ある日舒覚は傍らの麒麟をちらりと見てから何かを取り出すと沙参に与えた。
「何でございましょうか?」
小さな畳まれた布を拡げながら訊ねた。
「これは・・・」
「帯よ」
「帯ですが、これはもしや」
「ふふっ、そう里木用よ。
ね、綺麗でしょ、私の色よ」
確かにそれはこの王の貴色である鮮やかな青であった。
いったい何をお考えかと景麒は主を見た。とかく少しこちらに臆する様子を見せがちな若い王は、今日は最近この官といる時に見せるいたずらっぽい顔で機嫌よくこちらの様子を伺っていた。
「だって、台輔がおまえに結婚を勧めたというなら、やっぱり次は子供を里木に願うのでしょ?」
帯を前に唖然とする二人を前に舒覚はご機嫌だった。
「これに刺繍をするわけだけど、おまえひとりではできないでしょ?大丈夫よ、これから教えてあげるわ」
美しい艶のある絹を、まるで蛇のように恐ろしがっている有能な官を見て、彼女にもある不得手な事を自分が助けられるという滅多にない楽しみに、わくわくしているようであった。
「結婚となりますと、相手が必要ですので、恐れながらいかに台輔のご命令といえすぐというわけには。まして子となると王の元でお勤めしていては無理かと」
沙参はなんとかそう言った。
「ああら、大丈夫よ、おまえなら相手になりたがっている男はいくらでもいるはずよ。それに子供なら、ふふっ、もいできたらすぐに私のところへつれていらっしゃい」
「は?」
「私は王宮中を走り回っているおまえと違ってここに閉じ篭っているんだから、子供なら見ていてあげる。人手なら有り余っているんだから遠慮することはないわ。ああ、男の子かしら、女の子かしら、楽しみだわ」
何もない空中を、まるでそこに駆け回る幼子がいるかのように両の指を組んで見上げている王の姿に、どう言っていいのか答えにつまり、さらに横から感じる台輔の剣呑な視線を浴びるに至ってはさすがの彼女も途方にくれた。
「そのような事、天帝がお許しになりません」
やっとの事で景麒は声を落として言った。
せっかくの気分に水をさされて女王はむっとした顔を向けた。
「親となる資格を認められた夫婦にだけ天は子をお授けになるのです。そのような、自分で育てる意志も持たぬ、しかも夫婦としてのつながりも怪しい者には決して子は授かりません」
育てる気があるかどうかはともかく(そんなものはさらさらなかったが)、夫婦については沙参の日頃への非難に違いなかった。
結婚が無理だからこそこのような生き方をしていることが判らないのかと、たとえ蓬山を下りてわずかな年月とはいえ、未だ人間の生活を判ろうともしない神獣が腹立たしかった。
「育てる気があっても授かる事を願うことも出来ない女はどうするの?」
無言で心の中で睨み合う二人に、さきほどまではしゃいでいたのが嘘のように沈んだ声が尋ねた。その声にはっと王を振り返った彼らの目に映る王の顔色は突然くすんだかのようだった。
「これは私がいずれ自分の卵果のためにと織ったものよ」
そう言いながら、白い指が沙参の持った帯に触れた。
「でも、王になったらもうその機会はないわ。
どうして彼女にあげてはいけないの?私は彼女のこどもが見たいわ。誰が夫になるのか知りたい。それはいけないこと?先に沙参に結婚を勧めたのはおまえじゃない。婚姻に相応しくない、そして親にもなれない者におまえは結婚を勧めたの?」
ぐっと言葉に詰まった景麒とうつろな目で帯を見る舒覚を前に、沙参は自分の事はさておき、なんとか台輔との間を取り直し王の気持ちを励まそうとした。
「私のような者にも、そのうちよい縁があるかもしれません。
今はなにより主上のお力になる事が一番ですが、王に私の手が必要でなくなった暁にはそれも考えてみたいと存じます。
そして天帝のお眼にかなって、人並みに子が授かることがございましたら、お遊び相手に連れて参りますので」
大司寇として全秋官を率いる夢に較べれば、子供の手を引く自分などあまり想像したくない将来の姿であるが、そうとでも言うしかなかった。
しかし先程までのはしゃぎぶりを思い返すと、この若い女王が心底普通の女性としての幸せにあこがれている事はどうにも押さえられない事であり、それをただこの台輔のように押しつぶすだけでは、いずれ行き詰まるのではと思えた。
こうなったら、彼女の子などという考えはさっさと忘れて頂いて、どこかから適当な子供を連れてきて気晴らしの相手をさせてもいいのではと思えた。
しかし、そんな考えを見透かしたように、言葉が返ってきた。
「そうね、それを待つしかないわね。でもきっとよ。他の人の子供じゃいやなの。おまえの子供がいいの」
少し表情を明るくした声に、娘はとても台輔と視線を合わせる気になれず、早々に退出した。
まさか握りしめて王宮を歩き回るわけにも行かず、拝領した帯はとりあえず懐深くに仕舞った。
そのまま、落ち着かない気分を収めようと、そのような時には一番のある男のところへ向かった。
官としては有能だったが、王宮での主流である派閥に組みしなかったので、彼女に較べてかなり出世は遅れていたが気にする様子もない男だった。
気まぐれな彼女を拘束もせず、しかも決して離れることなく、気が付けば彼女の相手としては一番古い相手となっていた。そのため彼女も心許して話が出来たので、このような時に会うには相応しい相手だった。
いきなり訪ねてきたしかも興奮気味の彼女を、いつものように少し眉を上げただけで何も言わず部屋へ通したが、抱き寄せて胸元にふれたとたん目の前に落ちた帯にはさすがに少し驚いたようだった。
慌てる娘が屈もうとするのを止めて、自分で拾い上げて確認する間に驚きを押さえるとさりげなく言った。
「やっと私と一緒になってくれるという事だろうか」
「ちっ、違うわ」
慌てて否定する娘をじっと見ていたが、やがて手を伸ばして崩れた胸元をきちんと合わせ直しながら言った。
「独り身の遊びの相手なら他に何人いてもよいと今まで我慢してきた。そしてこれからも私は君が望むならそのひとりで甘んじるつもりだった。しかし帯を結ぶ事を考える相手がいるなら、私とはもうこれまでだと思って欲しい」
帯を握りしめたまま、娘は途方にくれた。
王からのものでなければ、この疫病神のような帯はすぐに火にくべてやるのにと思った。女王はとんでもない妄想にとりつかれ、台輔の機嫌は損じ、その上この男を失おうとしていた。
たしかに今までは相手の心の広さに甘えてきたと反省すべきだったが、一人に執着するのを意図的に避けて来たのでやむを得なかった。
つき合う相手が誰でも良かったわけではなく、もちろん皆それぞれに良い相手ばかりであった。その中では彼は物静かで地味な存在であったが、これだけ長く続いたと言うことはたぶん自分にあった相手だったのだろう。
結婚や子供というのは相手に関わらずそれ自体受け入れ難かったが、この男を失うのも耐え難く、王の部屋での事は口外はしないことにしていたがやむを得ず話した。
「お寂しいのだな」
口を挟まずただ時々少しおかしそうに眉を上げながら聞き終わると言った。
「ええ、まあそれは解るのだけど。それなら誰の子だっていいじゃない」
「主上はおまえになってみたいのだろう。
男以上に仕事も出来、その気になれば普通の女としての幸せも得ることが出来る。美しさも聡明さも持ち、恋人にも不自由していない。
どれも今の主上には持てないものだ。
その結果であるお前の子を抱くことで、自分も自由で幸せな女であると思いこもうとされているのではないだろうか」
その言葉を聞きながら、娘は渋い顔をして手に持った帯を見下ろした。他の事ならなんでもして差し上げるのに。しかし、これは・・・。
「私にはやっぱり出来ないわ」
そう言うと、帯をやや乱暴に傍らの卓の上に乗せて、男に腕を投げかけた。
男はそれを受け止め、しかし娘の頭越しにその帯を残念そうに見つめた。
夜更け、胸元にぐっすりと眠る彼女を抱いたまま、男はしばらく考え込んでいた。
やがて娘を起こさぬようにそっと臥所を抜けると、隣室に置いたままになっていた帯を手にとった。
そして引き出しに仕舞うと、また暖かい決して自分のものだけになってくれない身のところへ戻った。