木蘭座 8

「ああ、そうだ、座長」
練習を終えて帰り支度をしながら、阿選は少しくすぐったそうに呼びかけた。
「この座の紅娘に仕事をひとつお願いしたいのだけど」

   

ある日、阿選の父親の邸で催される宴に呼ばれた。
そこには今回はすでに別の戯班が招かれており、それとは別に阿選の希望で小狼ひとりだけが呼ばれたのだった。

その戯班は旅芸人の木蘭座とは逆に、こちらへ巡業に来た柳の戯楼付きの一座で、小狼もその名声だけは知っていた。

阿選には当日随分早めに来るようにと言われ、小狼はあの貰った旄馬〈ぼうば〉に牽かせた一人乗りの駈車で早々に出かけた。
行ってみると、そこは凌雲山の裾にほど近い北の外環途沿いの邸宅の並ぶ一帯で、それらしき場所にはその中でも一際大きな館があり、本当なら胡同〈路地〉で仕切られているはずの区画をつなげたらしく、反った二層の青瓦がのせられた壁が見渡す限り途切れなく続き、白壁に夏の日差しが照り映えて通りに偉容を誇っていた。これが阿選の家なのかと高くそびえた門楼の前に立てば、小狼もつい圧倒されそうになった。


阿選の父が今の地位についてすぐに新築された私邸には、普通ならひとつだけの院子〈中庭〉が、いくつも連なり、支度のためにと案内されたのは、一番大きな院子の隅にあるごくごく小さな房だったが、窓からはその院子の一方に造られた舞台がよく見えた。

知らない座と一緒の楽屋かと思っていたので、ここがひとりだけと解りちょっとほっとしたが、作法通りまず香を焚いて房を清めた。
そのとき宴の準備に駆け回る人々の声や物音に混じって鐃〈どら〉の音が聞こえ、解きかけた荷物を置いて窓からのぞくと、まさに舞台稽古が始まるところだった。

〈よろい〉や化粧はなかったが、道具類はそのままのようで、背に挿した四本の大きな旗は率いる軍勢を意味し、片手に広幅の長い剣、もう一方の手に棍棒を持った武生の立ち回りは雄々しく、それを素手でかわしながら受ける相手の動きも鮮やかだった。
武具は舞台用に殺傷力なく派手に作られてはいても、その動きは本当の武術と同じで、子供のころから鍛えられた朱旌には武官や兵に勝る腕を持つ者も少なくなかった。公の保護なしの旅暮らしにはそれは舞台の外でも身を守り役に立っていた。

その本物の芸と技の迫力に背筋がぞくそくするのを止められず、彼らと同じ舞台に立つのかと怯んだが、どうせ自分は今回はお情けで呼ばれた前座と腹をくくり、その代わり根こそぎ欲しいものを盗んでやろうとその一画から見続けた。

「いい目をしている」
夢中になって覗いている横で声がした。振り向くと阿選だった。
いつも練習に来るときは彼としては随分簡素にしているようだったが、今日は自宅での宴会とあって、まだ若い身体に豪華な衣を重ね、裾が重たげに床を擦っていた。

「どうだい、これが当代一流と言われる座だよ。あちらでは内廷供奉も許されているそうだ」
「王の御前で演じるってあれか?」
「うん、今日の出来によってはこちらでも父がその手はずを整えることになっている」
なるほど王宮の歌舞を司る彼の父の試験を兼ねているのか。

阿選は改めて彼等を見直す小狼の目を横からのぞき込んだ。
「その琥珀の目にどれだけ残せそう?」

その言葉に小狼はなぜ自分が呼ばれたのか、それもこんなに早くからだったのかの理由に気付いた。阿選はこれを彼に見せるために呼んでくれたのだろう。この房もこっそり見るにはおあつらえ向きの場所だった。

どこの座も同じ時間帯に公演している上、人の少ない小狼の座ではたったひとりの花形の彼が抜けて芝居見物などするわけには行かなかった。また他の戯班の本番以外を見るのを偸戯といい、本番以上に勉強になるのだが、よほど親しいか紹介でもなければこうした有名な座は許さないのが普通だった。

だからこのお膳立ては単に仕事をひとつ貰ったという以上に価値のあるもので、芸の上達に懸命な彼への、阿選からの心づくしに違いなかった。

「見たもの全部、と言いたいけど、無理だろう。それに俺ひとりで演じるものでもないから、特にこういうのはね」
阿選の意向が分かったので遠慮せず視線は舞台の方を向いたまま答えた。
舞台をかろうじて勤めている木蘭座の年寄りにこんな動きは無理だった。せいぜい派手な旗を持って周りに立たせ場を飾るくらいだった。

「でも今はおまえ次第の座だろう」
そう言ってから阿選は呟いた……羨ましいな。

舞台では今度は主役は敵陣に切り込み、四方を取り囲まれると、敵の一人から取り上げた長い槍を振るって周りの敵兵をなぎ倒していた。そしてさらにはとんぼをきって逃げる相手に何度もその槍を突き立てるなど、全部の役者の技と連携があってこそ可能な危険と紙一重の見せ場だった。
そのため本番ではなくとも力を抜くことも道具を省略する事もせず演じているのだろう。おかげで本番さながらの芸を見ることが出来、小狼には幸いな事だった。

一区切りついて今度は数名の小さなやりとりの場面に代わった。
夢中で見ていた小狼も窓から離れ、先ほど言われた言葉を考えたが、こんな屋敷に住み戯班を呼べるような相手に自分がうらやましがられても…。

「その年で一座を動かせるなんて。そして自分の思うところへ行けるなんて」
阿選も窓から離れると、小さな房の壁に背をもたせかけて気怠げに小さな床几に座った。そして手を伸ばして置かれていた小狼の細く長い羽飾りを手にとると、ひらひらと揺すりながら小狼の代わりに答えた。
「私は自分の身すら決められない」

背の高さほどもある細くて長い翎子は、雉の尾羽で出来た二本一組の戦いの衣装の頭飾りだった。動きにあわせて揺れるだけではなく、役者はそれに両手を添えて様々に動かし、感情を表現するのだった。
おそらく初めてそれを手にした阿選が無意識に動かせば、小狼には見慣れた羽根は友の心の内を暴き、同時にそのとても初めてとは思えぬあしらいぶりにこの少年の芸の才を見せつけた。

「別になりたくて朱旌になった訳でもないし、座の行く所など決まり切っている。俺が決めれることなんかたいしてないぜ」
……そう、何もない、自分で好きに選べるなら、こんなところで化粧なんかしているものか。そう思いながら、小狼は手に持った紅の練り物をむやみにかき混ぜた。
「大師の息子だし、才能があるし、歌舞の好きな王のお気に入りで。いくらでも幸せになれるんじゃないか」

言われた阿選の手の中で、羽飾りの先がくるりと輪を作って恥ずかしがっていた。
「きっと甘ったれているって、そう思っているんだろう」

小狼は先ほどはああ言ったものの、彼が言い立てたそのすべてが阿選を縛り苦しめている事を今ではよく分かっていた。それでもそう言うことで彼にそれを彼自身のために生かして欲しかった。

「思うようにはならないって言うなら、誰だってお互い様って事さ」
静かに答えた。
「帰るところのあるあの一座や王宮の舞手と違って、田舎を渡り歩いてなんとか食いつないでいる年寄りや半端者ばかりの座だせ。引き受ける物好きもいないからやっているだけの俺はただのお飾りの座長さ」

物憂げに羽根で頬を撫でていた阿選は小狼の鼻先にそれを突きつけ、鬱陶しそうにそれを避けたため目の前に晒された細い首筋をくすぐった。おい、やめろよと挙げた手より早く、ぽいとそれを小狼の膝に放り出すと一言言った。
「嘘つき」
そして立ち上がると出て行った。
「みんな君を頼りにしているじゃないか」

膝で受けたふわふわした羽根を撫で付けて揃え、壺に差すと小狼は呟いた。
「それも辛いぜ」




小狼はいわば前座なので夕刻前の早い時間が出番だった。それは招いた方も招かれた方も主立った顔ぶれは未だ姿を見せず、主である父親の代わりに阿選が挨拶をして迎えた客が席に落ち着くまでの間、雰囲気を盛り上げるためだった。
これから夜遅くまで続く宴を前に、早々と飲み始める客や最近の都の噂話に花が咲く中、美しく飾られた舞台に小狼は立った。
背景にはいつもの舞台用の幕ではなく、客を迎える時のためのめでたいとされる言葉の書かれた幕が掛けられていた。

館第の院子に作られたその舞台は、今公演しているのよりはもちろん小さめだが、その分豪華さは勝り、王宮を除けば鴻基一と言われていた。
壁にも柱にも彩色が施されているのは当然だが、柱のちょうど目の高さあたりにはこの国の特産の玉石の破片が嵌め込まれていた。
常設の舞台の設備の立派さにやっと慣れた小狼もこれほど贅沢な舞台に立つのは初めてで、おそらく嵌め込まれた石一粒ほどの価値もないのではと思われる衣装の安っぽさが目立たないかと心配になった。

しかし優れた舞台は、演じ手の味方だった。
きらきらと瞬く玉の欠片は、赤い衣を纏った愛らしい花旦姿に輝きを加え、背後の壁は軽い唱声を甘く響かせた。そして南の国から取り寄せた床板は激しい動きにも足を滑らせる心配がなく、安心して思い切った動きが出来ると練習の時に気づいていた。

演し物を見ようと堂室から出てきて観客席に座った客もいれば、戸口に立ったままこちらを見ている者もあり、始まったばかりの宴会で客はてんでに楽しんでいた。

それらに囲まれて小狼は可憐な少女の甘く切ない恋の唱をいくつか唱って、宴にほどよく華やぎを与えると、その後半には一転舞台一杯に衣を翻し双剣を振った。
細い手首をくるくると回して剣を目に見えない敵に突きつけ、追いかける敵から片足を軸に回転して逃げる若い女武者に、宴は一気に盛り上がった。
花鈿の代わりに頭からたくさん垂らした柔らかな房飾りが、その動きにあわせてぽんぽんと弾み、刺繍を施したの裾が追いかける敵をあざ笑うかのようにひらひらとはためくと、赤い衣の裏地の黄色が一瞬花が咲いたように舞台のあちこちで閃いた。

驍宗の力強さにも阿選の洗練された動きにもまだまだだったが、今までの黄海で妖魔相手に力任せに振り回して覚えた剣によるものとは、格段に差のある武戯の出来上がりだった。


途中から席に座る客も増え、堂の奥にいた客も見えるところまで出て来るなど終わった頃には院子の観客席はほぼ満席になっていた。
その客に向かって息の上がったまま礼をしている時、入り口での出迎えからなんとか抜け出した阿選が好〈ハオ〉と叫んでいるのが見えた。
しかし下がるときにもう一度見直したが客の中に驍宗は見つからなかった。

なんとか終えて一応満足した出来とはいえ、柳の座は食事中のはずで彼等に見られる心配がないので内心ほっとしていた。しかしたとえ食事が終わっていても彼らが決して遙かに格下と見なしている小狼を見に来ないのも分かっていた。

同じ黄朱でも、朱氏は組む人数や猟果に差があっても特にお互いに差をつけることはなかった。朱旌になって小狼が気づいたのは、朱旌同士で上下があることだった。
今日の柳の戯班も小狼を招いた側のちょっとした気まぐれと見なし、戯子としては無視することにしたようで、小狼も礼儀上彼らが完全に引き上げたのを見届けてから練習をしたのだった。
彼としても、いくら研鑽しても始めたのも遅く本当ならこんな立派なところに呼ばれるような芸ではないことはよく分かっており、同業者に見られるのは、座長で花形とされているだけにいやだった。

邸宅だけではなく、宴そのものもさすがに一国の都の高官の催しとあって、今までのような地方の顔役や役人のとは桁が違った。人数から言えば地方でもっと多い場合もあったが、末席に座る者でもそれまでの宴なら充分上座に座っていた者に違いなかった。
たくさんの奚が明るい鶸色の揃いを着て忙しく給仕として立ち働いていた。

個人の宴や催しに呼ばれる堂会戯は朱旌にとってありがたい大事な仕事だったが、小狼は普通の舞台以上に嫌いだった。その理由はこの舞台の後だった。
今回も当然のように宴の中に混じって酒を注ぎ、話し相手をし、このように広い屋敷の時は、引っ込んだ一画でひとりあるいは数名を相手に小さく唱ったり少し舞ったりした。
柳の一座は舞台が終わるまではこちらには加わらないので、彩りに呼ばれた芸人はいまのところ小狼ひとりだった。しかし余所なら珍しがられる花旦も、多くの劇場を持つ街の世慣れた客達には珍しくもなく、それなりに振る舞えばいいだけだった。


上座で父親らしい男の横に座って本日の主賓の相手をしていた阿選は、途中で客の頭越しに小狼を手招きして父親に引き合わせた。

「おお、なかなかの人気の一座だそうだな。客には目先が代わって喜んで頂けただろう」

近くで見たここの主は見た目はとても阿選の父とは思えない若さで、驍宗より少し上、せいぜい二十代後半にしか見えなかった。
見た目は若くとも、そして男らしいきりりとした美貌でありながら、近くに寄るようにと言われて背後から屈み込んだ小狼に杯を差し出した時、その手の動きに何をどうしたのか一瞬艶っぽいものが零れ、小狼は一瞬どぎまぎして酒をこぼしそうになった。
品があってもどこか艶があるのは、やはり芸の世界で身を立てている者だからだろう。
しかし注がれた酒に軽く口をつけてこちらをじっと見て話す姿には隙がなかった。

大師といえば王宮では決して最高位ではなく、もちろん表の政に口出しや権限は持たなかったが、もともと政や表向きの地位にはなんの興味も持たない男だった。
今の王宮では表と同じだけ、いやそれ以上に奥に活躍の場所があった。
人並みはずれた歌舞愛好の王の元で詩歌管弦すべてにぬきんでた才を発揮し、その息子も幼い時から王のお気に入り、そのため単なる楽師の長に留まらず朝の裏の実力者と言われていることまではむろん小狼は知らなかったが、居並ぶ客の様子から権勢のある家だとは分かった。
力のある者財力のある者をかぎ分け、庇護を求める相手を探し出す力は、賤しいといわれようと朱旌が生き残るために必要不可欠なものだった。

「で、おまえが座長も務めておるのか?これはまたずいぶん可愛い座長だな」
「はい」

それしか答えない小狼を、むしろ好ましく思ったようだった。酒席では相手がしゃべっている限り、最低限相槌を打てばその方が喜ばれてこちらも楽と分かっていただけなのだが。

「では王宮の気取った舞いやすました女官に飽き飽きしたお客ばかりゆえ、愛想良く酒の相手でもしてやってくれ」

それは酷いおっしゃりよう、と周りの女官や宮中からのお客から媚びるような笑いを添えて抗議の声が上がった。

その声に囲まれながら、まあ俺の芸なんてこんな奴らから見ればそんな程度のものだなと小狼はこちらも意味のない愛想笑いを浮かべ、衣装に相応しい仕草で礼をすると下がろうとしたが、さっそく横に座る者から酌をせよと声がかかり、そちらへ向かった。