浩瀚の企てはひとつの州からごっそり人から物に至るまでかすめ取り、不案内な遠くの地で乱を起こそうというものであるから、頼りになる現場の指揮者がいくらいても彼自身の仕事も膨大なものであった。
また州侯在任中の書類や物品でこのまま残して万一敵の目に触れると不都合なものの処分も必要で、日常的な業務を滞らせるわけにもゆかないとなれば、すべき事には際限がなかった。
沙参はのらりくらりと牧伯の仕事を続けていると見せかけながら、裏では協力してこの難題をこなし、彼女の官吏としての能力のおかげで滞りがちになっていた準備もなんとか間に合いそうであった。
「いったいなぜこんな事を始めたの?」
州の武器庫から冬器に紛失や破損の理由をつけて、また一山横取り出来たことにほくほくしながらちょうど来合わせた柴望に印を押させ、浩瀚に尋ねた。
国の法と行政の実務に精通した彼女には、今までとは逆にその裏をかいくぐることも容易いことで、そのあまりの腕の良さにさすがの浩瀚もあきれていた。
「それよりお前が敵側にいたらと思うと恐ろしい。王宮でその腕を振るったら王の宝物蔵すらすぐ空っぽになるだろう。
州民が飢えたりしないようにしてくれ。あくまでも残しておいても、次の州侯が和州に貸し出したりしそうな余分のものを頂こうとしているのだからな」
「大丈夫、州の民のものには指一本触れてはいないわ」
そして意地悪く一冊の帳簿を浩瀚の鼻先で振り回した。
「侯のお優しい気遣いのおかげで女のいなくなった後宮の賄いが余っているはずだから頂くわね。ひらひらした着物や甘い菓子のかわりに兵に暖かな上着と食糧を配れる」
「あ、いやそれは困る」
あっさり拒否された。
「なぜ?まだどこかに女を隠しているの?」
「手ぶらで家には返せぬからそれぞれ当分の扶持としてすでにそこから決めてある」
沙参は不満そうに浩瀚と帳簿を見較べた。
前に浩瀚が言ったときは見栄か法螺だと思っていたが、本当にここの後宮は近年ずっと満員が続いていたようで、その食費だけでもかなりのものであった。しかしいきなり帰された女の事を思えばこれは諦めるしかないようだった。
「それにしても何て数なの」
ぶつぶつ言われた浩瀚は澄まして答えた。
「なにしろ少し前には慶の女の半分がここに集まっていたので、選ぶにもきりがなくて。さすがの後宮も窮屈でくつろげなかった。たしかに多すぎたと反省している」
沙参はこの色ぼけ州侯に帳簿を投げつけたかったが、そのおかげで難民とならずに済んだ同じ慶の女のためにぐっと堪えて聞こえなかった事にした。
「なんなら王宮へ戻って王の蔵も荒らしてきましょうか?今度の主上は身を飾るのがお嫌いという噂があるし、結局主上のための乱の資金になるのだから。
それにしてもこういう仕事ってやみつきになるわ、秋官府よりよっぽど面白いじゃない」
そう言いながら、今度は兵站用非常食に腐敗したため破棄と書き込むと、二人のやりとりを何か言いたげにはらはらしながら聞いていた柴望にまた印を押させた。
「これで待機中の傭兵の食糧はなんとかなりそう。でもこれって毎年次々貯蔵されてきただけで使われた様子もないから、本当に腐っているかも」
「ああ、それなら予王の時代に足止めした女に食わせるために使って、その時一度全部なくなっているから大丈夫だ」
柴望の言葉に、綴りを見たがそれらしきものは見あたらない。
「そんな記録はないけど?」
「それなら別の所に保管していたが、昨日処分した書き付けの中にあったように思うが。ようは後で埋めておけばよいだけ。おまえは横取りはうまいが、柴望は後始末が得意なんだ」
言われて
苦笑する柴望と、どうということもなく言う浩瀚に呆れた。
「あなた達こそとんでもない悪徳州侯、悪徳官吏なのね」
いったいこの男たちはこの長い年月、中央の手の届かないところでいったい何をやっていたのかと思った。これだから予王の時代女達を庇護できたのだろう。
あの時代仕事も出来ずただ隠れていたことを思い返し、ここへ来て手伝う事が出来ていたらと思わずにはいられなかった。いや、その前にもっと早くこちらで働けばとも思った。官吏同士の拮抗と軋轢の中をかいくぐって、どれだけ民のところへ届くのかも分からない仕事をしてきたのがむなしくなってきた。
「待っていたのよ」
ついそんな言葉をぽろりと吐いた。
「私だけが国官になって、後から来ると思っていたあなた達はいつになっても現れず、あげく勝手に仲良く一緒に州侯だの州宰なんかになっちゃって。私がひとりでいたのに、こんなところでやりたい放題していたのね」
本心を隠すために冗談めかした言葉に含まれた寂しさが、嘗ての彼女をよく知る二人には意外だった。
「だいたい柴望を横取りしたときから気に入らなかったのよ」
思いもかけない言葉に柴望はびっくりしたように手を止めてこちらを見た。
「少学の時から一緒だったのに、浩瀚が現れたらすっかりそっちになびいちゃって」
その
浩瀚は面白そうに嘗ての上級生で今は部下を見た。
「いやそんな間柄とは知らず、邪魔をしたようだな」
「ふたりとも何をからかっているんですか」
柴望はいきなり何を言われたのかと混乱していた。
「王宮にいる間も、何度彼をあなたからひっぺがしてやろうと思ったかしれないのよ。彼ならいい秋官になったのに」
今度は沙参はうらめしそうに浩瀚に向かって言った。
「いや、それはやめた方がいい。彼と処罰の話をすると温情があふれ出て州侯にも麒麟がいるのかと思えてくるし、こちらは救いようのない無慈悲に思えてくる」
「だから側にいて欲しかったのよ」
柴望の気持ちを知った今では口に出してはいけないとは分かっていたが、彼にだけ聞こえる声で呟かずにはいられなかった。
「任官を受けるときも一緒に国官になろうって誘ったのに」
柴望ははっとした。そういえばそんな事があった。彼女は一緒に行こうと誘ってくれたのだった。もっと世間を見たいと言ってそれを受けなかったのは自分だった。彼女はむくれてひとり堯天へ往き、そのしこりのためその後あまり会うこともなかったのだった。
思わず柴望は筆を置いてそっと手を前に差し出して、向かい合って座る白い手に重ねた。彼女は何度も自分に手を差し伸べていたのだった。
自分が愚かだったために得ることが出来なかったものがあると知り、それへの後悔は言い尽くせない程であった。少なくとも残った時間をこうして一緒にまた目的のために過ごせる。それが救いだった。
少し離れた席の浩瀚は何も聞こえず何も見なかったふりをしていた。
「これだけの手間をかけるなら、王宮に乗り込めばいいのに」
そのひとときの後、再び尋ねた。
「胎果の王に何かあると知って欲しいだけだ」
「王宮の奥というのは、こちらでは分からないほど奥深くて、周りが知らせようとしない限り決して王の耳には入らないわ」
浩瀚はちらりとこちらを見た。
「それが出来る者がいるだろう」
「え?」
「悪徳官吏遊びに興じて本来の仕事を忘れているようだが、牧伯というのはそのためにいるのでは?」
「ああ、そうだったわね」
「頃合いを見て王宮へ戻り、文書ではなく直接王に報告してくれ」
「そうするわ」
「そしてそのままあちらに留まれ。おそらくそのころ、すでにこちらは混乱状態のはず。たとえ辞めたがっても当然と思われるだろう。二度とこちらへは戻るな」
娘は書類から顔を上げて真意を探るように浩瀚を見つめた。
「何かあると分かっても王はひとりではまだ動けないはず。これが成功してそこから始まる王の政に、おまえなら助けになるだろう。今主上に必要なのは何よりも人のはず」
「あなたは忘れているわ。私はまさにそのためにここへ来たのよ。主上に助けになる人間を連れて帰るため。私だけでは無理だった」
しかし浩瀚は取り合わずきっぱりと言った。
「いや、今のお前になら出来ると思う」
そして彼女を見つめると静かに言った。
「予王が次王に残したものは台輔だけではなかったという事だ」
予王の名が出ると弱気になる事を知ってそれを言うとは卑怯なと怒った。つまり、自分たちは乱に命をかけて、私には王宮で生き残れというのかと思った。
今までもあの王宮で長年毎日戦いながらひとり生き残って来た。むろん友人も恋人もいたが、派閥以外で仲間と言える関係があっただろうか。
それに引き替えこちらでは、州侯を中心に一丸となって動いていた。
皆が乱に関わっているわけではないが、何かあると当然気づいた者も何も言わず、それを自分たちの出来る範囲で庇っていた。
あの食えない男のどこにそんな魅力があるのかと思った。官吏としての能力なら決して負けないつもりだが、自分にない力が彼にあることは確かであり、それは孤立した今の王には何より必要な事だった。
何が何でも貴方をぴんぴんしたまま、王への手土産にしてやるわと、心の中でつぶやきながら彼を見返した。どんな犠牲を払っても、たとえ、そのために私が命を落とそうとも、王のためにより良い選択をするだけ。
そしてどうしても彼らに尋ねたい質問がまだあった。
――なぜ、なぜ予王の時に立ってくれなかったのかと。なぜ助けてくれなかったのかと。
しかし、それには答えては貰えなかった。
残りは持ち帰ってするからと、書類を抱えて引き上げた彼女を見送った柴望は浩瀚を振り向いた。
「よろしいのですか?彼女に言わなくても」
「何を?」
「後宮にいたのは女には違いありませんが、予王の混乱の時に逃げる事も出来なかった病人や年寄りばかりを住ませていたと。あの食糧もここから余所へ預けるために持たせたと」
「そんなに私の男としての面目を潰したいのか?」
「とんでもございません。しかし……」
浩瀚はしばらく真剣に案じているらしい彼の顔を見ていたが、くつくつと笑い始めた。
「柴望、おまえ、分からないのか?
私は嘗てのおまえに代わってせっせと彼女をからかっているんだぞ。少しは溜飲が下がったとでも言って欲しいものだが」
「は?」
「まったくこれが麦州中の官に睨みを利かせている州宰の本当の顔とは」
昔と変わらずなぜか沙参といると鋭さを失いじれったいほどに甘くなる男に苦笑いした。
きっと彼女は王宮でも多くの有能な国官をこうして骨抜きにしていたのだろう。そして先だってそのひとりとおぼしき相手からのいわば果たし状を体中に書き付けられて戻ってきた姿を苦々しく思い出した。
「しかしその顔を見ていると、彼女がかまわずにはいられなかったのも分かる。私は後宮いっぱいの美人よりそんなおまえがいた方がくつろげる。だから彼女がおまえを横取りしたと怒る、それも分かるな」
そして我慢できなくなったようにからからと、しかし先程とは違い苦さの篭もった笑い声をたてた。
いよいよ状況が差し迫って来た事が毎日のように王宮から伝えられた。
そのうちの一通の最後には、ひとこと書き添えられていた。
――予王の願いを忘れるな。
今更なにをと思った。
しかし自室でひとりになってふと取り出した帯をみていると、また別の考えがうかんだ。
予王を追い込んだのは堕落した官だと思っていた。しかし天こそが舒覚を王に選んでいながら、それを追い込んで見捨てたのではないのか。
王のいない荒れた嘗ての国を思い出した。天はまた慶をあのような国に戻そうとしているのではないのか。
それなら、命をかけている浩瀚たちはどうなる。先に天の意を知る方法はないのか。
なぜ私を選んだのか、そしてなぜ誰も自分を認めて助けてくれないのかと台輔に涙ながらに訴えていた予王の帯は、その答えを得る手段にならないだろうかと考えた。