その日沙参は州侯の執務室に、他の用にかこつけて和州の先発隊へ送る書を届けに来た。
しばらく浩瀚ともっともらしい打ち合わせをしていたが、他の官が下がった後もそのまま残って珍しくぼんやりと窓の外を眺めていた。
外から見れば余裕を持って仕事をしているようでも執務中は決して気を抜かない彼女の日頃とは様子が違うのに気付いた浩瀚が、いぶかしくその後ろ姿を見ていると、それを感じたのかふとこちらを振り向き言った。

「個人的なお願いがあるのだけど」

「何か」

「里木に帯を結んで貰えないかしら」

書類に伸ばしかけていた手を止めて 思わず顔を見直したが、相手はいたって真面目な顔でごく普通の用事を頼んだようであった。
毎夜その身体を我が物としても、これが決して自分だけのものにならないことは分かっていた。そして何度肌を交わそうとも、自分の妻となることも、まして我が子をあやすなど想像することすら思い浮かばなかった。そもそも彼自身、子などに興味はなかった。

「何を戯れ言を。この期に及んで感傷か」

「迷惑ならいいの、勝手な事を言って申し訳なかったわ」

相手はあっさり そう言うと立ち上がり出て行こうとした。
浩瀚も仕事に戻ろうとしたが気になってその背中に向かって言った。

「迷惑というより、無駄だと思うが。我々が子を授かれる状態には思えない」

沙参は立ち止まり、顔を半分だけ見せて振り返った。
「それが分かっているからこそなの。もし実をつければ、子が育つような将来が待っているという事ではと思って」

「天を相手に賭か。いや天を試みるのか」

「天命を受けた王が次々倒れてゆく慶で生きていれば天の意思に問いかけたくもならない?」

「私が知りたいのは、王が何が分かっているかと民が何を思っているかだ。天帝の考えなぞ知りたくもない」

そっけなく言い返しながら、嘗て遙か昔、彼女の知らないところで浩瀚も同じ事を考えたとは決して言うまいと思った。天を恨み慟哭したあのころの事は決して忘れたことはなかったが、心に封印して言われたとおり、その後決して王宮に近づかずここに留まったのだ。
彼女の気持は誰よりも分かる、分かるからこそ知らない方がいい、忘れた方がいいと言ってやりたかった。天の無慈悲さは人には想像も付かない。


「私は知りたいの。もし卵果が成れば、子供が安心して育つ時代が近くまで来ていると言うこと。私達がしていることが報われるという事だと思わない?」

そんな浩瀚の気持も知らず沙参は訴え続けた。

「その子供を誰が育てる」

口に出してから、それは子が出来るというあり得ないはずの事を前提にしていることに気付いたが、彼女はそれをおかしいとも思わなかったようで、ただその言葉に唇を噛み締めた。

浩瀚はそれを見ていたがやがてぽつりと言った。

「しかしお前は知りたいのだろう」

「ええ」

受け入れがたい事を言いながらも媚びる様子も押し付ける様子も見せず、ただまっすぐにこちらを見ているその姿と向き合っていた浩瀚は、何だってこの期に及んでこんな事を言い出したのかと思った。それを言うならそもそもなぜこの娘はこれだけ長い仙の時を過ごしながら今頃になって自分の前に現れたのか、なぜせめてあと十年早く来なかったと何度思ったかしれなかった。


出生の届けはもちろん、里木に成っている卵果の数も州侯の元へ報告される。その数は空位の時代を挟む先の二人の女王の御代に減り続け、予王の末期にはほとんどないまでになった。そして新王が立ったあと少しずつ増えてはいたが、このままではいずれまた減るやもしれなかった。

帯の数、それは声を持つことを許されぬ民が天に示す治世への採点に他ならなかった。


男としては子に関心はなかったが、施政者としてあるいは乱の首謀者としてはそれも一興かと思おうとした。決してこの心の底を見せぬ自分の物にもならぬ女に言いくるめられたとは思いたくなかった。
今までどんな相手にも、これほどにその関係に意地を張ったことなどないことも認めたくもなかった。
学生時代別の学友のお遊びにつき合って、怪しげな店に飲みにいったこともある。自分ではばかばかしいと思いながらも友としてつき合う、それと何の違いがある。そう思おうとした。

浩瀚はひとつ小さな溜息をついた。それから書卓の上に積み上がった書類を床に下ろし、場所をあけた。

「こちらへ」

そう声をかけて一枚の紙を取り上げるとさらさらと書き始め、最後に自分の名を入れた。
並んでそれを見ていた女は、渡された筆でその隣に自分の名を書いた。
浩瀚はただ二人の名が並んだのを見ただけで、これほど何かを感じた事に内心驚き感慨を覚えていた。幼い頃から家族もなく、その後の長い年月ひとりで生きてきた彼にとっては誰かとこうして名を連ねたのは大学の寮の名札くらいだったかもしれない。
横を向けば、むしろ女の方が淡々とそれを見ていた。
再び浩瀚は筆をとり麦州侯としてその名を記し印を押した。

通常なら届け出は府第で窓口となる下位の官などの手を経て受理されるが、州侯の権限はそれを越える。これなら他にこの婚姻を知られることはない。

「私の最後の仕事に相応しいじゃないか」

浩瀚は楽しげに言うと女を抱き寄せた。
学生時代、官吏としてどんな仕事をしたいかと皆はよく話し合った。官は下位の間はただ書類の作成ばかりに追われる。早く出世したいというのはそこで初めて目指す政を行うことが出来るからであった。
州侯という官の頂点に立ち、おそらくはその最後の印を自分の婚姻の届けに押すことになろうとは、しかもその相手が彼女とは。当時の彼には思いも寄らないことであった。

くつくつと笑う浩瀚に、女は黙ってまわした手に力を入れて頭をその胸にすり寄せ、浩瀚の喉元を見上げた。

その時、外が騒がしくなった。
浩瀚は笑いを止めると、妻となった女を見下ろした。

「さて、残念だが帯を結ぶ時間はどうやらなさそうだな」

その間にも城外での騒ぎが窓から響いた。王の使いが城に到着したのだろう。

やがて扉が大きな音を立てて開かれ、勅使が到着した。

「麦州侯浩瀚、王の命により貴殿の州侯としての任を解き、ここに謀反の疑いありとしてその身を拘束する」

それに答える気もなさそうな相手を見て、勅使は付き添った兵に合図をすると浩瀚の両脇を囲ませて部屋から連れ出そうとした。

無言でそれを見ている牧伯に気づいた勅使は、冢宰府での顔見知りであった。彼女に礼をすると親しげに声をかけた。

「これでやっとあなたも堯天にお帰りになれますね。こんな田舎でさぞ退屈されたでしょう。冢宰もお帰りをお待ちでしたよ」

それまで無表情のまま部屋の戸口まで連れ出されようとしていた浩瀚は鋭い目で話している二人を振り向いた。
牧伯はその視線を感じながらもそちらを向かずに答えた。

「こちらはなかなか居心地がよくて、むしろ王宮より楽しく過ごしておりました」

勅使は同意しかねるという顔で肩をすくめて、ちらりと浩瀚を振り向くと意地悪げに言った。

「では、お帰りになったら麦州侯を希望されてはいかがですか?目の離せぬ輩が多い土地なので至急次の州侯を決めるようです。すでに候補は出ているでしょうが、貴女ならそれも思い通りにお出来になるのでは?」

言った相手の反応を窺う様子には、再び出世の流れに乗り始めた相手に恥ずかしげもなくおもねり媚びる態度が見られた。しかしそれに相手になろうともしない牧伯の冷たい態度にやや引っ込みの付かなくなった勅使は照れ隠しにやりと笑うと、傍らの下官に手をぞんざいに振って一枚の書類を取り出させた。

「これは」

「はい、州侯が更迭となれば牧伯がとりあえず内政を代わって司るものですが、このような州でございますので念のためでしょうか、この度州侯代理におなりになったのでございます。よもやここがお気に召すとは思いませんでしたので、すぐに堯天に戻りたいと言われた時の説得に頭が痛かったのですが」

まだ元の州侯がいるのも構わず、勅使の連れてきた周りの官や兵は皆口々に祝いの言葉を述べ、それを遠巻きにする麦州の者は複雑な表情でそれを見つめていた。

「 代理とはいえ、こうなればそのまま州侯に収まるのは容易いことでしょう」

愛想良くそんな事を言うこの男は、実のところ麦州侯の地位を狙う有力候補の手下であり、おこぼれであわよくば州冢あたりにでもと期待していたのであった。しかしどういうわけか今回は牧伯も州侯代理もみなこの女に転がり込み、他の者同様に靖共の考えに首をひねっていた。よもや靖共自身、なぜかこればかりは自分の意見が通らないのに苛立っていたとは知るよしもなかった。

景麒が浩瀚について進言しきれなかったことを悔やみ、残った彼女に賭けようと必死で陽子に頼んだとは靖共はむろん誰も思い至らなかった。台輔にとって沙参は今も許し難い敵のはずと当時を知る者なら思い込んでいたからである。
麒麟が目の前の王にどれほど執着しているのか、そして予王を失った経験を二度と繰り返すまいという執念をもつなど、冷たく無表情なその外貌からは見て取ることは出来ず、そのためには過去の恩讐すら乗り越えるほどとは理解していなかったのである。

牧伯、いや州侯代理は琥珀色の目が問いかける質問を目のすみで受け取りながらも、青い目は何の返事も与えなかった。

「牧伯が、ここをお気に召した理由は他にございますので、それがなくなってしまっては、さて、このままここにいて頂けるかどうか」

いつの間にか部屋に入ってきていた別の声が割り込んだ。牧伯付きの侍官であった。

「それは異な事をおっしゃる、いったい何のことか」

侍官はふふっと下卑た潜めた笑い声で、ついと浩瀚の方に顎をしゃくって見せた。

その視線の先をたどった勅使は、押さえた怒りと隠そうともしない侮蔑の表情が、むしろ冷ややかな美しさを醸している若い元州侯の貌を改めてつくづくと見やってから大仰に新しい領主に視線を動かした。
沙参はどうということもない顔でその視線を受けると、任命状をひらと振った。

「ではさっそく職務を果たさねば」

そう言うと、きりりとした態度で胸を張り浩瀚に向かって申し下した。

「元麦州侯浩瀚、そなたは本来なら城地下の牢に監禁すべきところだが、州侯代理の温情により城下私邸に監禁とする。そこで朝廷よりの沙汰を待て」

凛としたその声に重なる下卑た笑い声を聞きながら、浩瀚は長年の自室から引きずり出され、外で待ちかまえていた州兵に引き渡された。