-赤楽四,五年前後 金波宮仁重殿-
浩瀚jrシリーズ、冒頭1「ぼくをだきしめて」と2「語り」の間で、陽子が子供を王宮に連れ戻って浩瀚に会わせた直後のエピソードです。
未読あるいは忘れたわという方はお手数ですが、先にこちら(別窓)をお読み下さい。

陽子の元を下がった浩瀚はその足で仁重殿へと向かったが、早朝の突然の訪問にもかかわらず、すぐに台輔の元へと通された。
あたりにはこの時間なら身支度にいるはずの女官も見かけず、見れば景麒はすでに支度は済ませていた。どうやら自分の訪問は待たれていたようで、彼が台輔でなければ昨夜のうちにむこうから押しかけて来たかもしれない。

陽子は何も言わなかったが、この台輔があの子を黙って迎え入れるとは思えず、さっさと引き取るよう言われるはず。浩瀚もそれに異存はなかったが、一応事の顛末を言っておくべきかと、なぜか思ったのである。

浩瀚と景麒の間は彼が冢宰になってからのこの年月、対立らしきものもなく穏やかなものであった。陽子を王として立たせる事に尽くす彼の姿勢は台輔としては不満のあろうはずがなく、たまに意見の相違があってもそれは冢宰として厳しい処断を王に勧める時に、麒麟ならではの反対を唱える場合などに限られ、個人的な交流は皆無であり、一方が台輔であればそれは当たり前と言えば当たり前であった。

それでも浩瀚は景麒がずっと何かこちらに訊ねたくとも口に出しかねている事があるように感じていた。それは沙参に関する事ではないかと推測してはいたが、景麒にとって彼女に関することは不幸な記憶に結びつくもので出来れば触れたくはないはずであり、また浩瀚の婚姻についてはその後表だって口にされることもなかったためか、結局今日に至るまで景麒は何も語らなかった。



無言でひとり座る台輔の前に立った浩瀚は、嘗て沙参がこれと同じ経験をしたのを思い出した。
あの時景麒が彼女の望みを叶えて麦州に送らなければ、今問題となっている子も生まれなかったはず。それを知って無念がっているのだろうか。

沙参を呼んだ時のように、前置きもなしに景麒は訊ねた。

「あれは彼女の子か」

景麒が単に彼女というからには、沙参の事であろう。

「はい」

「里木に巻いた帯の色は?」

浩瀚は懐から懐中入れを取り出すと、そこに挟んでいつも身に付けていたものを見せた。

それを手に取り暫く見つめていた景麒は、ゆっくりとそれを浩瀚に返した。
そして無表情なままこちらを見ていたが、すでにその眼は浩瀚を見てはいなかった。
ふと浩瀚はふたりきりのはずのこの堂室に、誰かが立っているような気がした。おそらく景麒は今彼女らと向かい合っており、浩瀚はその影にすぎなかった。

「なぜ手元で育てなかった」
再び問われた。

「家族の身を案じながらでは主上に尽くしきることは出来ないと、彼女が身をもって告げました」

紫の瞳が揺らぎ、再び遠くを見つめた。
瞳が揺らいだことで、その言葉に込められた、決して彼女が自分からは言わなかったものを伝えることが出来たとわかった。それは十年近い年月を経て届けられた謝罪であり、無実の訴えであった。


今はいない二人の女性と対していた景麒がふと戸口の方角を見た。

間もなくそちらの隣室からざわざわという人の声と衣のざわめきが聞こえ、現れたのは陽子だった。

「急に邪魔をして済まない。ただ浩瀚がこちらの方へ向かったと聞いたので」

ひとり入ってくると、少し不安げな様子で二人の様子を伺うように見比べていたが、どちらの男も何も言わないので、間が持たないようであった。

陽子は即位から数年の間に他の者の前では落ち着いて王として振る舞えるようになってきていた。
しかしなぜかこの二人に対しては、他の目のないところではことさらに王であることをひけらかすかのように強引に横暴に振る舞うこともあり、しかもその一方で極端に自信なげなあるいは妙に遠慮した様子を見せた。
景麒には多くの場合横暴ぶりの方を見せたが、彼はそれに対して不愉快そうなあるいは無愛想な様子を崩さず、しかしそこに隠された遠回しで不器用な陽子の甘えを感じとって密かに幸せを味わっているのに浩瀚は気付いていた。そしてそれは浩瀚とて同じであった。

おそらく昨日は景麒に、今朝浩瀚に対して見せたように王として問答無用で、あの子供を認めさせようとしたに違いない。
しかし、彼女の質として民のための政に関わることならなんとかそれで押し切れても、私的なこととなるとやはり無理なようだった。おそらくいたたまれずここまで走ってきたに違いない。

浩瀚はこの場は景麒に任せることにした。彼としてはただ子供を引き取ってまた別の誰にも知られぬ里親に預ければ良いことであった。……それで何もかも、また元の通りになる。彼らしくもない甘い考えではあったが、彼が冢宰の任に留まる限りそれしか選択はなかった。

子を見せられた時はさすがに驚いたが、すぐに冷静になりこの子をこのまま置くことはあり得ないと、陽子にも連れてきた理由はあえて尋ねずその場では反対もしなかった。可愛がっていた桂桂が寮に入ってしまい、大人ばかりの王宮が寂しくなった陽子が思いつきで連れ帰ったに過ぎないのではと想像したが、現冢宰の子など王が手元に置くのは面倒のもとだった。そう分かっていても、先程嬉しそうに陽子にしがみついていた幼い姿を思い出すと、居場所のないあの子が不憫に思えるのはやはり親としての情だろうか。


「あの子はお連れではないのですか?」

景麒からの突然の質問に陽子は思わず隣室の方を振り返った。

「いや、隣で待たせているけど」

「お呼び下さい」

「何か言いたいなら私に言って欲しい。子供には」

「分かっております、お呼び下さいと申し上げているだけです」

陽子はしぶしぶ出て行くと子供を連れて戻ってきた。
天井の高い広い堂室を歩く姿は本当に小さく頼りなげで、漂う張りつめたものを感じたのか、先程とは違い不安げにきょときょとと見回していた。
いずれかの太子のものかと思われる絹の衣服は王宮に相応しくしかし決して華美に過ぎず、かつ子供の愛らしさをよく引き立てていた。

さぞ女官のよい気晴らしになったのではと想像したが、実際これはこの二日間の飾り立てようとする女官と王宮の虚飾から子供を遠ざけようとする祥瓊との熾烈な戦いの産物であり、双方が一致した点は陽子の緋色の髪にあう色を着せる事であった。

さすがにそんな事までは思い及ばなかったが、この少年の感情が陽子のそれに完全に同調しているのに浩瀚は気付いた。

先程のやや高揚した陽子といる時はあれほどに屈託なかったのが、今は陽子の不安をそのまま反映していた。生まれながらの母子ならともかく、たった一日一緒にいただけでこれほどの一体感を持つものだろうか。
以前会いに行った時に見た子供は、行儀はよく利発そうであったが、うち解けない引っ込み思案な子だった。いきなり現れた浩瀚に懐けという方が無理だろうが。

景麒はその子供を手で呼び寄せると、肩に手を置いた。
それを見た浩瀚はぴくりと眉を動かし、陽子もたじろいだ。他人に触れるというのは景麒には珍しいことで、無用の接触は苦痛ですらあることを知っていたからである。

子供はおずおずと長身の台輔を見上げていた。

「使令を呼ぶので驚かないように」

そう言うと景麒は空に向かって声をかけた。

「雀胡」

しっぽのある鼠のような兎のような小さな生き物がどこからともなく現れると景麒の前に座った。

「このお子をお守りせよ」

使令は子供の方を見るとその足下に寄ってきた。もの珍しそうにそれを見下ろす子供に景麒は言った。

「これは遊び相手ではなく小さくとも妖魔である。かといって敵を倒すほどの力はない。しかし何かあれば私や他の使令に知らせに来ることは出来る。影に潜んで付き添わせておくが、人前ではむやみに呼び出さないように」

そして再び空中に声をかけた。

「他の者も分かったか」

――御意
空に地に潜む無数の声が答えた。
そして子供の立つ床からふわりと白い影が立ち上がり、そっと子供に両の腕をまわして軽く抱き締めると、微笑みかけたまますぐ床に溶けた。台輔の側以外ではほとんど姿を現すこともない女怪だった。

子供は不思議と恐れは見せなかったが、それでも無数の声に驚いてあたりを見回し、再び足もとに座る生き物に興味を移した。

「撫でてもいいの?」
居心地の悪さを感じつつ、それでも 子供らしい好奇心に負けた幼い声が訊ねた。

「かまわない。噛んだりはしない」

子供はおずおずと手を伸ばすと頭を撫でて、それから嬉しそうにもう一度撫でた。使令もそれに応じてしっぽを振ったが、景麒の機嫌が気になるのか慌てて止めた。


陽子と浩瀚はその間、その思いもかけないことをただあっけにとられて見ていた。

「景麒……」

景麒は陽子にその先を言わせなかった。

「そろそろお急ぎにならないと朝議に遅れるかと」

「あ、ああそうだね、この三人が揃って遅れたら大変だね、あはは」

意外な展開に何と言って良いか判らず、少々間の抜けた笑い声を立てる陽子を先頭に、三人は仁重殿を後にした。


玉座に上がる前に、陽子は浩瀚に囁いた。

「何だか分からないけど、あれって景麒がいいって言ったって事なんだろうか……、まあ、いいか」

そして行きかけてまた振り向くと言った。

「さっきも言ったけど後でもう一度来てくれる?ちょっと……訊きたいことが、いろいろ……あって」

浩瀚は無言で頷いた。


いつもの冢宰の席に向かいながら、彼自身意外な展開に驚いていた。よもや景麒が自分からあの子を受け入れるとは思わなかったのである。

そして気付いた。

陽子のために、恨んでいたはずの沙参を再度召し抱えようとした景麒。
そして予王が楽しみにしていた沙参の子を偶然とはいえ連れ帰った陽子を止めず、その子に使令をつけた景麒。

この台輔は、何よりも王のために生きる紛れもない麒麟だった。

そして あの使令は、陽子が思っているように単に女王の気まぐれを許したという意味ではなかった。
あれは浩瀚に対して、子は預かるので浩瀚が我が子の身を案じる事なく今まで通り、ただ陽子のために彼の全てを捧げてつくして欲しいという台輔の意志を表すものであった。
それは浩瀚に、父ではなく冢宰として職に徹して生きることを要求していた。


浩瀚は子供が生まれた時、冢宰となったために我が子を手放した。天は麒麟を通して今一度子を捨てる事を彼に求めたのである。