幽閉中の浩瀚はふと予王について、そして彼女と沙参の事を考える事があった。その運命に同情はしても共感を覚える事などありそうもなかったが、沙参以外話す相手もいない蟄居の身になったせいかもしれない。
生涯閉ざされた世界にいるしかないと諦めた女王にとって、豪華な王宮で華やかに着飾った沙参が雅な男の官と戯れる姿は、美しい羽を持つ鳥を飼うにも似たことだったに違いなく、そしてそんな彼女に一体化することを夢見、そのこどもまで欲しがった王の気持は今の彼になら少し分かる気がした。

実のところ州城では闇の中で独り占めすることしか考えなかったのに、こうして寒々とした下界で幽閉され金も権力も失おうとしている今、なぜか彼女を思いきり着飾らせ州城で遊ばせてみたかったと思うようになっていた。
そこでせめてもと心の中で想像してみれば、彼女の周りになぜか男を配してしてしまい、恋に恋していた予王ではあるまいにと苦笑し、婚姻した自覚もないが夫となったという余裕からの遊び心の成せる技かと怪しんだ。しかも姿の定かでなかった周りの男の顔がいつか柴望になり、その袖に包まれて彼に微笑みかける彼女が目に浮かぶに至ってはさすがに打ち消そうとしたものの、顔のない男に戻すと今度はその後ろ姿が先だって彼女と一夜を過ごした王宮の男に思えたりした。
その妄想でなにより戸惑う事は、それに嫉妬するどころか他の男と遊ぶそんな姿に、疲れた身でそれでも何も言わず毎晩訪れてくれる彼女とはまた違う愛おしさを感じる事で、これはいったいどうしたことかと呆れたが、それこそが他の男と同じ気持ではと気付いた。
柴望がふたりの関係を知りながらもじっと耐え、それを受け入れがたく思いながらも彼女の側にいることがあればやはり嬉しそうにし、浩瀚の邪魔をするどころかふたりの口争いを取り成そうとやきもきしていたのを思い出した。彼にとって一番辛いことは彼女を得ることが出来ない事ではなく、彼女が輝きを失う事なのだろう。

彼女が幸せに楽しげに輝いている姿を目にすること、それが女王であれ男であれ彼女を愛した者の何よりの歓びとなるのだ。

予王にもこちらでも官としてあれほど尽くしながらそんな事でばかり評価されていると知れば、何よりも官として生きる事に誇りを持つ彼女はさぞ不満だろうとおかしかった。だが政務に長けた者などいいくらでもいるが、その本性で人の心を生き返らせ保たせる事の出来る者など稀である。

自分の手の中にいなくとも、たとえ他の男のものでも、愛おしいと思える女など二度と、二度と見つけることなど出来ないはず。そんな女を妻にした事は男として幸せなのか不幸なのか。

そして今はこれ以上彼女の事など考えるべきではないと、そんな考えを振り払い、また書卓に向かい柴望への書簡を書き続けた。

 

夜が更けると、浩瀚の鳥は以前と違い自ら進んで彼の腕の中に来た。

死んだあとのために、そう彼女は言った。

以前密かに詣った予王の陵はひっそりとして詣る人影も無く、誰かに見られてはと心配したのが杞憂なほどに忘れ去られた場所となって花や香を手向けられた様子もなかった。
その中に合葬される半身もなく、生きていれば参ったであろう妹も亡くなり、それは嘗て王宮で孤立していた姿よりいっそう孤独な死者の宮であった。
そして沙参もその墓前に備えるものを何も持たずにたたずむしかなかった。


――御陵で主上はお寂しくされているはず。私が逝くことがあれば、まだお聞きになっていない私の恋の話を聞きたがられるに違いないの。でもあの後はお話しできるような恋はなくて。だからたくさんおみやげ話になるような夜を過ごさせて頂戴。

「私は生きていれば赤子王への手土産にされるそうだが、予王へも土産にされるのか」

そう言いながらも浩瀚は切なそうに伸ばされる腕を引き寄せて揺れ動く心ごと抱き締めた。

――そう、昼の貴方は赤子王に、でも夜の貴方はいつまでも予王と私のもの、いいでしょ?

「あ……ああ」

浩瀚がそう答えるしかなく抱き寄せると、沙参の身体はその隅々までがまるで彼に溶け込もうとするかのようであった。腕は彼以外の男を包んだことがないかのように絡みつき、まるで陰陽の徴のように二人の身体はしっくりと添い合った。
以前の意地の張り合いのようなただ激しい夜と違い、しかも今までの他の愛人との夜では経験をしたころのない染み通るような深い触れ合いだった。
さりとて浩瀚にはこれが夫婦の睦みごととも思えなかった。将来にわたって長く共にという夫婦としての前提がそこにはなかったからである。なにより臥所がふたりきりの場所になることはなかった。

「そんなに女王は寂しくされていたのか」
まだ交わした情の余韻に包まれたまま尋ねた。

――王になる前の彼女の御年を考えて。誰かの手を待っているところへ、いきなりあの無愛想な麒麟が現れ結婚も許されない世界へ連れてこられ、意地の悪い官ばかりの王宮で残り一生過ごすことになったのよ。
私が冢宰になったら、真っ先に身近な官を全部有能で誠実な若いいい男に代えて差し上げるわ。

「それは冢宰というより何かの商売の主のようだが」

他意もないその言葉に何か不愉快な事を思いだした娘は半身を起こすと、いつになくむきになって浩瀚を睨んだ。

――あの時冢宰はそれをしたのよ。

「え?」

――私の後任にいかにもという男を予王に押し付けたの。他の誰も近づけなくして。幸い王は相手にされなかった。でもそのためにお寂しい思いをされた。だからたくさん周りにいることが必要なの。慶中からとびきりの男をかき集めてさしあげるわ。

「ずいぶんそれについては目が肥えていそうだな」

それに娘はあっさりと笑ってみせ、その屈託のなさに浩瀚は嫉妬も起きなかった。



先のない寒い長い夜、後になればごく僅かな期間の夫婦としての夜、束の間の夢を互いの胸の中で語り合った。

「これが終わったら冢宰を目指すのか、たしかに州侯夫人として州城の後宮に収まるとは思えないが」

娘は晴れやかに笑った。

――私は王に王宮の後宮を使ってもいいと言われた女よ。州城は州侯の執務室だって狭すぎる。
私は何がなんでも冢宰になるの。それしか女王を助けられる地位はないと、身を以て知っているから。



浩瀚は彼女が僅かな暇があれば小さな綴りになにやら書き付けているのを知っていた。忙しく疲れているはずだが、それを書いている顔は楽しげだった。日記かと聞いてみたが、違うと言われ、装幀されているから男への文でもなさそうだった。
それは彼女が赤子王に仕えることになった時に政務について教えるための手引き書であった。嘗て予王に同じ事をした経験に加え、海客である王にはさらに教えることは限りがなかった。
来るかどうかもわからない日に、王の執務室でこれを元に仕える日を夢見ることが僅かな休息時間を割いても彼女がしたかったことであった。

王宮を避けている浩瀚は、つい嫌がらせめいたものを言ってしまった。

「王宮なぞ戻りたい者の気が知れない」

――大丈夫、これが終わったら貴方にはまた州侯の地位は返してあげる。
あなたは人の顔の見えない政が嫌いだから王宮に籠もって上から命じるなんて出来ない人。
悔しいけど、今の慶で一番冢宰に相応しいのは誰かと聞かれれば貴方だと思うの。でもその本人にやる気がないのでは私がしたっていいでしょ。

そしてそっと言った。
――出来れば予王がいらっしゃる間に、冢宰になりたかった。

「助けられたと思うのか?」

――いいえ、ひとりで蓬山に行かせずに、私が斬ってさし上げることが出来たのにと思うだけ。

浩瀚は息をのんだ。

――そしてそのまま自分も死ねたと思うから、今こうしてむざむざと生きてゆくこともなかったのに。


「自分がもうすでに死んだ人間だと思っているのか?
もし、そうなら違う。私は死人を妻にしたつもりも、腕に抱いているつもりもないが」

――いいえ、私はもう一度死んでいる。いまさらもう一度死んでもかまわない。
でもあなたや柴望は違う。必ず生きて女王の元へ戻って。

「戻ると言っても、単に乱を起こしたと処罰されに行くだけに思うが」

――処罰されても、死罪にならない限りまた機会はあるわ。




舒覚のあの青い王気は、それが翳った時期にそばを離れていた彼女には影響を減らさずそのまま残り、こうして浩瀚の元で再びその力を彼女に振るったように思えた。
寂しさを訴え他にそのはけ口を持たぬ力に操られたまま、娘はそれに耐えられるたったひとりの男の胸の中で終焉に向かっていた。

◇第三章 終◇