ある日執務中の彼女の元へ文が届けられた。居合わせた浩瀚に構わずそれを開いた沙参は何も言わなかったが、今日は残って仕事は出来ないとだけ彼に告げた。その言い方も目の輝きも気にくわず、一刻も惜しいこの時期にと浩瀚はなじったが、娘は何も言わずさっさと退出した。
その後浩瀚は回廊の向こうを小走りに横切る娘を見かけた。いつも纏っている豪華ではあるが堅苦しい官服ではなく女らしい衣装で、美しい花色の髪に山吹色の姿が駆け抜けると、重々しい辺りがその一画だけ光が射したようで離れていても揺れる珠や簪のふれあう響きが聞こえてきそうであった。
新しい牧伯を迎えた時に開かれるはずの宴も彼女が親の喪中という口実で断ってきたため行われず、そのため再会して以来浩瀚が眼にしたその姿は、執務中の姿か夜の何も纏わぬ姿だけだった。
もともと美しい少女であった彼女は、花なら満開のほんの一歩手前のまさに見頃のころで時を止めていた。
若い少女の硬さと熟し切り崩れようとする危うい柔らかさ、その狭間にあって未熟も衰えも知らず、しっとりと潤った肌は彼の指を快く滑らせ吸い付き、その上武術で鍛えたしなやかで強靱な肢体は彼のどんな激しい要求にも屈せず応えた。
そのため彼の元に忍んで来る時に着ているものなど、その中に包まれたものを知る彼には今やないも同然で気にすることもなく、目に浮かぶのは彼女を引き寄せ壁や卓に凭れさせ、あるいは榻に下ろしてそれを解いた後彼の手によって様々に変わるその肌の色の移ろいだけであり、耳にするのは湿り気を帯びた肌の擦れる音と自分と彼女の憚ることなく広い帷の中で重なる声だけだった。
しかしそんな外見の美しさを求めるなら、州侯ともなれば望めばいくらでも手に入るもの。
州侯と牧伯のやりとりとも思えぬ子供っぽい小競り合いで減らず口を交わす時、彼女を包むあの重い闇がふと消えたように思うこともあり、そこに回間見える精神の輝きが生む艶やかな美しさこそが真に彼を魅了するもので、たとえ仮初めと分かっていても彼女を手放す気にも譲る気にもなれないものだった。
その夜、久々にひとりで眠る浩瀚の元を訪れる者はいなかった。
夜中にたまりかねてむくりと起きあがると、雲海越しに町を睨みつけた。
宵にいつものように呼びにやると、娘は下へ行くと言い残してすでに出かけた後であった。あの様子ではきっと堯天から男でも訪ねて来たに違いない。
女に溺れることも執着することもなかったはずなのに、今頃彼女が何をしているかとつい想像してしまい、戻ってくればどうしてやろうかと一晩中じりじりとしながら考えた。あの羽ばたかずには生きて行けない鳥を独占すること
も閉じこめることも出来るはずはなく、それこそが罪だと気付いていた。それでも牧伯などでなければ本当に後宮に押し込んでやるのにとまで思った自分にますます腹を立て、いったい気にくわないのは彼女なのかその相手なのか自分なのかと悶々としながら衾を被った。
翌朝まだ早い刻からの仕事の時、それまで夜とは違い昼は普通に視線を合わせていた彼女がこちらを向こうともせず、ろくに返事もしなかった。そして他の者は気づかなかったようであったが、浩瀚の目には紫の目の下に少し陰が出来ているように思え、動いたとき袖口襟元に何か昨夜を示すものが見えないかとつい目を凝らしてしまった。
実際彼女はあれほどの夜を毎夜過ごしながらも、今のところなぜか疲れを残すこともないのに、その朝はひどく気怠く目の下の隈は化粧でも隠しきれていなかった。
昨日訪ねてきたのはあの一番信頼している男だった。
男の待つ宿へついたとたん喜色を見せて飛び込んできた娘を抱き留めたにも関わらず、彼は何か違和感を憶え、手を緩めるとじっと見下ろし、いきなり彼女を立たせたままでその衣を解き始めた。
待ちかねた相手でもあり、誘う気持を表すように緩く結ばれていた紐や帯は次々と垂れ下がり、驚く沙参の足下に滑り落ちていった。
そしてやや薄暗い舎館の房に何も纏わず立った白い姿に、男は卓上に置かれたあかりを翳した。恋しい男とはいえ、きちんと着込んだ相手の前にそんな姿を曝すことに抵抗しようとした沙参だったが男の表情に改めて自分の姿を見下ろし、やっと自分の肌に残されたものに気付きはっとした。
いくら恋人がいようと、またそれだけに今まで相手にこんな姿を見せたことはないというのに。あの男……自分のためではなく相手の気持を思ってぎりぎりと歯ぎしりした。
「相手は、柴望か」
向かい合って立ったまま穏やかな声が寂しそうに尋ね、男の手が慈しむように静かに柔肌に触れてそこここに暖かさをを残した。
娘はなぜそんな言い方をされなくてはならないのかと思った。ここへは本当に会いたかった男に久しぶりに抱き締めて慰めてもらうつもりで来たのに。
「あの、いいえ、違うわ」
そう言うとその姿のまま自分からまた改めて身を投げかけずにはいられなかった。相手の衣越しの馴染んだ身体の形と温かさと香りだけでも快かった。
しかし包み込んでくれると思った腕はやはり回されず、反対に両脇を掴まれてぐいと離された。その両腕の感覚と男の目に、そう言えば前にもこんな事があったと娘は思い出した。
やがて男は足下に落ちた衣を一枚取り上げ彼女をそっと包み込むと、抱きかかえるようにして座らせた。そして傍らにおかれた包みから薄い小さなものを取り出した。
「今日はこれを渡しに来たのだ」
娘が手にとると包んでいた絹ははらりと解けて青絹が現れた。
「これは・・・」
「改めてこれを私と結んで貰えないかと思って持ってきた」
「まだ持っていて下さったの?」
あの翌朝、彼は帯を預かったので必要になれば取りに来いと言った。ただし相手が自分より良い男でなければ渡さぬと言い、そんな日など来るはずもないと思っていた娘はこれ幸いとやっかいものを置いてきたのだった。
「必ずいつかと思っていた。決して諦めるつもりはなかったが、互いに仙なのだから時間はあると思っていた」
重く冷たい冬の室内が、一瞬輝いていたころの金波宮の王の私室に代わり、この絹を差し出す花のような女王が目に浮かんだ。嬉しげにとんでもない夢を語るその声を聞く金の髪の台輔のしかめ面もこうして思い浮かべると輝かしく美しかった。何もかもが美しかった。
「しかし、おまえが……なにかなにもかもに急いでいるようにも思えて。あちらでただ待っていることが堪らなくなってここへ来たのだ」
死に急ぐ、という言葉が口に出そうになってあわてて止めたが、この娘を長く知る彼にはそうとすら思えた。
そして娘もこの男の気持ち、自分を案じてくれる心がよく分かった。
もう一度手を伸ばすとその頭を羽織った衣の間に覗く胸に抱き締め、顔を埋めさせたまままっすぐな首筋からきちんと梳き上げた髪に沿って何度もその頭を撫でた。
こんなに、こんなに分かりあえていて、こんなに好き合っていて、他のどんな人よりもこの人がいいのに。
「
あの時、この帯を持って行った時、もっとあなたをしっかり捕らえておけばよかった。でもあの時は主上が私の全てだったの」
男と女ふたりきりのはずの時間が、あの時実はもうひとりも共有する時間であることを知っているのは、彼女の相手のなかでも彼だけであった。
真っ当な神経の持ち主である彼には衾褥を三人で分かつのは決して愉快な事ではなかったはずだが、沙参の王への想いを考え、そしてその尊き人の孤独に同情して、黙ってその後も変わらず彼女を愛し続けた。
――頼むから私の名は主上には言わないでくれ。
それだけが彼の出した注文だった。
そんな彼とも、あの混乱期長く会うことも適わず、王宮に戻ってからも友として会うことはあったが、彼に限らず誰とも愛を交わすことはなかった。
一度だけ、耐えきれない寂しさから彼に抱かれようとしたが、なぜかその身体はどんな優しい愛撫にも目を覚まさず開くことはなかった。
そんな自分を歯痒く思う彼女を何も言わず男は抱き締めて、ゆっくりと、まるで赤子をあやすように、素肌をぴったりと合わせたまま揺らしながら一緒に添い伏してくれた。その肌と優しさが恋しく、しかしいつもいつもそんな事を甘えることも出来ず、堯天の長い夜を暖まらぬ身体を自分で抱き締めて過ごすしかなかった。
予王に明け渡した彼女の身体と心は、戻されないまますでに御陵に共に葬られたとその時やっと気付いた。
しかしそれは彼女の思い過ごしで、こちらへ来て再び抱かれることの出来る身に戻ったと、喜んでここへ駆けつけたのに。
雲海の上で、たぶん今頃迎えを出しても来ない自分にせいぜい臍を曲げるくらいしかしないはずの男なんか、雲海に落っこちて溺れてしまえばいいのにと思った。そうすれば、自分はまた元のようにこの男に抱いて貰えるのに。
浩瀚なんか・・・心でそう思いながらもそうはならないと分かっていた。
満月の光を浴びた時だけ人の姿に戻れる髑髏となった死者の話を読んだことがある。浩瀚だけが彼女を一時生き返らせる力を持っていたのか。
たとえそうでも彼には気づかせてはいけない、そのために彼を自分に縛ってはならないと思った。今の自分たちはただこれからの計画だけを考え、そして成功しなくてはなら
ず、また彼にはもっともっと成すべき事があると思えた。
そして……なによりも彼女自身、自分を解き放って見せた相手から引き離されて生きて行く辛さは二度と味わいたくなかった。だから決して彼には本心は見せない。
私にも浩瀚にも今の関係は行きずりのもの、非常の時のほんの過ちと思うべきなのだ。それが誰も傷つかない道。
抱き締められていた男は、自分の想い人が自分の髪を撫でながら最初自分の事を考えていてくれたのにやがてその心が自分から離れて行くのを感じ取っていた。
男は自分の羽織らせた衣を再び剥ぐと静かにその身体を横たわらせ、白い肌に散る小さな花びら、誰憚ることなくそこに触れた憎い唇と指の散らせたそれを消そうと自分の唇を押し当てていった。
突然現れ彼女を我がものとするその男に残すそれはいわば手紙であり、王宮の他の恋敵の分までも残したそれは、今は彼女のこころざしを貫かせるためお前に預けるが、それが終われば必ず取り戻すと告げていた。
何につけ決してむき出しの競争心や独占欲など見せたことのない男のそんな様子に、沙参もどんな姿を求められても厭わず自ら進んでその唇の下に身を委ねた。
それでもやはり沙参の身体は本人の気持ちとは裏腹にそれ以上のものを受け入れようとせず、結局その日もどうしても結ばれることは出来なかった。
ふたりはなぜ、と思いながら離れがたく互いを抱き締めるしかなかった。
夜が明ける前に彼女が去る時、男は躊躇っていたが青い帯を女に渡した。
「私とでなくてもいい、自分にまだ未来があるという事を忘れないために、いつか帯を結べ。それが予王の望みだったのだろう。おまえが笑って生きることをあんなに喜んでいた方ではないか。
予王と同じ道を今の主上に踏ませない事も大事だが、予王をお亡くなりになった後まで悲しませるな」
そして、それでも付け足さずにはいられなかった。
「もし私とでいいならいつでも来るから」
「ありがとう」
そう言ってもう一度別れを告げた。
彼女の身から手を離す時の男の指は最後の最後まで哀しげだった。