いやだよな」

阿選はそれに少し首をかしげて考えてから答えた。
「いくら稽古を繰り返しても身体が幼いとある程度以上には動かせないし、なぜか気持ちも大人になれないのでいい芸が出来ないのが悔しかった。でも時間は過ぎても子供以外にはなれなかった」

そして付け足した。
「でもそんな風に覚えていたと思っていた事も記憶じゃなくて、あとから聞かされた話がほとんどらしい。それも解らないくらいの歳さ」

小狼の頭に浮かんだのは人間の子供というより、よく裕福そうな女性が連れ歩いていたり抱いている狗か猫だった。


「でも…ある日主上も物足りなく思われたようだった。そして仙籍から外され、おかげで僕はまた親元で普通の子供のように遊んだり勉強したりして過ごした」

それにうんうんと頷く小狼を見つめながら、続けた。
「君ももうあと少しで声が変わる」
そう言われて小狼はぎくりとした。それは誰も口には出さないがこの座の全員が恐れている事だった。

「私もその歳になり、声が落ち着くまでの間は唱えないので裏で演奏をするくらいだったが、久しぶりに舞う時が来た」

父親がどれほどその間気をもんでいたかを思い出しながら語った。美声だった少年がつまらぬ声になることは良くあることだが、あと一息で極めるはずの父親の官位は息子の声にかかっていた。
おそらくこの紅娘と一座も同じ不安を隠しているに違いないと、小狼が言わなくとも阿選にはよく分かっていた。

新しい声と姿にまだ自信を持てないまま舞台に立った阿選だったが、王からは最大の賛辞を賜り、これで彼の父親の王宮の奥での権勢は盤石となった。
さらに王は言葉だけではなく、最高と認めた証を褒美として与える事とした。
――主上は私を見てこうもおっしゃった、これはよい頃だ…と

琥珀色の目がいたわるように少し見開かれたのを見つめていたが、ついと顔を背けた。
「主上は満足されている。今のこの歳なら大人と子供のちょうど間だから。どちらとしても…お楽しみになれる、からね」

いつもこちらをにこにこしながら見ている阿選が、顔を背けたまま、それに私もこの歳なら学問でもなんでも充分学べるから退屈はしないよ、とそんな風に自分の生活を語るのを聞きながら、小狼はもうそれ以上は何も言わなかった。
子供に戻ることも大人になりきることも出来ないまま、結局王と王宮に縛り付けられているその姿は、小狼にあまりに似ていた。

「王は大切にして下さるのだけれど、私の身を案じられても正式の身分はないので王宮の者を王宮の外でまで付ける訳にはゆかない。そこで若手の見習いの中から護衛を兼ねた供をお付けになったんだ」
小狼はいつものように外でひとり剣を振るっている男の方を見た。


しかし阿選は小狼の視線を辿ってから首を振った。
「最初は彼じゃなかったよ。……驍宗とは同じ歳だったこともある」
その意味することをとっさに頭の中で理解するには、平凡な人の一生の時間しか知らない小狼には少し時間がかかった。
そしてなんとか話がのみこめたのを見て取ると、 阿選は続けた。

だから警護を代える時、彼にと主上にお願いしたのだ。私には…同年代の友達と言える者は滅多にいないから。

小狼は相手は同じほどこの少年に友情を感じているのだろうかと考えたが、阿選はその心も読んだようだった。

「彼は見た目はたぶんちょっと厳ついし、決して気の回る人ではないけれど、どんな相手も粗末に扱う人ではないし、こんな私の立場も理解しようとはしてくれている。それは彼のような人には難しいとは分かっているだけに感謝している。
おかげで私は王宮を抜け出してこうしてここにも来れるんだ」

ふたりはひたすら剣を振るっている男を見つめていた。彼は甘いものはあまり好みではないようで、並んでいる午點からも少し包子をつまむくらいだった。そして少年らの話にも興味がないようで、稽古のあとは時間を無駄にせずひたすら体を鍛えていた。そのため最近では座員は遠慮してというより、彼の眼光に恐れをなしたのかこの時間は誰もこのあたりで稽古をしなくなっていた。

「でも無理にこの役に留めてきたけど、このままでは驍宗は正式に軍には入れない。私のためこれ以上彼の出世を遅らせるわけにはゆかないし、彼ならいずれ将軍にだってなるだろうと信じているんだ」

言葉が止まりしばらく沈黙が続いた。
小狼は何も言葉を思いつけないのを誤魔化すため、立ち上がると茶を入れ替えた。
季節にあわせて少し冷まそうと、ゆっくりと湯を茶器の間で移し替えるのをぼんやり目で追っていた阿選にはまだ言う事があった。


「大学に?」
急須を持ったまま小狼は聞き返した。
「ああ、やはりもう少し学問がしたいと申し上げたら、大学へ行くのが許されそうなんだ。あとは学生にふさわしい見かけになれるよう仙をまたお返し出来ればいいんだが」

新しい生活を考え、再び穏やかな表情を取り戻した今はいつもの阿選だった。

それを見ながら、お気に入りが官吏になっていつまでも身近にいるなら王としても不満はないだろうからと思ったのだが、さらに意外な話が続いた。
「そのあとは軍に入ってみようかと」
さすがに驚いて、 「戦が好きには見えないが」と言うと、それにちょっと恥ずかしそうに首を横に振った。
「人が争うのを見るなどいやだ」

「それならなぜ?」
おそらく王宮から、そして王から少しでも離れていたいからだろうと、答えは分かっているとは思ったが訊ねた。

「でも軍にいるのは武人だけとは限らない。何か私にも出来る仕事はあるだろう」
とっさにどう言おうかと迷ったようで、とりあえずそう答えたが、じゃあ進軍喇叭でも吹くのかとでも言いかねない小狼の顔に、阿選は少し困ったようだった。
一方で小狼はそれを見ながら俺ひとりも説得させられないのに王や親をどうやって説得するつもりなんだろうと思った。

そこへやっと言われたのはさらに意外な答えだった。
「そうだね、たとえば驍宗と働きたいからだ、というのはどうだい?」
そしてその返事に驚く小狼の様子に笑った。
「変かな?しかしあの王宮でも一緒に働いてみようと思わせるような人などそうそういないよ」

たしかに立派な男になるだろうとは思ったが、別に彼の部下になりたいとは思わなかった。それは彼の能力を疑ったり、人格への好き嫌いからではなく、自分が本質的に一匹狼だからだろうと考えた。

「剣が上手いとは思うが…戦に行くなんて考えたこともないし。でも同僚や上のやつで将来を決めるのか」

言ってからこの少年が上に立つ王の気まぐれで将来を変えられ続けて来た事を思い出した。

「宮勤めというのは、狭い世界でね。仕える方や同僚によってまったく違う仕事になる。一生ついてゆける上司を持てた官ほど幸せな者はない。その歓びは一生を官として生きる者にしか分からないだろう。何しろ永遠に終わりのないのが仙なのだから。 」

なるほどな、と小狼は思った。何年務めるか解らないほど長く生きて働くなんてご苦労なこったと思った。俺なんかずっと旦をしろと言われりゃ寿命が来なくても嬉しすぎてすぐ死ぬぜ。

「それに王宮に居れば、昼間はそこでの仕事をして、夜になれば結局今と同じように唱だ舞だと引っ張り出されて、今との違いは酒を飲むかどうかくらいの差だろうな」

そして笑った。
昼間帳簿付けをして、夜舞台を務める君みたいだね。

「だから一度外へ出る事の出来る仕事をしてみたいのだ」

小狼は残った菓子の中で一番大きいのを頬張ると、まったく王宮なんてやっぱり朱旌と変わらないじゃないかと、とそんなところに一生近づかなくて済む自分を慰めた。