その手だてを求めて国中の動きを探り、麦州にたどり着いた。
麦州に謀反の影有りとの噂は以前から絶えずあり、その多くは敵対する相手から意図して流されたものと思われたが、中央の意向に逆らってでも独自の方針で治めていることも確かであった。

麦州といえば嘗ての学友の二人が治めているところ、お互い忙しく音信は途絶えがちであったし、特に予王の混乱以来は会うこともなかった。偽王の乱の時のことも後で聞き、浩瀚らしいと思ったのは覚えていた。
靖共らに睨まれているのにも気づいていたが、他の反冢宰派に較べれば地理的にも離れている上、抜け目なく立ち回っているようで、靖共も決定的には潰し損ねているようであった。

しかし麦州がおとなしくこのまま言いなりになるとも冢宰の手を免れるとも思えず、王宮内の敵をほぼ倒した靖共が次に狙うのは麦州と思えた。

こうなればまずは旧友である柴望に声をかけようとしたが、あまりに長い年月の空白があり、いきなりこのような話を持ちかけてもこの時期すぐに彼らの信頼を得ることが出来るか疑問だった。
さてどうやって彼らと連絡をとろうかと考えているところへ、麦州牧伯の交代の噂が聞こえてきた。
今までは州の言いなりの牧伯ばかりだったようだが、新たな候補として名の上がっているのはいずれも今までとは明らかに種類の異なる者ばかり、いよいよ麦州潰しが始まったことが分かった。
となれば彼らが何をするつもりにせよ、今必要なもののひとつは見て見ぬふりをして時間稼ぎをしてくれる牧伯ではないかと思い、幾人かの信頼できる相手に相談した。以前の恋人のひとりがそれに手を打ったが、決まりかけた人選に難癖をつけて決定を遅らせたのが最高の成果で、代わりに思うような人物を選ばせるところまではとても無理だった。

「牧伯なんて、良くているだけで胡散臭がられて煙たがられ、悪けりゃ殺されるで、まともな奴ならなりたがらない職なのに。まして麦州の牧伯といえば、やる気のなくなった位だけは高い輩の隠居所だったはず。誰がそんなものになりたいのか」
頼まれた男は不首尾への言い訳にぼやいた。

実際牧伯は本気で勤めるなら割に合わない仕事とされていた。しかし今回の麦州の牧伯は浩瀚追い落としの前哨と見なされ、次期州侯への道にも近いとなれば、野心ある者には何としてでも得たい地位であった。そのためいつになく競争は激しかった。

今まで麦州から賄賂を渡されて人選を操っていた官吏も今回ばかりはその競争の激しさに全く手が出せないようであった。

沙参は牧伯の人選介入が無理なら自分が侍官のひとりとして麦州に行くことも考え始めた。たしかに王宮を離れれば何も出来なくなる。しかし今ここに残っても何も出来ないことは明らかであり、そちらの方がまだしも何か手伝うことがありそうだった。

そんなある日、内々に仁重殿に呼び出された。
こちらに戻ってからも、景麒はすれ違うことがあっても決してこちらを見ようとはしなかっただけに、何ごとかといぶかしんだ。そしてなにより恐れたのは、彼女の顔を見たくないので王宮から出てゆけと言われるのではないかということであった。今それを受け入れる訳にはゆかなかった。

そんな不安を抱えて訪れた豪華な堂室に、神獣はひとり座っていた。
その白い顔は何も語らず、彼女の恐れをいっそうかき立てた。

「主上のお側で働いて欲しい」

挨拶も前置きもなしにぽつりと言われたのは意外な言葉であった。

「私が・・・でございますか?」

「そう、あなたに頼みたい」

「・・・出来ません」

「なぜ?」

「なぜと言われても・・・嘗て私が予王に何をしたかは貴方が一番ご存じのはず。その私になぜ頼まれるのでしょうか?また同じ事をするとは思われないのですか?」

「思わない」

景麒はそれしか言わなかった。天意を伝えるためのみに存在する麒麟にとって、他者へ説明をする必要など感じなかったからである。

この女を恨んだことがないわけではなかった。しかし何か裏で事情があったと思われた。
そして先代の主が生き生きとしていたのは、この女が付いていたほんの短いあのころだけであり、あれがあのまま続けば今も王は予王のままだったかもとすら思えた。

そして今の女王に予王と同じ道は二度と辿って欲しくなかったが、このままでは同じ結果になるのではと思わずにはいられなかった。しかもそれを防ごうと彼が試みたことはすることも言うこともすべてが一層陽子を追い詰めるだけになると分かり悲しかった。そして未だ前王の記憶に囚われている彼には、何をやってもうまく行かなかったという心の傷が大きすぎてそれ以上は身動きが取れなかった。

結局迷ったがこの女を呼び戻すことにしたのだった。

「冢宰にもまた女王の元で働くように言われましたが断りました」

「だめ、ですか」

溜息が聞こえた。この溜息に予王は悩まされていた。もし今の女王に同じ事をしているのであれば、この朝の先はやはり危ないかもしれず、急がなくてはと焦った。
そしてはっとした。彼こそが今一番必要とする助けの出来る相手であることを迂闊にも見過ごすところだったのに気付いたのである。

景麒は、いきなり平伏した相手を驚いて見た。

「何か?」

「お願いがございます。私を麦州へ派遣して頂けないでしょうか?
それが私に出来る主上の力になることと信じております」

「麦州・・・浩瀚の命か?」

「いいえ、彼とは長い間話しもしておりません。今何をしているのかも解りませんが、彼らを守ることが主上の力になるように思うのです」

「しかし、今ここで一人でも主上のために働いてくれる者が必要なのだが。麦州は遠すぎる」

娘は顔を上げるとしっかりと景麒と眼を合わせて言った。

「必ず主上の力になる者をここへ連れて帰って来ます。必ず。
そのためにも牧伯を私がお願いする者に任じて頂けないでしょうか?そして一緒にわたくしをお送り下さい」

なぜ麦州の牧伯がここで関係するのか解らず、景麒は戸惑った。

「冢輔は政治に直接の指図は控えるもの、官位の任命に口出すのは……」

青い瞳に燃え上がった紫の炎が、宝玉のような静かな紫の瞳を睨め付けた……この期に及んでまだそのような、綺麗事を。

「では、このまま主上が蓬山で身罷るのをお待ち下さい」

景麒の瞳がきらりと光り美しい唇が一瞬ひくりと震え、開きかけて、止まった。

身体の自由も利かず横たわる中で王気が遠くへ去り、やがて消えて行くのを為す術もなく横たわったまま感じていた麒麟と、王気のそばに留まることも許されず遠く離れたところでそれが絶えたことを知り、山中でひとり泣き明かした寵臣は睨み合った。
妖魔を折伏出来る瞳が睨むのにも怯まない相手の姿に、彼女が持つのがどれほどの決意かを知った。

おそらくあの時王を心から悼んだのは、ごく僅かな親族を除けばこの二人だけだったかもしれない。そしてこの王宮で今彼女を追憶するのはやはりお互いしかいないことを改めて感じた。薄倖の女王を挟んで、ある時は対立し、ある時は微笑み、あの短い時を共有したという思い出は、今同じ苦しみを抱える次の女王に繋げられるのではないだろうか。

彼としては単に政務に不慣れな陽子を、経験のある彼女に助けてもらいたかっただけであった。
しかしその時初めて、はたして予王は単に政務のことだけを助けられたのだろうかという気がした。

二人が交わす娘同士の他愛のない雑談、特に自分に隠れて(のつもりだろうが麒麟にはしばしば筒抜けになることもある)二人の間で囁かれた聞くに堪えない色恋の話。景麒にとっては耳にするのも腹立たしかったあれが予王を支えていたひとつだったのではと気付いた。

そして青い帯、あの時は内心取り上げて捨ててしまいたかったあの里木のための帯。
あれは予王が子も持てぬ王にした自分を恨んでいる、そして王宮や自分から逃げたがっている象徴にも思えて憎かったが、今思い出す彼女はあれをこの女に下すのが本当に嬉しそうだった。

それを思い出して、彼は今やっと気付いた。

予王はこの娘に人としてやり残した夢を託し、それによって自分は王として生きる一歩を踏み出し始めていたと。
決して王座から逃げようとはしていなかったと。



睨み合った二組の眼の戦いは紫の眼が静かに閉じられることで終わった。

「わかった。なんとかしてみよう」

「ありがとうございます」

娘は全身に込めていた力を抜くと、床に額を擦り付けるようにして礼をした。

「おまえを牧伯になれるよう執り図ろう」

「私でございますか?」

「あれがなければいずれは卿伯にもなっていたはず。お前が自分で牧伯を勤めよ。ただ、今の主上はお心が私に掴めぬゆえ保証は出来ぬが」

それが麒麟としてどれだけ認めるに辛い事か、ましてそれを臣下に漏らすなど、それだけでもこの台輔を知る彼女にはいかに切羽詰まった状況かが分かった。麦州も王もどちらにも一刻の猶予もないと改めて思った。

――主上、きっとお力になるものを連れて参ります。

しかしその時彼女の心に浮かんでいたのは緋色の髪の女王ではなく、涙を堪えて唇を噛み締めていた藤色の髪の女王だった。

◇第二章 終◇