「天綱そのものじゃないけど、それに近い舞を知っているよ」
あの日帰る頃になって阿選は突然小狼にひとつの舞を舞った。
阿選は舞台のある時間には王宮の用もあるらしく、それでも時々見に来てくれた。二階の桟敷は官座といい、その上手の二つ目あたりは役者がすぐ目の前で亮相(見せ場)を演じ、退出する時の旦がよく見えるということで一番の上席だったが、そこから少し奥まった他の客からはあまり目につかないところに座っていた。
一方で朝の稽古の方は、天綱についての演目はとうの昔に終わり、本当ならもう来る用はないはずであったが、まだ分からないとか覚えられないとか適当に口実をつけて相変わらず毎日のように通って来た。
実際ひとつの新作をつくるとなると小さな作品でも大変なようで、とてもこの夏には仕上がらないだろうという事だった。
「次ここに来た時のお楽しみだね」
そう言われてもそれは何年先かわからないほど先に違いなく、小狼はいくらなんでもそのころまだ朱旌をしていたくなかった。
することがなくなった阿選はとうとう王宮の子供に教えるための練習だと言って、逆に小狼に楽器や舞の手ほどきまで始めた。
手で隠れてしまいそうな華奢な笛を持たされ、音の拡がってしまう天幕か大道芸が主である朱旌にはこんな上品な音しか出ない楽器には出番はないぜ、と言いつつ小狼は吹いてもなかなか音の出ない楽器と格闘し、俺は武旦になりたいんだけどね、とぼやきながら、旦角の舞以上に動きの少ない雅で柔らかな舞を舞うはめになった。
阿選は阮咸などをつま弾きながら、ぎくしゃくした腕の上げ下ろしやかすれてとぎれがちな笛に合わせて教えたが、稽古となると、それも教える側となると、さすがに鞭で叩いたり怒鳴ったりはしなかったが、座のどの芸人にも負けず出来には厳しい師匠で、王宮の楽人というのもけっこう大変なんだと小狼は彼の幼い弟子に同情した。
そうして上唇が痺れそうになるほど練習してなんとか笛が鳴るようになり、舞台でどすどすと足音をたてなくなったと褒められたものの(屋外がほとんどで客が飲み食いしながら見ている朱旌の舞台じゃそんなものは誰にも聞こえないと抗議したのだが)、肝心の剣の方については訊ねられた驍宗はじろりと見てただうなっただけだった。
そのため良くなったのかどうかははっきりしなかったが、阿選の通訳によれば、とてもいい出来だということらしかった。
しかも練習が長引くにあわせるように、阿選はさりげなく驍宗に言った。
「武旦って剣だけじゃなくて、槍とかも使わなかったっけ。それに娘が脚や素手で戦う場面っていいよねえ。小狼のも見たいなあ」
おかげで小狼はその夏の最後まで、驍宗から剣に加えて槍や矛といった一通りの武技、はたまた素手での体術まで学ぶことが出来た。
唄や舞と同じようにいずれも舞台には欠かせないもので、戯子なら筋斗(バク転やトンボなど)と共に子供のころ最初に叩き込まれているはずの基本の功だったが、始めるのが遅く、その後の座の状態から小狼はむろん心得がなかった。
当然これらにも秀でていなくては剣だけ振り回しても武旦とは言えないのだが、とにかくあるもの出来る事で工夫をするしかない木蘭座の座長としては剣を習えるだけでもありがたいと思っていたので、思いがけない事だった。
阿選はここに遊びに来たいだけではなく、どうやらそれを知ってそのために時間稼ぎをしてくれているようで、驍宗も当然明らかに怪しいとは思ったはずだが、諦めたように相変わらず黙々とよけいな親切や手加減抜きで教え続けた。
「紅娘の顔にでかい痣が出来ても俺のせいではないからな」
蕩子(格闘の型)を教えながら、驍宗は阿選には聞こえないように囁き、返事をしようとした小狼を軽く吹っ飛ばした。
「だからこの時は何があっても腹から力を抜くなと言っただろう」
今度はわざと阿選に聞こえるように言って澄まして見下ろす相手を小狼は睨み付けながら立ち上がったが、不思議と驍宗には何度投げられても蹴られても怪我はしなかった。
そんなある日、なかなか進まない新作の話をするうち楽所の演目の話になった。
彼が今作ろうとしているのは、王宮の大きな儀式の時に演じられる予定であったが、天綱を通して日々の行いを省み、王を中心とした国の仕組みを理解させようというものだった。しかも主な対象を、それらを系統だって学んだ事のある諸官ではなく、時間をはずして列席を許された諸官の子弟や下級の者などとしたため、それらにわかりやすくと朱旌の演目までも参考としたのだった。
阿選の話によると、嘗ての王宮の楽人の演じるものには、こういった儀式的教訓的な作品が多く、日常的にもただ娯楽としての音曲を奏でるだけではなく、時に直接的な言葉を使わずさりげなく王にその行いを諫めたりすることもあり、それは彼らの役職上、無礼があっても大目に見られ許されたという事だった。
今は単なる気晴らしのお役目ばかりだけどね、と言いながら、彼はこの曲に新たな伶官としての道を模索しているようでもあった。
そしてふと立ち上がり両手をかざしたのだった。
舞だよと言われたが、初めはただ静かに立ったまま唱い始め、いつ舞になったのか気付かないほどで、途中から僅かに持ち上がり揺らぐ手に合わせて、いつもより堅い声が響いた。それは朱旌の曲を唱うのとは全く違っていたが、実はいつもの王宮での唱い方とも異なるものだった。
―― 天欲す人皆安寧にあらんことを……
人目を引くためにひたすら派手に大きくと演じてきた小狼の声とは違い、阿選の声は小さくすればするほどその魅力を増すようで、引き寄せられるものがあった。そして変声前の半分地声の小狼や、独特の裏声を使う旦角とはまた違った中性的なその発声は誰の耳にも触りよく響いた。
天空に陰落ちて地を雨が濡らすに
その過小なるは草木は潤せず
過分に降るは地崩れ糧となるものを流し失わせん
小狼がこうした王宮の演目を聴くのは初めてだったが、毎日毎日口うつしで演目を教え、それを復唱する阿選のを聞くうち、知らず知らず小狼の演じ方も代わってきた事に本人だけが気づいていなかった。
阿選の口を通せば朱旌の出し物とは思えないほど節回しも発声も洗練され、それを聴きながら、請われるままにまた同じところを繰り返すうち、自然とそれを身につけたのだった。
ある日座員と舞台で稽古をしていると、ふと周りがこちらに耳をそばだてている事に気づいて、どこか間違ったかとあわてて尋ねた事があった。しかし嘗て彼にそれを教え込んだ老芸人は、首を振った。
「いや、ただ聴いていただけだ」
妙な言い方をするなと思ったが、他の者もただこちらを見ているだけで、しかしいずれも満足げな様子に訳が分からないまま、稽古を続けた。
驍宗から多くのものを学んだのは分かっていたが、教えたはずの阿選から逆にそれ以上のものを学んでいたと気づいたのは、彼と別れた後だった。
そして今、阿選はその本領であるもののひとつを演じていた。
初めての曲牌(曲調)で単純そうに見えながら、実は耳慣れぬ難解な言葉があちこちに含まれ、それに複雑な音程の節がついているため小狼には聞き取れないところも多かったが、天を治める者から地を治める者への何かを詠ったものとだけはおぼろに解るそれは、確かに天綱の一節のようであり、違うようでもあった。
やがて歌が途切れると、それに代わってついと片足が前に滑り出て、大きく振りかざした腕はそれを囲む全てを取り込もうとするようで、そのまま僅かな場所に留まったまま四方に身体の向きを変えつつ舞い続けた。
その足はざらざらした舗装の土間をまるで磨き込んだ石の床であるかのように滑らかに滑り、上に積もった砂にすら音を立てさせなかった。
意味も理解できないまま、いつしか小狼はその世界に取り込まれ、その眼から舞人は薄れ、黄海が浮かんだ。
どこまでも続く樹海から抜けたところに岩場があり、そこからさらに続く地平線の彼方におぼろに浮かんだ五山、黄海で生きる朱氏にも立ち入る事の出来ないそこは、土色と緑の繰り返しの大地とは包む大気も違うようで柔らかな色合いに霞んでいた。
そこに何かがいても彼には関係のないことで、そんな遠くを眺める余裕もなく、足下とあたりの獣の気配だけに気を配って生きる毎日だった。
しかし今、遙か遠く離れた街の真ん中で、黄海にいたあのころ以上にそこに近づいていた。
懐かしいあれほど戻りたい故郷でありながらも、そこにいることに不安を覚えて小狼は友人の姿を求めたが、やっと見つけたそれはなぜか遠く宙に浮かんでおり、立ち上がっても手を伸ばしても届くところには思えなかった。
小狼はぞっとするのを感じた、その思うままにならない白昼夢は嘗ての芳での媚薬の体験を思い出させたからである。身体はやはり動かせず、自分の過去におびえながら小狼は座って天空で舞う阿選を見ていた。
そうして小狼の意識を遠く遙かな地に飛ばしたまま舞は続いていたが、やがて静かに舞納めると、阿選は膝を折ったまま祈るように眼を伏せ、そのまま面を、そしてゆっくりと半身を倒し地に伏した。
まだその姿の背景に黄海を配したまま、小狼はそれを惚けたように見ていた。
その目の前でゆっくりと起き上がった阿選の額にはびっしりと汗の粒がついていた。小狼も汗をあまりかかなかったが、阿選もいつもの彼ならどんなに剣を振り回してもほとんど汗をかかなかった。
獣は人の汗の匂いに反応する、特に恐怖からの汗は妖魔には餌の味と知る朱氏は妖獣に気づかれないように、妖魔を呼び寄せないように、見習いとなった子供に汗をかくことすら許さなかった。
そして同じく楽所でも楽器を奏でる手を滑らせ、化粧や衣装を崩す汗は嫌われた。
幼い頃から理由はそれぞれ別でも汗を押さえるように育てられてきた少年たちは不思議と汗をかかなくなっていた。
阿選が小さく身震いすると、小狼の身体も動くようになりよろよろ立ち上がった。
「何だったんだ、今のは?」
押さえきれない恐れからつい尖った声になってしまったが、懐からくたびれた手巾を取り出すと、遠慮をするのも忘れて差し出した。
その声の鋭さに放心していた阿選も驚いたようで、友人を見上げながら立ち上がった。
年上の阿選はもともと小狼より頭ひとつ以上高かった。
本来の体格以上に他人に思わせる驍宗とは逆に、阿選は今までその身長差をあまり見せつけなかったが、その時初めて小狼は見下ろされているのを意識した。
「これは王の前だけで舞うもので、しかも普通なら一度もお見せすることはない」
阿選はそれだけ言って一気に大きな息を吐くと、こだわりなく布を受け取ると額に当てたが、その手が小さく震え続けているのに小狼は気付いた。
「なぜ?」
王宮の舞なら王のためだけの舞というのがあっても不思議はないだろうが、この唯ならない様子は単に難しいための緊張だけとは思えなかった。
「これは王に何か直訴したい事があるとき、あるいは王を諫める時にお見せするもので、自分の命を賭けて舞うんだ」
相手はしっとりと汗で湿った布を畳み直しながら答えた。
「物騒な踊りだな。この国の王だけに見せるものなのか?」
「これはそうだけど、どの国にも同じようなものがあるらしい」
「そんなものを教えて貰ってもなあ」
「別に覚えさせるためじゃないよ。ただ王宮で舞うというのはこういう意味もあるんだって事を知って欲しかったんだ。綺麗なだけではないんだ」
その言葉には彼の仕事への誇りがこもっていた。
「
だからこういう曲は伴奏は付かない、奏者に一緒に咎めを受けさせる事になるかもしれないから。独りで舞って独りで歌うんだ」
そしてぽつりと言い添えた。
――聞いたことはないか?王を諫めようとして意に染まない唱を唱い舞った者が、怒りに触れて王宮を追われ身分を剥奪されたのが最初の朱旌だっていう説を。
小狼は知らなかった。古老の朱旌なら知っていたのかもしれないが、にわか朱旌の彼は聞いたこともなかった。
その代わり、唄に呼び起こされたイメージによって、小狼は今度は広い堂の中で、ただひとり王の前で舞う阿選を思い浮かべた。
黄海の風景と違って、彼が入ったこともない王宮はイメージとしては画くことが出来ず、その前に座する王がどんな男かも分からなかったので、目に浮かんだのはただ広い空間に対面するふたりの男の影だった。
ふと阿選を見て尋ねた。
さっきの舞は誰かに見せた事があるのか?
阿選はそれに首を横に振って答えた。
「これは父から何回かに分けてひとりで習ったが、練習もひとりでした。そういえば父が手本として演じたのは見ていないし、私のも通しでは見て頂いていない。確かに変わった稽古のやり方だったが、おおっぴらに学ぶ物でもないしと思っていたけど」
彼にとってもいつもなら忘れているような演目らしく、習った時の事も言われて初めて思い出したようだった。
「見せるなと言われた訳ではないけど、君がこの国の人や王宮の人間だったら見せない。知る限り最後に実際にこれが舞われたのは、何代も前の王の時代らしいし」
つまり、あれを見た者がみんなあんな気持ちになるのかどうかは阿選も知らないって事か。舞のためなんだろうか、阿選の舞だからなのだろうか、と小狼は考え込んだ。
「そんなのは舞わずにすめばいいな」
それだけ言った。
「主上は立派な方だし国もこうして豊かだ。舞う機会はなさそうだね」
なんとかいつもの柔らかな表情を取り戻した阿選は答えた。
そしてそのあとその舞の事はそれ以上ふたりとも口にしなかった。
そして後にひとりで思い返せば、そのゆっくりした動きは雅でありながら張りつめた力が籠もっており、驍宗の剣を初めて見たときにどこか似ていたと気づいた。
王と国を守るためのものだと言って朱旌に教えるのをいやがった彼の剣と、やはり王と国のぎりぎりの時のために用意された舞はどちらも、持てる力で小狼を圧倒したようだった。
そしてその歌は小狼の記憶の奥に意味も分からないままその多くが残った。
たった一度聞いただけなのであり得ない事、そう思ったが、他でそれを聞いたはずもなかったし自分で思いつける唄でもなかった。
乙師と学び始めたころ、その意味を尋ねたことがあった。
黙ってそれを聴いていた遠甫はひとつひとつの言葉の意味は教えたが、なぜか決してその歌全部の意味するところは教えなかった。