州侯代理となった沙参は、そのまま浩瀚の仕事を引き継ぐこととなった。
そして乱の手配も続け、その資金とするために残り少なくなった浩瀚個人の資産をさらに最後の一文に至るまで遣った。
「つまりこれで私は文無しの男を夫にしたってわけ」
そんな事を挨拶代わりに言いながら、一日の仕事を終えた沙参は浩瀚の私邸に姿を見せた。
私邸とはいうものの、あまり使われることもなかったそれは簡素なもので、警備のため、あるいは無用の干渉を避けるために他の邸より敷地に余裕があるというだけのものだった。
「ね、呼びつけられるのは嫌だと言ったでしょ。こちらから男のところへなら毎晩でもいいのよ。桓魋が逃げてしまったのは残念だわ。臥所に立たせたかったのに。だって私の相手は危険極まりない国家の大罪人なのよ」
下世話な告げ口のおかげで二人の関係が表沙汰になってしまったが、沙参はそれをよいことに、毎晩朝廷からの監視の前をこれ見よがしに通って来た。
どちらも互いを恋人とは認めようとはしないまま突然婚姻することになり、今度は夫婦となった実感を持てないでいるふたりが、その上外からは人目をはばかる関係と見なされているというのはどちらにとっても妙な感じだった。
「文無しの男がいったい誰の夫となったのか、私としてはそちらの方が気になるが」
暗くなりがちな室内の雰囲気を少しでも明るくしようと華やかに軽口を叩きながら入ってきた沙参に冷ややかな声が答えた。任を解かれて自宅軟禁になって以来、髪を下ろして一つに括り、緩やかに着物を重ねていた。しかしその眼差しは州侯時代と変わらず鋭かった。
浩瀚にも彼女が州侯代理となったことは嬉しい誤算であり、彼女の貢献も計り知れないとは分かってはいたが、桓魋たちの様子も気になり、そこへ何も心配することなどなさそうな顔を作る彼女を見るとつい尖った言い方になってしまった。
「文無しな上に無位無冠で反逆罪で首の飛びかけている男は次期麦州侯の夫になったのよ。ご満足?」
州侯をやめても彼が乱のためにすべき事は限りなく、たとえ一行の文でも彼が書いた物なら受け取った同志の士気に及ぼす影響は大で、浩瀚の忙しさにはかわりはなかった。しかし予想のうちとはいえ、やはり身体を拘束されるといざというときに味方の助けになれないかもしれないと思えば、苛立つのも当然であった。それを沙参は笑いを抑えずに遠慮なしにからかった。それは彼への彼女らしいいたわりと励ましであった。
「ひとりで籠もっているから寂しくてむずかっているのね。これが落ち着いたら私の後宮に置いてあげるから、もうしばらくここで我慢なさい。大丈夫、前任の色好みの州侯みたいに窮屈になるほど沢山の男を押し込むつもりはないから。
でも年下もそう悪くはないと分かったから、今度は見た目も私より若いのを探そうかしら」
年下の男が喉の奥で何やら不穏な音を立てたのも気にせずゆったりと榻に座ると、ちょっと好色そうな表情をつくって彼に流し目を送った。
「ところで疲れている州侯にお酒くらい注いでくれないの?」
どんな施政者にも印を押したことも悔やむ書類はあるものだが、とうとう最後に失敗したようだとつぶやき、浩瀚は酒を一杯だけ注ぐとこれ見よがしに自分でぐいと飲み干した。
「あら、口移しで?それもいいわね」
そんな相手に臆することなく、沙参ははればれと笑って乱の部隊からの報告書などを積み上げた。
「はい、州侯のまがい物の愛人殿にお土産」
「本当に州侯に決まったのか」
浩瀚はそれらに目を通しながら、彼女が和州侯だったならと思った。こんな官が身近にいながらあんな獣を選ばざるを得なかった予王の無念さはいかばかりだったか。
そして本当にこの麦州を彼女が引き継いでくれるなら、彼の第二の故郷となったここについての後顧の憂いもなくなり、同時に一度は官位の道を閉ざされた彼女の復活となるわけで、口には出さずとも心から祝福した。
「それが正式な手続きはいつになるかわからないの。誰かさんの謀反のお陰もあって朝議は紛糾しっぱなしで、とりあえずここには優秀な牧伯兼州侯代理がいるのだから任せておこうという事らしいわ」
その自賛に対する前任者の同意しかねるというしかめ面に、優越感たっぷりの勝者の顔で応じた。
「だから一切の権限は州侯と全く同じに与えるから、好きなようにしろと言われたの。王からの書類が滞って何もかもどうにもならないらしい」
あの台輔の様子からも新王の政が順調でない事は分かっていたが、こうなるとそれも時間稼ぎには都合がよかった。
「それにしてもなぜこうも思い通りに出来るのだ」
「私の実力なら当然でしょ」
言いながら沙参は美しいが影の薄い金の髪の天の僕を思い浮かべた。
景麒はその時すでに二人目の女王にも王宮にひとり取り残されようとしていた。そこまでは沙参にも思いもよらなかったが、彼がその力を尽くして沙参に権力を与え、それによって陽子への援護が届くのを待ちわびているに違いないとは分かっていた。こうしてのんびり戯れ言を言い合う一刻一刻にもこの国の将来がかかっていると思えば、毎日どれほど働いても足りていると満足する事は出来なかった。
「ちなみにあの勅使は帰る前にご丁寧にもこちらまで来て、お前が靖共と関係をもって官位を思い通り得ているとほのめかしていった。そして私はそんな女にひっかかって骨抜きにされ地位も奪われた阿呆だそうだ」
浩瀚は
今度こそ怒らせる事が出来るかと言ってみたが、それにも単に面白そうに尋ね返された。
「そう思うの?」
もしこれがしらばっくれているだけなら、どんな厚顔不遜な官吏だって太刀打ち出来ないで逃げ出すだろう。
「いや」
「なぜ、そう確信できるの?私はずっとあの男の下にいたのよ」
「お前の身体が違うと教えた」
「……それは」
「おまえは口ではいくらでも嘘をつくが身体は正直だ。今まで欲のためあるいは強いられて好きでもない男には抱かれたことのない身体だ。おそらく他の男もそれを知って、たとえ他に競う相手がいても皆喜んでお前を愛していたのだろう」
娘は顔を見られぬよう背けたが、続く言葉を聞くと花色の髪を振り立ててむっとして睨みつけた。
「だから結局おまえは私に惚れているということだ。うん、そうに違いないな」
浩瀚はわざと大げさに満足げに言って、今度こそ相手の怒りを煽ることに成功した。
こうして顔を合わせれば相変わらず甘いとはいえない言葉でつばぜり合いを繰り返してはいたが、孤独なしかし成すべき事悩むことに限りのないこの日々に、浩瀚にとってその一日の終わりの彼女の訪問が何より待ち遠しいものとなっていた。
身近に同等あるいは仰ぐに相応しい王の存在を持たぬ州侯としての長い年月を、いれば毎日少しずつ心を癒してくれたはずの家族や妻もなく過ごして来た。それに何の不都合も感じず、せいぜい夜暖めてくれ他愛のないことを話す甘い肉体があればよいと思っていたが、それでは満たされず癒されないものがいつしか鬱積していたようだった。
そこへ突然現れ、仕事の上では同等の能力や権限を持って彼を助け、さらに女として、思うがままに生きているようでいながら、彼らしからぬこれまでの酷な態度に対しても、今までのどんな女より忍耐強く彼を受け入れたこの妻となった娘のことに思いをはせた。
浩瀚は立ち上がると、疲れの浮かんだ顔を彼の目の届かぬ背もたれの陰に隠して寛いでいる彼女の前に立った。
山の上の広大な州城の奥からいくら州侯の為の門を通ってとはいえここまで来る時間も惜しいはず。疲れた身体でそれでも毎晩ここまで彼の相手にやって来る、その細い手に杯を押し込むと酒を注いだ。
思いがけぬ彼の行動に、彼女は胡散臭そうな顔で礼を言った。
「なに、生き延びて牢から後宮に移った時に備えての練習だ。おまえの寵を競う相手が増えるそうだからな」
「試験の準備に怠りのなかった男らしいわね」
そっけない言葉を返しながら、少し低い声で言い添えた。
「他に何人いようと、天が私と帯を結ぶ事を許すのはあなただけだと思う」
そして酒器を手にその言葉の意味を考える彼に笑みを浮かべて見せた。