官吏としての彼女の優秀さは申し分なく、舒覚に手際よく必要な事を教え、滞っていた政務は徐々に動き始めた。
それによって舒覚は女王として自信とまではゆかずとも、王としてやってゆけるのかもという希望は持てるようになった。ただ退屈なだけだった朝議や奏上も娘の薫陶のおかげで少しずつ理解できるようになり、おかげで王座に座っているのも前ほど苦痛ではなくなった。
しかし
側近としての彼女は決して王を甘やかさず、決して手を抜かせなかった。
もしかすれば舒覚はやがてその厳しさに苦痛を感じ、一時期の喜びも過ぎればあとは途切れることのない政の繰り返しに飽いたかもしれなかった。
しかし几帳面な官吏としての一方で、私生活では人生を楽しむ彼女のやや奔放な性格がそれを補った。
沙参は王宮に出仕して結婚の難しい立場を長年も過ごすうちに、官には珍しくないことであったが短い恋を繰り返すようになっていた。ひとりでいることの寂しさからつまらぬ落とし穴に陥る事を避けるためで、それも仙としてのひとつの処世術であった。
そして美しく闊達な彼女は、その地位や競争相手にも怯まない勇気ある崇拝者には事欠かなかった。
まだ不老の世界を理解できずにいた新王は最初それに反発も覚えたが、やがてそれが彼女に活力を与え生き生きとした輝きの源となっている事に気づくと、反対に応援すらするようになった。それはその時の舒覚にはむしろよい刺激となり、まだまだ屈託の多い毎日に華やぎを与えた。
しかしそんな娘の生き方は景麒には全く理解できないもので、仕事上の功績は認めながらも、それは臣下である官吏としては当然の事と思うに過ぎず、それ以上に女王に悪しき影響を与えるのではと危惧していた。
見つけた時の姿から沙参などという名を与えたと言われたが、いったい小司寇ともあろう者が真っ昼間草むらで何をしていたやらと、まさかその想像が当たっていたとも知らず苦々しく思っていた。
女王の心を掴みかねている麒麟にとって、自分の理解できない事に主が心引かれ共感を持つことへの焦りと不快感は耐え難いものであった。
ある日書庫のひとつに入った景麒は、奥の一画から漏れる声に気づいた。明らかに片方はあの娘であった。それは初めてではなく、そのような時は静かにそこを立ち去ってきた景麒も度重なる事にさすがにもう見逃せなかった。
鋭い音を立てて手に持った大きな綴りを卓に置いた。
それが発した音は、天井の高い庫内に彼の想像以上に響き、篭もった余韻は周りに積み上げられた書にも吸いきれずいつまでもその中を漂った。
ひどく長く思えた時のあと、再び静まりかえった書庫の奥の棚の陰からそっと花色の髪が覗き、景麒の瞳よりもっと濃くて青みがかった紫の瞳が続いた。
景麒に気づくとさすがに少し慌てて出てきた。
「何かご用でしょうか?」
「ここは王宮で、しかも王の使われる書庫である。慎みのないことは控えられたい。処罰ものであることは解っておろう」
「申し訳ございません」
話の途中で書棚の裏側を通って男が抜け出すのに気づいたが、二人とも無視した。彼女より高位の男などそうはいないはずであり、いずれにせよ景麒にとって彼女の行動こそが問題であった。
ここの鍵を持つのは王と台輔の自分だけ。おそらく王の寵を良いことに大事な鍵をこのようなことのために持ち出したに違いない。しかし王の体面を守るため、それを表だって罰することが出来ないのが歯がゆかった。
「主上のお側にいるならあまり浮ついたことは控えて欲しい。
主上は素直なお方でありお前のことも気に入っておられる。そのお前の迂闊な行動で主上のお名に傷がついても困るし、なによりどれほど悪い影響をお与えするかを懸念しておる。もっと身を固くはもてないのか」
この王宮でそんな事を考えるのはこの麒麟くらいだろうと娘は思ったが、おとなしく了解したと答えた。
その後苦言を聞かされた舒覚は渋い顔をした景麒が御前を下がるとすぐに沙参を呼び寄せ、ころころと笑った。台輔の懸念はすでに手遅れで、女王はすっかりこの娘の恋が楽しみのひとつとなっていた。
「あの書庫は王宮でも一番退屈な書ばかりがしまわれているので、行く者などいないと思ったのだけど。景麒なら用事もあるのかも。邪魔をさせたわね」
「いいえ、あのようなところにいた私が悪うございました」
王宮のあちこちで恋の戯れがあるのは珍しいことではなかった。その上忙しい彼女には官邸に戻る時間もないほどで、僅かな時間で会うとなるとあんなところを使うしかなかった。
最初舒覚に会った時も、秋官府の仕事が詰まってあまりに長く会えなかった相手がじれたため、あそこで約束していたのであった。
自分が長く引き留めるために彼女の時間が少ない事を知り、遠慮する手に無理矢理書庫の鍵を押し付けていた舒覚は、あやまる彼女に気にするなと言った。
「あまり邪魔が入るなら、なんなら後宮を使ってもいいわよ。どうせ空いているんだから」
いつもだがなぜこの娘相手なら、こんなにとんでもないことも思いつけるし笑えるのかと不思議だった。
「お戯れにしても畏れ多いことでございます。そんなことをおっしゃったと聞こえただけで、私は台輔のご命令を受けないといけなくなります」
「あら、まだ何か言われたの?」
「私があまりに身持ちが悪いので、どこぞの誰かとさっさと結婚するように言われました」
舒覚は榻にもたれていたがそこから落ちそうになるほど笑った。
「ああ、それはいいわ。そして食事を作って縫い物をするのね」
このなんでもこなす有能な官が、家事に類する事がまったく不得手だというのは舒覚にはたまらなく面白いことであった。
その利発さを愛する親の元でずっと学業優先に育ち、しかも人手のある自宅から通学していたので、家事などする機会もなかったのである。
実のところ湯一杯沸かすのにも何人もの人手が必要なこの世界では、それらの仕事をする無数の人がおり、たとえ家事がどんなに得意でも、大学も出た官が自分で家事をすることはありえなかった。その妻子ですら、召使いを指図するか楽しみとして料理の真似事をするのがせいぜいであった。
この娘にも、邸には主を待つたくさんの雇い人がいるはずであり、所領として封じられたこの州のどこかの土地へ戻ればさらに多くの召使いがいるはずであった。
「そう、それに子供も育てないといけないわね」
たとえ子が生まれても、これほど上位の官吏ならばやはりひとに育てさせるものと分っていてもからかわずにはいられなかった。
娘と同じく裕福な商家で育ったとはいえ、母親や姉妹と家事を手伝い手仕事を楽しんでいた舒覚にとって、軽口のようでいながらそれらはなにより自分が慣れ親しんで戻りたい生活であった。
眉間に皺を寄せてそれを聞く娘は心底嫌そうだったが、難しい政務をこなしながらその合間に恋人と会い、その気になれば家庭も持てるというのが舒覚には堪らなくうらやましかった。
話を聞くだけでなく彼女の身体に入り込んで一日過ごしてみたいとすら思った。
最初はさりげなく恥ずかしげに、娘の恋の成り行きを尋ねた。
――この間のあの相手とは、今でも会っているの?
やがていつか、そのすべてを聞きたがるようになった。
いくら臣とはいえ、そこまでたずねるのはつい先日まで親元で慎み深い生活をしていた舒覚の感覚では許されないとは判っていたが、王となって将来に渡って女らしい生活が出来ないと分かるにつれて感じるようになっていた若い娘としての寂しさが、話を聞くことでひととき癒されたのである。
娘もいつも寂しげな王が頬を赤らめて自分の話に聞きほれるのを見ると、とんでもないことと分かっていてもつい話してしまうようになった。
やがていつのころか男の腕に抱かれるとき、娘はいつも舒覚を意識するようになっていた。
最初はあったことを言葉で伝えられるように、相手の発したことばや触れ方、そしてそのとき自分のこころで身体で感じたこと、そのひとつひとつを意識の上に乗せ忘れないようにと記憶に留めるようになった。
そのうち女王をいっそう喜ばせるため、それまで気に留めることもなかったちいさなやりとりなどに、ちょっとしたじらしなど罪のない罠や企みを加え変化を楽しむようにもなった。
そして耳元で囁かれた言葉に相手が驚き焦り、やがてそれが深い歓びにと至る、そんな様子を男と同じように耳元でこっそり聞かされた女王は、美しく紅を引いた口元をいくら白い指先で押さえても笑い声ともいえない声を押さえきれずに身を震わせた。そして耳を塞ぐとできる限り女王らしいと思えるいかめしい声を作って言った。
――沙参、おまえって、まあいけない娘だこと。その男も私の民なのよ。
そしてまたその続きをねだった。
やがて、沙参は自分の肉体そのものに舒覚を重ねるようになった。
目の前の相手は舒覚の目ではどのように見えるか、喜ぶ相手かをごく自然に考えた。
そして馴染んだ肌、今まで思うままに触れ合っていた肌が全く新しいものに思え、そのため指先が恥ずかしげに震えるのが止められず相手に不思議そうにその手をとられたこともあった。
どうしたのだと心配げに尋ねる相手に説明する事も出来ず、ただ黙ってその胸に顔を埋めた。
そしてついにはいったいどれほど前かもすぐには思い出せない程に昔の身体に戻った。最初のたった一枚を男の前で脱ぐことに恥じらい、自分ではどうにもならず、さりとてそんな自分を助けて欲しいと相手と視線を合わすことも出来なかった。そして女の指より太いそれで触れられる肌が熱く、心地好さどころか苦痛すら感じ、この先がどうなるかと褥の上で身を強張らせるその姿は決して演じたものではなく、相手を戸惑わせもしたが、長い仙の暮らしに変化を求めるのは珍しい事ではなかったので、そういった何か遊びのひとつかと思われた。
そうして得たものを舒覚に伝える事で二人は時を共有し、王は王座の孤独からの無聊をひととき忘れた。
――そうしていると暖かいでしょうね。
――はい。
――そう……
恋多きとはいえそれなりの節度ある人生を過ごしてきたはずの彼女は今や二人分の恋をしていた。不慣れな王朝を育てる大任に誇りを持って全力を尽くしながら、それ以外は女としても嘗てない衝動に駆られ、毎日が彼女の中を駆け抜けた。
のちに振り返れば、それもまた舒覚の未熟な青い王気のためであったかと。
舒覚がまだ自覚もせず使い方もわからなった王としての力が、その力の恐ろしさを知らぬひとりの娘に向けられ発散され、それなりに舒覚は均衡を保っていたのだろう。その後順調に彼女が王として成長すればそれは民や政へと向かうはずの力であった、しかしその時の舒覚の心の中には、捨てきれない若い女性としての夢が行きつくあてもないままに残っていた。
ご自分でも恋はお出来になりますでしょ?と言ったこともあった。
しかし舒覚は首を横に振った。
――結婚できない身で恋だけするっていう考え方がまだ出来ないの。それに今は王としての勤めが出来るようになって認めてもらうのが精一杯。私がそんな事が出来るようになるのはまだまだ先。
だいいちどこにその相手がいるの?と言って手で周りを示した。
――だから今はおまえの話だけが楽しみだし、それで十分よ。
そしておおらかに笑って言った。
――さあ、仕事はここまで。
話していた夏官のところへ行ってらっしゃい。
でも忘れないで、私が彼が昨日あなたに何を言いかけたのか知りたがっていたことを。
もちろん何をしたかもね。さ、早く。