「おはようございます」
柴望はいつも通りの時間に州侯の元へ上がろうとしたが、どうしても早く行かずにはいられれなかった。
夜の明かりの不十分な常世では官吏勤めは朝が早い。そしてこの城でどの文官より早くから執務にかかるのは浩瀚であった。日の昇るのが遅いこの季節のまだ明けやらぬ光りの中で、たったひとりの下官だけを立たせて、いつもと代わらぬ姿で浩瀚は書卓に向かっていた。
「ああ、おはよう」
それは聞きたいことが山のようにある柴望の気をそぐような変わりのなさであった。
「早速でございますが、何かご用は?」
話が漏れていることが分かった以上うっかりしたことは言えないが、昨夜牧伯から聞いた話から手を打つことがあるなら時間はないはずであった。
「昨夜のお相手はいかがでございましたか?」
それでも何も答えてもらえないのにしびれを切らし、いかにも男同士の会話に見せかけてさらに訊ねたものの、その相手を考えれば何もないと分かっていながらも気恥ずかしかった。
挨拶の時、こちらをちらりと見たまま書き続けていた書面からやっと目を離して、浩瀚は少し考えているようであった。鳩羽色の首を少し傾げて指をその細い鼻梁に軽く当てた様子をじれったく見ていた柴望だったが、それに何かを感じどきりとした。
なぜか縹色の髪がこの鳩羽色の髪に混じるところが目に浮かんだ。
硬く油を付けてきりりと結い上げた髪はその人と同じく決して人前では乱れない。しかし柴望はその髪が解かれると、思いの外柔らかくしなやかに肩に掛かるのも知っていた。
一方縹色の髪が解かれたところを柴望は知らない。しかし剣の相手をした後など、ほつれたあの髪が汗ばみ上気した頬に貼り付き、明るく勝敗を話す唇の動きに合わせて柔らかく毛先が揺れるのは知っていた。そして結ったところが少し緩んだ髪が陽に透けると背景の青空に混じり合って輝くのを何度もまぶしく見つめた事を思い出し、遙か昔のそんな事まで覚えていたことに自分でも驚いた。
そして柴望の失敗に大仰に笑う時、のけぞって少し見せるあの喉のくぼみ、書物に読みふける姿を見下ろすときに見ていた小さな耳朶に続く頬、首筋、初な若者の目を通した記憶の中の瑞々しく清らかなそれらにこの長い指が触れたのかと思った。
まさかと思い、今この様な状況で、よもやあの相手と、とそんな事はありえぬと思おうとしても、長年浩瀚の側に仕えた者の勘は柴望に容赦なくそれを告げていた。
女など望めば今までもいくらでも手に入ってきたではないか。今がどんな時かを考えればこれは行きずりの事に過ぎず、刹那の楽しみにも耽りたくなるだろうが、その相手がなぜ彼女なのだ。そう目の前の相手に言いたかった。
混乱した心の揺れの中、昨夜の二人への妄想がさらに重なり、そんな自分が情けなかった。
昨夜の彼女の話をどう柴望に伝えようかと考えていた浩瀚は、目の前に立つ柴望を見上げて言いかけた言葉を止めた。
こちらを見ているその目に浮かぶのは・・・・・何の色か。
昨夜の事を気づかれたとは分かった。柴望になら見抜かれても不思議はないし危険もないが、なぜそのように、まるで咎めるような目で見るのかと不満だった。今までどんな女を雲上に伴っても、侯がお連れになった相手ならと丁重に迎えていたではないか。彼女が二人の共通の友人であったのだから抜け駆けと感じたのか、自分がひとり蚊帳の外になったとひがんでいるのか。いやそんな男ではないはず。
そこへ牧伯が入室を求めた。
「入られよ」
答える声に姿を現した彼女はほんの数刻前まで彼の腕の中にいたが、柴望の厳しい目を通しても二人が昨夜の事で今からの大事に影響を与える様子は見られなかった。二人とも長年重責を担ってきた経験豊かな高官であった。
浩瀚は柴望に彼女が協力者になったことを僅かな身振りで伝え、急いで決めなければいけない用件を先程から書いていた手元の走り書きで二人に示した。
沙参は全く別の話をしながらその中から早速手伝えそうな用件を指さし、すぐに退出しようとした。これから長い時間一緒に作業する事も増えそうなので、怪しまれないよう少しでも無用な長居を避けたかったのである。
「堯天の知人のことで牧伯にうかがいたいことがあるのですが、ちょっとよろしいでしょうか?」
柴望に同行を求められた。
「構いませんが」
そう言われた柴望は牧伯に先んじて浩瀚の元を下がった。
「誰の事をお知りになりたいのですか?」
どう切り出そうかと言葉を探しあぐねてただそのままずんずんと歩く柴望の様子に沙参は後から声をかけた。
しかしそれに答える様子もなく柴望は歩き続けた。
それにさすがに沙参も我慢できなくなり途中で立ち止まった。
「私は忙しいのよ、こんな所まで来るなら、先にそう言って頂かないと」
彼女が立ち止まってしまったのでやむを得ず柴望は振り向いた。
「浩瀚と寝たのか」
自分でもこんな聴き方をするつもりは毛頭なかったが、言葉を選ぶ余裕を失い出てしまった言葉は引っ込められなかった。そしてそれを悔やむ余り取り繕うことも謝ることも出来ず、その言葉の露骨さで自分は所詮そんな程度の男だと心の中で開き直ろうとした。
さすがに沙参も思いもかけぬ相手からのそんな言葉に殴られたように一瞬顎を引いたが、やがて静かに答えた。
「あなたに知らせるような事ではないと思うけど」
それからしばしためらってから言った。
「ええ、そう、寝たわ」
少女の頃いったい何度彼をからかい怒らせようとしたか。それをかわすことなくまともに受け止め、怒ったりむくれたりする彼の他と違うその素直さが好きで、飽きもせずからかった。しかしいくら怒らせてもそれで悲しませる事はしなかったはず。彼を悲しませたい者など彼をよく知る人にはいないはずであった。
しかし今見る彼は確かに悲しんでいた、自分のした事はそんなに間違っていたのか。
沙参のそんな内心の思いにも気づかず、柴望は言われた言葉を胸深くに吸い込むかのように大きく息を吸ってから、一歩近づいて訊ねた。
「一時の遊びならまだいい、しかし私の知るお前はそんな女ではないはずだ。彼は見た目と違い生易しい男ではないが分かっているのか」
「たしかにこの年月会うこともなかったけれど、そのくらいは解るわ。難しいというなら昔から難しい男だったでしょ。友としてはそれが彼の魅力だったはず。
じゃあ遊びかと聞かれれば・・・今は遊びしか無理な状況なのでは?」
「それでいいのか?」
「貴方は仙でなければとっくに一生が終わっていたはずのこの年月、私が一人で過ごしていたとでも思うの?官吏がどんな生き方をしているか知らないはずはないでしょ?」
たしかに彼女の言うとおりであった、別れていた時間はあまりに長く、まともな人間なら一人では生きてゆけないほどに長かった。
「今更だが、私ではいけないか?」
「え?」
「昨夜が本気ならこんな事は言わない。だが遊びだったと言うなら、考えてみて欲しい」
言いながら両手をやや挙げて一歩また前に進むと、娘はそれに後ずさりもせず、しかしきりりと身を固くして立っていた。
その無言の拒否にあって相手の袖にあと僅かな空間を残したまま、触れることも出来ないでいる手をそのままにするしかなかった。
「やはり私ではだめなのか」
「・・・・何十年か前だったら・・・あるいは一日早かったら、いいえ、やっぱり……」
そしてそっと手を伸ばして力の入ったままの彼の両の手をとると、自分の頬に当てた。柴望の手は浩瀚よりがっしりとして暖かで、思いもかけない彼女の行動に驚いているようだったが、恐る恐る強張った指を伸ばすとその頬をそっと包み込んだ。そして間近で見つめたその青い瞳は昔と変わらず彼を優しく見つめ、彼を今も信頼できる友と思っていることを告げたが、そうした無防備さを見せることで男としては彼を受け入れることが出来ないことを表し詫びていた。
やがて沙参は手を下ろすと彼を残して去りかけたものの、再び振り返った。振り返ったその姿にちょうど後から射した陽が縹色の髪を透けさせ、最近の彼女を包んでいたくすみを払うと、一瞬あの若く輝いていたころの姿に見えた。
しかし再び開いた口から出た言葉は長い時を経た者のものだった。
「私は本気でない遊びはしたことがないの。遊びで遊びが出来ればといつも思っているんだけど」
そうだろうなと、柴望はそれを見送りながら思った。ただの遊びが出来る女なら惚れない。
だが、今度の相手は浩瀚なんだぞ。