その夜、娘は見知らぬ女官の手引きで州城の奥の路寝へと招かれた。
一番奥まった堂室の重い扉を開けて彼女を招き入れると女官は去った。

天井の高い広い部屋で、調度も置物も鬱陶しいほどに豪奢で重々しかった。
それを興味深そうに見渡していると、奥の緞帳の間から白い単衫に薄物を重ねた男が、杯を掲げたまま出てきた。

「柴望から今夜の夜伽の相手は目先が変わっていて楽しめると言われたが、なるほどこれは珍しい。今までの牧伯は仕事の時間がとても短い者ばかりであったが。今度の牧伯殿は夜も働いて州侯の行動を探るのか」

冷ややかな眼差しでこちらを見る相手に、娘はしらっとして答えた。

「堯天と王宮暮らしが長かった人間には、ここは少々殺風景で退屈。
身をもてあまして柴望に相談したら、これが一番手近な気晴らしだと勧められただけ」

「それはそれは。大切な牧伯殿を退屈させていたとは申し訳ない。
堯天ほどのもてなしは無理かと思うが、まずはこちらの田舎酒でも」

そう言って、傍らの酒を勧められた。
彼はすでにやや酔いがまわり始めているらしく、声がいつもより柔らかで話し方も鋭さを感じさせなかった。

「頂きましょう」

二人で暫く静かに酒を酌み交わした。
しかし娘がゆったりと酒を楽しんでいるのを見ていた浩瀚は、だんだんいらいらしてきた。
柴望から昼間の事を聞き、半信半疑でとりあえずここまで呼んだのだが、まだ信頼したわけではなかった。半眼でちらりと見ると、娘はそれに気づいてにっこりと笑った。

彼女がこちらに来てからのすました笑いに辟易していた浩瀚は、いい加減にして欲しいと思い立ち上がった。
そして口を開こうとすると、すかさず相手も立ち上がり側に寄ると唇を重ねてきた。唇を重ねたと言うより咄嗟に口をふさがれたという感じであったが。
驚いて身を振り払おうとする浩瀚の首に腕を回したまま、その唇がしっと言葉を制した。そのまま頭を振って合図するので、黙ってそれに従い奥へと伴った。


臥室に入ると、娘は厳しい眼であたりを見回し、静かに動いてあちこちを覗き込んだ。それから勝手に牀榻に上がり込むと枕元の壁を調べていたが、やがて浩瀚を手招きした。

「ずいぶん色気のない誘いだな」

そう言われても、どうでも良さそうな顔で目はまだ油断なくあたりを伺っていた。
耳元で「何か潜んでいるのか?」と尋ねると首を横に振った。

「分からないけど話ができるのは、もうここくらいしかなさそうだから」
小さい声で答えた。

「州侯更迭はもう時間の問題。それは分かっているわね」
「ふむ、やはりそうか」

「ただの更迭で済めばいいけど、おそらくそれでは済まない。あなたの首にこだわっている者がいるらしい。何か考えがあるなら一刻も早く動いて。
あなたが何に関わろうが、何があってもその黒幕とされ敵に口実ときっかけを与えるのでは?」

浩瀚はただ唇だけで笑って見せたが、次の言葉にその唇を引き締めた。

「今朝青鳥が来て、王宮での何かの企てに敵が感づいたらしい。春官に知り合いは?」

浩瀚ははっと息を呑み、牀榻から飛び出そうとした。娘はそれを身体ごと飛びかかって押さえつけると、潜めた声で必死で言葉を続けた。

「もし知らせてなんとかなるなら私も助けたわ。でもそちらは彼らに任せましょう。私にはあなた達しか救えない。分かってちょうだい」

娘の身体を半分引きずったような形で止まって浩瀚は振り返って訊いた。その口調には酔った様子など微塵もなかった。

「いったいおまえは何だ。何のためにここにいる」

問われた娘はきっぱりと言った。
「敵ではないわ」

「なぜそれを信じることが出来る。現に敵の側でなければこの時期牧伯に任じられるはずがない」

「そう、だから何としてでもこの役目を受けたかったの。決まりかけたものを二度も妨害して最後の最後に横取りしたのよ。その後もぐずぐずしていれば、また別の候補者が現れるから、任命されるなり印も乾ききらない書類をひっつかんでここへ飛んで来たのよ」

新しい牧伯の名を何度探ってもはっきりしなかったのはそのためか。そしてあの慌ただしい到着も彼女の意向だったのか。

「しかし、そんな力があるようには見えないが」
重ねて問うたが、そっぽを向かれた。

「必死になれば何だって出来るわ」

「なぜだ」
さらに問いつめると、怒りに燃えた言葉が叩き付けられた。

「なぜ?昔あれほど語りあった私にそれを問うの?」
いつもは紫がかった柔らかな青い瞳が怒りに青い炎となった。

その怒りに浩瀚ははっとした。
年上の学友であり親友だった。いつも明るく屈託なく笑い自信に溢れていた。あの堅物の柴望をからかい怒らせることのできる者など他に見たこともないが、学問では浩瀚をうならせるほどの説を唱えることもあり、時に弓で柴望に負けて悔しがっていた。それでもいつも明るく笑っていた。
かって怒っている姿を見たことがあっただろうか。

そして再会して以来気になっていたこの美しい眼の奥にある澱みは何なのか。

「何があった、あれから今までに何があったんだ」
両肩を抱えて訊いた。その肩は男に負けず剣を振るのを知っていたが、それはこんなに華奢だっただろうか。

「そんな事はどうでもいいの、今これからする事が大事なのよ」
相手は肩にかかる手を振り払って強く言った。

「もう一度言うわ。何かするなら急いで、私の時間稼ぎもそろそろ限界。このままでは目付の官もいつ疑い始めるかわからない」

そう言い捨てると牀榻から出ようとしたが、それを見送りかけた浩瀚は咄嗟に片腕を掴んで引き寄せると、そのままもがく娘を押し倒した。

「何をするの」

「鄙びた田舎城の夜の気晴らしに来たのではなかったのか」
乱れた花色の髪を指に絡めた。

「ええ、有意義な会話とお酒で十分堪能させて貰ったわ」
相手は もぞもぞと身体よじって抜け出そうとした。

「おや、柴望はそんなことは言わなかったはず。気晴らしはこれからと思わないか」
少し意地悪さの戻った声で言うと、娘はいやそうに顔をしかめてさらにもがいて抜け出そうと暴れた。

「何があった。それを言えば離してやる」
跡が付くかと思うほどに強く両腕を掴んで耳元で詰問した。

その言葉にはっとすると、娘は彼の下で眼を閉じた。身体から力が抜けて呟いた。
「勝手にしなさい」

浩瀚はしばらくその無防備で気力を失った姿を見下ろしていたが、そっと抱き起こした。

「すまない。しかしどうしても様子が気にかかって。これは古い友として心配したんだ。引き留めはしない。部屋まで送ろう」

下を向いたままの顔にかかる前髪を静かにかき上げた。

娘は黙って牀榻を降り、出口まで行ったがふと立ち止まった。後に続いていた浩瀚も止まりどうしたかと思っていると、くるりと身を翻し 目を合わさぬままにその胸にもたれるようにしがみついてきた。
しがみつかれた浩瀚は驚いたが、娘はそのまま彼の胸に顔を埋め決して声も立てず涙も流さなかったが、それでもその全身で泣いている事は分かった。あまりに長い悲しみ 深い嘆きを経るといつか人は涙も泣き声もなくすことを知っている浩瀚は無言でただそれを見下ろしていた。

やがてその涙のない嗚咽の波が引いた一瞬、浩瀚の腕がゆっくりと上がって娘を包み込み、ひとこと耳もとで囁いた。そして返事を待たず抱き上げると臥室へと戻った。