王宮奥深くに立ち入ることを許されている浩瀚は、自分の息子が陽子のそばにいるとき、またひとりであるいは女官に連れられて遊ぶ姿を見かけることはあった。おそらく自邸に置けばその時間すべてを職に捧げている彼が子を見ることはほとんどなく、陽子に委ねたからこそ会う事が多かったのは皮肉であった。
居合わせても親として言葉をかけることはなく、眼も合わさぬようにしていたが、物陰から密かに様子を窺う事はあった。
そんな時、やはり人目を忍ぶようにしてこどもに近寄る男をひとりならず見ることがあり、台輔のつけた使令に加え本人にも王にも知らせずにさらに警護を付けてはいたが、もしやと宮中用の小刀に手をかけたこともあった。
しかし彼らは膝を折って声をかけ、あるいは菓子を与えたり子供の機嫌が良ければ抱き上げたりするだけであった。
膝に乗せて静かに子供と話している彼らは、王宮のここまで入れるほどの地位もあり、浩瀚とは個人的な面識はなくとも職務における優秀さで彼の目に留まった事もある男達であった。また容姿も様々ながらいずれも男の目から見ても美しく、気質も気持ちのよい男と見えた。
女王の養い子が誰の子かを密かに囁かれるうち、その母親を知る者なら、その関係を推し量る事も出来たのだろう。彼らが浩瀚よりこの子の母親を良く知り愛していたことは、こどもに注ぐその表情を見れば間違いなかった。
柴望がやはり同じような眼差しでこの子を見ているのにも気づいていた。浩瀚には何も言わなかったが和州城には最初から彼のための部屋が準備され、州が落ち着くのを待っていた。そして今は女王がこのおもちゃに飽きるのを辛抱強く待っているのであろう。
そうした男のひとりは浩瀚が冢宰になった時、冢宰府へ採用しようとしたが、なぜか地方への出向を希望して王宮を去った。
何かまだ露見していない靖共との繋がりでもあったのかと思われたがそのようでもなく、その後の地方での仕事ぶりも申し分ないのでその能を惜しむ浩瀚としてはいずれどこかの州の要職の候補に心づもりしていた。しかしある時突然王宮へ戻ることを願い出ると、適当な空きがなく降格となるのも承知で戻って来た。
今にして思えばそれはこの少年がこちらへ来た後だった。この子が誰の子かを見極めるため、またその後その姿をかいま見るために地位を失うことも構わなかったようであった。
穏やかだが情が深く意志の強そうなその物腰を見ていると、恐らく自分よりずっとよい夫、父となったであろうことは想像が付いた。
彼らは複雑な王宮の官吏の派閥のあちこちに散らばっていた。
王宮での足がかりは唯一王の信頼、それも桓魋らを通して得た信頼という盤石とはほど遠い状況で朝を率いることになった浩瀚だった。地方が長かった彼にはこちらには気心の知れた官もいなかった。
もし沙参が冢宰であれば、その統率は彼らの協力も得てもっと速やかに進んだかもしれない。
彼らに浩瀚はどのように思われているのだろうか。
政の能力についての判断とはまた別の基準の上では、彼女の認めた相手であったから少なくとも当分は見てやろうと思われているようでもあり、あるいは彼女の望みを進める一番よい当座の手だてと思って見逃しているという気もした。
そしてそんな彼らが女の分身であるあの子供の将来に関心を持つのは当然かもしれなかった。他の者が王の養い子として、あるいは冢宰の実子として見ている中で彼らには違うのだろう。
権力の中心をあえて避けてきた者までが急に位を得ることに熱心になっているように見受けるのは、靖共一派が力を失い能力が正当に認められるようになったためもあるだろうが、この子の成長への期待と関係しているのかもしれない。そもそも内殿奥深くにいる子供に近づくとなれば並の官位では不可能であった。
あの子に近づくことで陽子の面識を得ようとしているかと思ったが、陽子がいるところでは決して子供に近づかず、万一の時はすばやく姿を消した。
一方で浩瀚に見られていることに気づいても、いずれも素知らぬ顔だった。まるで浩瀚がとるにたらぬ飾り物であるかのように。あるいは沙参の子をないがしろにしているとしか見えぬ彼への無言の抗議なのか。
官としてはいずれも浩瀚におもねる様子も無下に反対の立場もとらず、ほどほど所属する派閥に迎合しながら正道を貫いていた。
彼らは遠い地方で中央の干渉を避けて自分流の政をしてきた浩瀚と違い、様々な不正の横行の中で人には言えぬ迫害も受けながら、それでもそれらに取り込まれることもけ落とされもせず静かに生き残ってきた有能でしたたかな慶の精鋭であった。
こちらで頼りになる官の欲しい浩瀚としてはいずれもぜひとも身近に得たい人材揃いと言えたが、目に見えぬ壁が彼らと浩瀚を隔てていた。
突然地方から現れて彼らの長となった男、浩瀚がこのままその地位に留まろうと失脚しようとそれは官としての長い年月のひとこま。彼らは常にここに残るのであり、浩瀚にあえて逆らわない事に国官としての誇りと矜持を見せているようであった。
そして今は沙参の存在によって外には出さない繋がりを持ちあっているように見えた。彼女がここにいれば今も互いに競争相手になっただろうが、いなくなったことで永遠の要となって彼らの中に生き続けようとしていた。
その繋がりの中に浩瀚は入っていなかった。柴望なら入れて貰えるのかもしれない。
そして彼らの視線の交わるところにいるのはあの少年だった。
悪政のなかで苦渋に耐え続け、しかも彼女を失った男たちであったが、男としてそして官としての夢を託す相手を得たと信じたいのではないだろうか。
夢を託せる相手を持った人間の強さと喜びを浩瀚はよく知っていた。だからそれが彼の夢の相手である陽子に反するものにならない限り、たとえ彼自身を排する結果になるものでも見守るつもりだった。
しかしこの子に失った女の代わりを求める男達は哀れだと思った。
彼女を彼らから奪ったのは浩瀚ではなく舒覚だった事をどれだけ分かっているのか。いや分かっていても、すでに身罷った王にではなく目の前の異分子の浩瀚に責を負わせる方が楽なのに違いないが。
舒覚のその王気に捕らわれたまま残されたために、彼女は陽子の朝を守ろうとしてすべてを失い、同時に舒覚の夢のために子を残した。
浩瀚はそこに居合わせ彼女のふたつの目的のその手段となったにすぎなかった。
そして今、その子はすでに新しい王の元にいる。それがどういう事なのかをわかっているのかと浩瀚は言いたかった。
陽子の元に引き取られるなりその精神が彼女に同調したところを浩瀚はその目で見ていた。もはや誰もこの子供を陽子以上に操れる者はいないはずで、成長して陽子から引き離される時の彼の苦しみを考えまいとした。あの何ものにも囚われず自由だった沙参ですら死ぬことでしか予王の王気から解放される事はなかったのである。
少年が少し大きくなった時、その幼さの残る首に白刃を押し当てて彼より女王を選ぶ事を告げた。そしてその時の少年の返事に彼は孤独な冢宰としての年月にいずれ同志を得ることが出来るかもと夢を持った。
そして自分と息子、たとえ互いに刃を向けることがあっても、残った者は沙参の願い通りいつか陽子に刃を向けざるを得ない日が来るまで彼女に仕えるのだろうとも。
あの時の乱が終わった時、彼女がここに戻っていてもやはり彼女との縁はそれで切れたのではと思う。
そして自分は恐らく麦州へ戻り、彼女は冢宰を目指し王宮で待つ男のうちの誰かとまた共に時を過ごしたかもしれない。
彼女が夢に描いた将来の計画に家族としての浩瀚は入っていなかった。
しかしそれを非難は出来ない。現に今の彼の生活には子供すら入っていない。
ともあれ、麦州での最後の時を彼と共有したのは彼女であった。
−赤楽六年より後の金波宮−
これは浩瀚jrのシリーズの新しい設定のおぼえ書き的なものだったので、少しくどくてお読み辛いかもしれません。