のちに景麒は、この時期の事を繰り返し思い出した。
あの有能だが私生活に慎みのない側近が疎ましかった。それでも主は王宮に来て初めて楽しそうに日々を過ごし、不安を払拭しきれない彼の目にもいずれはと期待させるものを見せた。
跪いたときの自分の懸念はやはり間違っていたと、そう思えるのがなにより嬉しかった。

だがそれは長くは続かなかった。長くはなかった舒覚の治世の中でもとりわけ短い期間だった。


ある日沙参は靖共に呼ばれた。
呼ばれることに不思議はなかったが、何かいやなものを感じたまま、夕刻人気のなくなった役所に呼ばれた。

靖共は礼をして入ってきた娘を、じろりと見るといきなり言った。

「王とは相変わらずうまくやっているそうだな」
「おかげさまで」
「まあこちらもおかげで、滞りがちだった書類が流れるようになり助かっておる」

それから意味ありげに訊ねられた。

「家は堯天だったな」
「はい」
「親御は息災か?」
「父は私が仙になる前になくなりました」

彼女は王宮内に立派な官邸をもらっているが、忙しくて家にほとんど居ないので、母親は元の家で気楽に暮らし、時々彼女が訪ねてくるのを楽しみにしていた。

「ほう、では母上はおひとりか」
話がどこへ行くのかと聞いていた。


やがて一刻を過ぎたころ、沙参はそこを引き取った。
いつも微笑みを浮かべてつやつやとした頬に血の気はなく、両の手の拳を握りしめていた。
そして急に山を下りると実家を訪ねた。

「まあ、どうしたの休みの日でもないのに。ずいぶん顔を見せてくれないからさぞ忙しいのだろうと思っていたくらいなのに」
母親は平日に訪ねて来た娘に驚いたが、素直に喜んだ。
「ご無沙汰しておりましたので、近くまで来たので今夜は泊めて戴こうかと」
感情を見せずに話す事には慣れているので、娘もごくさりげなく答えると、うれしそうにあれこれ指図して娘のために準備をさせる母の横顔を見ていた。



彼女の存在を疎ましく思う者がいることは最初から分かっていた。
初日に見たような裏に何か思惑のありげな件はあれが最後ではなく、その後も毎日のように続いた。
王の側で働くというのはたしかに誇るべき地位のはずだが、今の王の側に立って働くというのはまた別で、多くの敵をつくり主力の派閥に逆らうことに他ならなかった。
彼女も今までそのような事態を避けながらここまで官として勤めて来たのに、今回ばかりはなぜか自分の事を忘れて王のために一心に働いた。そして下官も徐々に入れ替え、やっとこのごろ王も多少なりとも働きやすくなられたかと思っていた。
親しい人からは、それとなく注意も受けていたが、なぜかそれをやり抜けるという気がしていた。
その冷静な判断を狂わせたのも、やはり王の気に囚われた者の狂気のひとつだったのか。



翌日女王は訪ねてきた靖共と話した後、沙参を呼んだ。人払いされたそこでどんな会話が交わされたのかは、二人とも何も誰にも語らなかった。

ただ、舒覚の興奮した怒りの声が長く続き、最後は泣き叫んでいるのが隣室まで聞こえた。そして顔色をなくした沙参が出てくると、そのままそこを去り二度と戻らなかった。

そのあとの王のただならぬ様子に景麒は何度も舒覚に問い質したが、結局なにも聞けなかった。

娘は二度と舒覚の側に上がることはなく、冢宰府預かりになった。表向きは単なる官の移動であったが、代わりの者はことごとく退けられ、やはり長くは続かなかった。そして沙参が揃えた官はすぐに王の意を入れぬ者に入れ替えられた。

日を置かず再び執務は立ち行かなくなり、それを冢宰以下六官から追い立てられ、心の拠り所もない舒覚の気持ちは荒んだ。
本来こうなるはずであったところへ流れが戻って行ったとしかいいようがなかった。ただ一時短い春があったというだけに思え、その短い春はすぐに皆の記憶から消されて、今度の女王もまた駄目だという雰囲気だけが王宮を満たした。


官府の奥に籠もっている沙参にも、書類の流れひとつで舒覚の様子は手に取るように解った。

王宮の奥の方角から舒覚の悲鳴が泣き声が聞こえるような気がした。
それになにも出来ないでいるのが辛かったが、たったひとりの家族を犠牲には出来なかった。冢宰の罠はあまりに巧妙だった。

いつか、きっと彼らを倒して王を助けてやる、と娘は心の中で誓った。ただそれまであの女王が持つとは彼女にも思えなかった。そしてその時の王宮で彼女の叫びに答えてくれる者はいなかった。女王を押さえつけ封じ込めることにほぼ成功した靖共らに逆らったものは次々と追い出されるか閑職に回され、心あるものも沈黙を守るしかなかった。

いっそここを辞めてとも思ったが、たとえ離れていてもここにいれば王の様子がわかると思い留まった。王気を帯びた者にとって王から離れる事がどれほどつらいものか、そして少しでも近くにといかに未練がましく固執するかは麒麟を見れば明らかであった。


王宮へ来て初めて信頼できると信じた人を失い、舒覚は彼女の代わりとして現れた一人の男の官に頼ろうとしたが、これも冢宰らの仕組んだ事であった。
しかし最初の失望は心の弱い女王には周りが想像した以上に傷が大きく、その男には心を開くことなくすぐに疎んで近づけなくなり、慌てた冢宰が用意した他の誰も彼女の心を捕らえることは出来なかった。

やがて拠り所もなく人を信じなくなった彼女は、ひとり籠もるようになり人の溢れる王宮にいる事すら厭うようになった。そして最後に唯一人でない半身にすがった。

その間の舒覚の行動は逐一冢宰に報告が届き、それに一喜一憂する彼を娘は目を背けることも出来ずに見続けていた。

あの冷たい表情と物言いの麒麟が、はたしてどれだけ王を受け入れ包むことが出来るのか。人が男に求めるものをどれだけ分かっているのか。二人のことを初めて耳にした時、彼女はそれを案じた。そして舒覚のために祈った。男と会う彼女を非難した彼に、いったいどれだけの事が出来るのかと危ぶみながら。

そしてついに女王の乱心が進み女は堯天追放となると、母と遠くの地方に移り、慶に吹き荒れる嵐の間、堯天を恋しがる母親の愚痴を聞きながら、地方のつまらない仕事をした。やがて慶全土からの女人追放令が出るとそれすら与えられずにただ隠れて過ご すしかなかった。
その間一番彼女を苦しめたのは、生き甲斐であった仕事が出来ないことでも国を追われるかもしれないことでもなく、国に満ちる女王への呪詛の声であった。それはたとえ耳に聞こえなくとも彼女を切り裂き傷つけた。


そして、舒覚が蓬山へ去った事を知った。


それに対する喜びに満ちた声はこんな山奥の村にも響き、それに耐えられず、それが聞こえない山奥へ行きひとり過ごした。
涙も出なかった。涙も出ない自分は舒覚と共にすでに死んだのだとわかった。
膝を抱えてうずくまり、木々のざわめきにも耳をふさいで一日山の中で座り続けた。
おそらくは王宮にも堯天にも彼女を惜しんで泣く人も心から弔う人もいないはず。
今更舒覚に何もつくすことの出来なくなった 彼女はただ自分の心を弔いの供物として亡くなった王に捧げた。

やっと王宮へ帰れるはずであったが、舒覚のいない王宮には戻る気もせずぼんやりと過ごした。
やがて偽王が立った時は怯えた母に引き留められて動けなかった。
慣れない土地で、女はみんな殺されるという噂に怯えるうちに、あれほど気丈で明るかった母はいつか心も体も病んできた。娘と共に仙になっていたはずであるがその内からの衰えは防げなかった。

いらいらとするしかない毎日に、やがて新王の話が聞こえてきた。また女王だったが偽王を延王の助力を得て自らの力で倒したという話に心が沸き立った。
二度とあの冢宰達の言いなりにならない強い王が立ったのだ。女王の涙は二度と決して見たくなかった。弱って堯天までの旅が出来ない母親がすがるのを振り切り、今度こそ官として力一杯王を助けて働けると勇んで堯天に戻った。

しかし、そこで見たのは、再び官に相手をされず孤立する新しい女王の姿であった。

朝議での揚げ足取りは変わらず、ほくそ笑む冢宰の姿も同じであった。
そして、再び彼女に女王に仕える任務が命じられた。今度は取り入る事が目的で、しかも適当な時に王を裏切るという予定まで決まっていた。

以前の事を覚えている者がいるので無理だと何とか断ったある日、回廊を歩く女王とすれ違った。海客のため慣れぬ重い衣の裾を持てあましているようで、国事どころか歩くことすらままならないようであった。内心はらはらしていると、とうとう段差で裾を踏んで倒れた。咄嗟に駈け寄り掴んだ手はざらりと荒れていた。
針仕事を楽しんでいた舒覚の柔らかな白い手とは違い、日に焼けた後のまだ残るその手は剣を振るうという噂通りの手だった。

「あ、ごめん、ありがとう」

ためらいながら言われた礼は、王なら決して言わないはずの言葉であった。案の定付き添っていた女官は不快そうに眉を顰め、それに気づいた陽子は手を離して平伏した沙参の方を見下ろしたものの、それ以上の言葉をかけることを諦めたようで、裾を持ち上げるとそのままとぼとぼと歩き始めた。

力強い手とはうらはらのその歩き方は、こちらに来てからの彼女の立場を表していた。それでもその手は彼女が王座の厳しさとそれを自分で戦い取る事を知っている事を示していた。

思い切ってそっと王の部屋へ忍び込んだ。寵臣であった彼女は誰にも見とがめられないで近づける入り口を知っていたが、あの日以来ここへ来るのは初めてであった。

入る前に気配を探っていると、その隠された扉越しに若い男の声が聞こえた。そのため声をかけるのを止めて待ったが、小さな羽ばたきの音から人ではなく鳥の声と気づいた。

盗み聞きするつもりはなかったが、その心地よい声と真摯な内容に思わず耳をすましてしまった。
どうやら雁の学生のようであったが、こちらに親しい者などいないと思っていた彼女にこのように話しかける相手が居ることは驚きであった。そしてその鳥の語る内容からこのような友人を持てるなら彼女に必要なのは時間であり、さらに多くの味方であると思った。

二度と二度と王を蓬山に追いやってはならない。しかしこのままではこの女王もそう遠くない将来倒れるというのも確実に思えた。その手助けをすることはひとりでは出来ず、仲間が必要だった。
王宮内の友人や恋人は、今の朝ではやはり表だっては動けない者ばかりであった。冢宰に睨まれ弱みを掴まれていたのは彼女一人ではなかった。

そして、その日は来た。
母親が亡くなったという知らせが届いたのである。
一晩ただ泣き明かした。予王が身罷ったあの日から初めての涙だった。しかしそれを過ぎるともう涙の一滴も出なかった。その母親のために自分がしてきたことを思えば、それ以上死んだ者を追悼するよりも、彼女を守るために予王にしたことを償う機会は今しかないと思ったからである。