その夜もまた迎えが沙参のもとへ来た。
沙参は人目を欺くためとしぶしぶやって来たが、話が終わるやいなや素早く立ち上がった。

「おや、田舎城のもてなしはお気に召さなかったか?」
浩瀚は昨夜と同じく難なく相手を捕らえると背後から耳元で囁いた。
「城は我慢できても城の主が気に入らないの。昨夜の事はなかったことにとお願いしたはず」
「はて、そうだったかな。しかしこのままでは私の評判にも関わる。気に入らないとまで言われては」
「評判なんか気にする人なもんですか。明日からは柴望のところで打ち合わせをするから、よかったらそちらでご一緒に」
「残念だが私は柴望と女を分け合った事はない」

しかし浩瀚はそう言いながらも、男女の見え透いた戯れでの逃げる振りをされる事すら疎う自分がなぜ本気で逃げる相手を追うのか分からず、しかし手を止めることが出来なかった。
王宮の贅沢で磨かれた蛇が甘い手管の毒を放って惑わせていると思おうとしたが、すでに失うものもない男をわざわざ惑わす間抜けな蛇などいないはず。そして牧伯として現れた時はあれほど疑ったのに、今ではやはり彼女が蛇や愚かになれるとは思えなかった。
かといって昨夜の彼女の話のように、これ以上自分に何か出来るとも思えなかった。

そして実際本気でそれを振り払おうとしていた沙参だったが、細い指が喉元を捕らえ、反対の手がいつのまにか衣の襞をかいくぐり腰に回されたのを感じたとたん身体から突然力が抜け、がっくりと彼に身を任せてしまった。
そのいきなりの重さに浩瀚も驚いたが、彼女も訳が分からず足掻いた。
そして青い瞳がその一瞬見せた弱さに気づいた浩瀚は、相手に立ち直る隙を与えなかった。



次の夜、牧伯は官邸に篭もり居留守をつかった。

「昨夜は余所でお楽しみか?」
「ええ、そうよ」
翌朝、書類を挟んで言われた声は決して潜めてはいなかった。周りに侍る官に聞こえたのではとはらはらした。

「今夜からは夜は空けておけ」
「ここには後宮はないの?」
「入りたいのか?ずっと女で溢れていたが、私の罪が及んでは哀れなので皆家に帰したので今なら空いている。どこでも好きなところを使っていいぞ」

だれが蜘蛛のお誘いなど、と沙参は相手にしないでおこうと思いながらもつい言い返さずにはいられなかった。
「私は官邸から動くつもりはないし、呼びつけられるのはいやなの」
「ああ、もてなしが気に入ったので返礼をしたいので来いと言うことか。では伺おう」
蜘蛛は愛想良く親切だった。
「先に射士がそちらの房を見回りに行くからな。そのあと警備を潜ませる場所がなければ、牀榻の横に桓でも立たせておこう」
「馬鹿なことを」
「州侯なら当然のこと」
たしかにここでなら州侯の夜のために警備や供を引き連れて来るのも当然であった。

「まして国から送られた牧伯が私の寝首をかくかもしれないと言われている。お前の剣の腕は知っているので、それに敬意を表して侍らせるのは大僕ではなく州師にしようかと」
「言ったのが柴望なら、弓の的にしてやるわ」
「誰が言ったかは我が州の機密ゆえ牧伯殿には漏らせぬが、これももてなしのひとつとして特別に柴望ではないとだけは教えておこう。まあ柴望が言ったことを聞いたら、的にするより叩き斬りたくなると思うが、それもご所望か?」

涼しげな顔はどこまでも楽しそうだった。
沙参の最初のころの記憶の彼は、周りの学生に髭が生えるのかとからかわれるほど華奢で細身のまだ少年の面影の残る新入生だった。弟のように思うこともあり、新入りいびりからかばってやったこともあるが、あのころとはうってかわったこの態度はなんなのか。
小憎らしい顔を睨みつけた沙参は、この首こそ叩き斬ってやりたかったが、女王のためにはこのいまいましい男を、とにかく首がまだついたままで堯天に連れ帰ることが必要だった。王が独り立ちできたら、秋官を怒らせたらどうなるか思い知らせてやる。
歯ぎしりしながらそう思いつつ、しかし彼らの計画を知った今では、果たして本当に彼らを王宮へ連れて行けるのかと思わざるを得なかった。

浩瀚はときに全てに対し執着を捨てたかのような妙にさばさばとした表情を見せた。それは今度こそ女王を助けるという未来への夢を持ちながらも、今この瞬間すら生きているという実感に乏しい彼女自身とは対照的だった。
生を惜しむ様子もないのにそれでも力強さを失わないそんな彼になんとか生き延びて王を助けて欲しかった。夜の気晴らしで多少なりとも彼の心を生に繋ぎ止められるならとも考えたが、それなら相手は誰でもいいはず。むしろどんな女でも自分より相応しいに違いない。



結局沙参は、何を思うにせよどうなるにせよあと少しの間のことと、迎えに従うことにした。面倒を避けるためという理由だが、自分の気持ちと向き合うのを避けたのかもしれない。

迷路のような州城には牧伯と州侯の私室との間にも人目に触れぬ通い道があった。州侯の居場所からは脱出路にもなる抜け道がいくつもあるとは想像がついたが、牧伯の官邸との間にまであるとは思わず、自分と同じようにこの道を使った牧伯が他にもいたかと以前調べたここ何代かの牧伯の顔を思い返した。

「ああ、あれは牧伯が何をしているか探りに行かせる時に使っていた近道だ」

浩瀚はあっさり答え、そんな事よりどう見ても嫌がらせにしか思えないほどにどれもこれもきっちりと堅く結ばれた目の前の紐をどうしようか、いっそ片っ端から引きちぎってやろうかと思案していた。

「しかしこんなよい使い道があるとは思わなかった」

沙参はこれ見よがしに悩ましげな姿で臥牀に寝そべり、その操を守る紐に手こずっている男にいい気味とこっそりあかんべえをしていた。そしてよい使い道とは通路のことと思って聞いていたが、枕の下から嬉しそうに護身用の刀を取り出した相手に慌てて身を離すと、自分で紐を解き始めた。冗談じゃないわ、どれもこんな田舎では手に入らないお気に入りなのよ。

「最初の誘いもそうだったが、王宮ではそんな色気のない脱ぎ方しかしないのか。これで切った方がまだしも楽しそうだが」
まだ刀をぷらぷらさせながら不満そうな声が苦言を申し立てた。
「相手と場所によるのよ」

彼女が刃物に脅されなかなか解けない紐にいらついて気を取られている間に、浩瀚は裾から冷たい手と さらに冷たい刃先を巧みに滑り込ませ、ゆっくりと楽しみながら見物した。沙参はとりわけ堅く結ばれた紐がどうしても解けないまま、その下からの巧妙な動きに身体が熱く震えるのが止められず、先程までの妖艶な寝姿はどこへやら脱ぐことも出来ない衣は妙なところで括られたまま絡みつき、それがじゃまをして身動きも出来なくなった。ついに隙を見つけて刀を取り上げると、おおこわと両手を挙げて怖がって見せた浩瀚に目もくれず、ばっさりと紐を自分で断ち切った。

「言ったでしょ、田舎城の鄙つ男相手ならそれに相応しい脱ぎ方をするのよ」
言い放つと、笑い転げている浩瀚を忌々しく睨んでまた次の紐を解きながら話を代えた。

「私も探らせたの?」
「当然だ、とりわけ念入りに調べたが。そちらだって調べて廻っていただろう。まあ、お互い何も探り出せなかったのでこうして直接調べ合うしかないわけだ」

そうしてやっと機密の書き付けはおろか潤んだ表情すら彼の視線から隠すには乱れきった髪をかき寄せるしかなくなった身を満足そうに抱え直し、再び熱心に探索し直し始めた。



「 大事の前、寝言ででも何か漏らせば同志の命を危険にさらすかもしれぬ。他の女では危険だ」
さらに次の日、またなぜ自分を呼ぶのだと怒る娘に浩瀚はそう理由を言った。
「 あなたが寝言なんて可愛い事をするとは思えないし、それがいやならひとりでおとなしく寝てればいいのでは」
「 私が寝ている間はおとなしくないことがまだわからないらしい」
そう言うと、牀榻のそばまで引きずって来られてもまだ文句を言い続ける身体を抱え上げた。

しかしぐいと力任せに細い腰を引き寄せれば、しなったそれは彼に重なることを拒んだ。そして均衡を失った身を支えるために伸ばした腕は、浩瀚よりも肩幅のある身体に縋ろうとして一瞬手の置き場を失い、それに気づいて強張った彼の肩に嫌そうに落ちた。それでも断固としてその手を引き寄せ胸に抱え込むと、今度は引き締まってすらりと長い足が彼とは長さの違う脚に絡みつこうとして膝をぶつけ、女にしてはきりりとした美しい眉を顰めるのを見ることになった。

彼より先に女としての彼女を知った存在がいたことを隠そうともしないその態度は、いずれも共に過ごした事を誇るに足る男ばかりであると告げている様であり、決して浩瀚だけのものにはならないと宣言しているようでもあった。
それも自分と同じほど仙として過ごしてきた彼女なら当然の事とは分かってはいたし、彼とて生娘ばかりを抱いてきたわけでもなかった。それでも他の女の時と違い、決して会うこともないそして幾人かも分からぬ彼女の相手とははたしてどんな奴らかと考えるに及んでは、そんな自分が気に入らず、彼女を心ならず手荒く扱う事になった。

そもそもなぜこんなにまで彼女に執着するのかが分からなかった。付き合いを避けてきた官吏であるどころか、今一番目障りな官位を持ち、今さらとも思えるほど古くからの友人であった。なにより今がどんな場合かを思えば女などに関わっている場合でないはず。
しかもこのために、かけがえのない右腕である柴望との絆を壊しかねなかった。仕事を終えて私室に戻る時、以前と違い柴望は決して付いて来なくなり、恨みや怒りなど見せないだけに、ただ首を垂れて見送るその姿が無言で彼を責めているように感じられた。



浩瀚を悩ませ、しかも悉く彼の意に逆らうかのような態度をとる一方で、突然沙参は無抵抗にすべてを任せる様子を見せてまた彼を驚かせた。それはあたかもその身を差し出すことで謝罪しつくせぬ詫びを告げているようで、自分は決して優しい愛を受ける資格などなく、どんな無理も辱めも拒めぬとささやいているように思えた。

むろん浩瀚には何も覚えはなく、またこの娘に男に身を持って詫びる事などあるとすれば、思いつけるのは嘗て恋人からの愛を無断で予王と分かち合ったという事について くらいだろう。となれば彼の身を使って彼らに謝罪していることになり、それはどんな抵抗より無礼と怒っていいはずであったが、なぜかそれを咎めることも止めることも出来なかった。
それどころかそれほど後悔するなら私を呼べばよかったのに、とまで言ってやりたくなったが、あのころの彼には王宮へどうしても行けぬ理由があり、今更それを告げる事も出来ず、ただその宛先もわからぬ詫び状を黙って代わりに受け取ってやることしか出来なかった。

おかげでやたら広かったはずのこの臥所もずいぶん狭っ苦しくなったものだと、暖かい窪みをたどる唇を歪めて苦笑いするしかなかった。顔も知らぬ無数の男の気配にとり囲まれるくらいなら彼女を脅したように州師でも立たせた方がよほど気楽だったろう。

やがて彼の手の中で沙参がどこかに視線を彷徨わせるのを見る時、決して牀榻では浩瀚と眼を合わせようとしないその目が追っているのはどんな男かと、自虐と知りつつまた思わずにはいられなかった。

彼女が縋るような眼で追うのがすでに身罷った女王本人とまでは、さすがに思い至らなかった。