息を潜めて嵐を待つ静かな緊張の日々を過ごしながら、沙参はもうひとつの目的を忘れてはいなかった。
「何をしている」
幽閉されてまだ間もない頃、奥で書き物をしているとばかり思っていた浩瀚に背後から忍び寄られ、沙参は素早く胸元に何かを隠した。何気なくかけた声に対してのいつになく慌てた様子に浩瀚もついのってしまい、座ったままうろたえる彼女の上に被さると逃げ回る手を追いかけた。いつもながら彼女とだとなぜかこんな子供のような事にむきになってしまう。しかしあちこちに手を滑り込ませたが何も手には触れず、諦めた振りをして手持ち無沙汰に手を彷徨わせながら細めた瞼の陰で油断なく見張っていると、もう気づかれないと思った手がこっそりとなにやら長椅子の隙間に押し込もうとしていた。すかさず横取りしようとしたが、相手も必死の引っ張り合いとなった。
「いたっ」
そう言うと沙参が突然掴んでいたものから手を離し、浩瀚が何ごととこちらもせっかくの獲物を放り出してその手をとると、小さな赤い血のしずく付いていた。そしてそっと口を寄せて血を舐めとった手には、よく見ないと分からないほどの同じような傷の痕が両手のあちこちにあった。
改めて落ちたものを取り上げると青い絹地の外側に針先が突き出ていた。彼女も観念したようでそれ以上取り返そうとはせず、浩瀚がそれを開くのを照れくさそうに見ていた。
「これは・・・」
「……帯よ」
まだそんなことを、と呆れて妻となった女の顔を見た。そして改めてその帯を見下ろしたが、これは・・・・。
その浩瀚の表情を探るように見ていた沙参は元気のない声で呟いた。
「なにしろ針を持つなんて初めてで。繕いものもしたことがなかったし」
寮生なら男でも繕い物くらいはするのだが、自宅からの学生であった彼女は母親か召使いに頼りっぱなしであったのだろう。
「もしやこれが予王から頂いた品か」
「そう」
里木用の帯にもうすっぺらで粗末なものからいろいろとあるが、これは惜しげなく絹をつかって織られた物で持った手から重たげに垂れ下がっていた。しかも細く紡いだ糸の手触りは巻いてもすぐに解けそうなほどにすべすべとしており、深い色合いの染めは夏の日の青海を思わせる見事な品だった。それゆえそれだけ里木に巻いてもよいほどのもののはずであったが、赤い糸で刺されたぐにゃぐにゃの縫い目がその美しさを損ない、これでは里木に結んでも雑巾と間違えられそうだった。
それを手に沙参を見れば、赤くなって俯く姿は男に負けず剣を振るい学問に励んでいた姿からはほど遠いもので、いつもと違い縹色の髪までが元気なく顔の両側に垂れ下がっていた。
彼女を予王から戴いたという字で呼ぶ者は今では誰もいなかった。青い釣り鐘型の可憐な花の名はもともと僅かな者にしか知られず、しかもごく短い間使われただけであった。そして予王を思い出すものはその後全て忘れ去られたか忌み嫌われたので親しかった者もその名で呼ぶのを遠慮したのであろう。浩瀚も慣れた元の名で呼んでいたが、その俯く青い頭のしおらしさに、このじゃじゃ馬があの妙な名に初めて相応しくなったと思った。
予王はこの青い帯を与えた時、得意な事で彼女を手助け出来る事が出来ると喜んだのだろうが、こんな姿を見ればもっと喜んだに違いない。
しかし予王も母親も今は亡いとなれば、浩瀚が何とかしてやるしかなかった。なにしろ……これは一応彼が父親になる準備なのだから。
「これは縫い物ではなく刺繍のはずだが」
頭に浮かんだ子だの父親だのという言葉に溜息が出そうになるのを押さえ、嫌みにきこえぬよう気を使いながらも、そのあまりのひどさにそれ以上の言い様を思いつけなかった。
「わかってはいるけど、内緒だから誰かに教えてもらうわけにもゆかないでしょ。とりあえず縁どりでもしようかと思ったんだけど」
ぶつぶつと言い訳するのがまた常の彼女らしくなくおかしかった。とすると、この雑巾の縫い目もどきが縁取りということらしい。あの指の傷の数と比べてこの縫い目の少ないこと。
どうしても我慢できずくつくつと押さえた声で笑う浩瀚を恨めしげに見ているのが、彼には可愛くてしょうがなかった。自分より年上だったと思い、今では一州を率いているのだと思おうとするのだが、ただ可愛かった。
そして浩瀚がやっとひとつ考えついてそれを返すと、白い手がひったくって悔しそうに抱え込んだ。
「もう見つかったのだから、そこの棚に置いてゆけばいい。持ち歩くものでもないだろう」
その言葉に沙参も諦めたように渋々頷いた。
次の夜再び現れた沙参の前に浩瀚が改めて帯を差し出した。そこには長さいっぱいに数本の茶色い穂の絵が描かれていた。
「これは……」
「ああ、麦だ。この冬を越して春になった時、このように実り豊かな国になるのかどうかを知りたいのであろう」
それを手にとって見つめる妻に背後から腕をまわして説明した。
「
これは顔料ではなく、予王の時代に女たちに仕事を与えるための作業所で使っていた染料で描いた。だから多少の雨露なら耐えるだろう。
この穂のまわりを取り囲むまっすぐの線の上を刺してはどうか、それなら出来るのでは?」
黙ってそれを見つめていたので気に入らないのかと心配したが、こちらを振り向いた顔は感謝と安堵の気持ちが溢れており、ありがとう、小さな声でそう言うとしがみついてきた。
「こんなもので喜ばせる事が出来るとは、無一文の男にはありがたい伴侶だな」
そんな軽口を叩いて戸惑いをごまかし、長身を感じさせない軽く柔らかなその身を抱きしめると、優しいその感触は明日がまだあると言うことを彼に思い出させた。そして彼の視線の先でその手に揺れる青い小さな帯は、明日より先になにか良いことがあるかもしれないと告げているようであった。
ある日、柴望がこっそりと忍び込んできた。
「よく来れたな」
「はい、しかしあまり時間はありませんので手短に」
そして手際よく和州での準備の話を伝えた。味方が麦州侯代理になったのが幸いして、思いがけずいろいろなところで便宜も図られ、物資の移動も無事進んでいた。
話し終わってふとそばの棚を見た柴望は思いがけないものを見た。
「これは・・・・」
「里木用の帯だ」
そっと取り上げてみると、達者な筆で書かれた麦に金の糸が刺されていた。
それを見つめている柴望に、少し決まり悪げな声がかかった。
「それで天に問うそうだ。果たして我々の企てが成功するかどうかを」
それに答えずまだじっとそれを見つめていた柴望は、しばらく預かれるかと聞いた。なぜと浩瀚は思ったが、その顔を見て頷いた。
それから間もなくのある夜、沙参のすぐ後に再び柴望が忍び込んできた。
三人が顔を揃えるのは久々だったが柴望は娘の変化に気づいた。一度は失われていたあの輝きがまた戻っていた。しかもただ自分が燦然と輝いているのではなく、今は周りも包み込むような柔らかな輝きに見えた。今頃慣れぬ土地で日に日に寒さが厳しくなる中準備を進めている同志にも分けてやりたくなるような暖かさを持った輝きであった。緊迫した今の状況のため、あるいは州侯に任じられたためもあるだろうが、やはりその多くは浩瀚との結びつきによるものなのだろう。
変化は浩瀚にもあった。まだ州城にいた頃は浩瀚からも沙参からも互いの香りを感じることは決してなかった。それがこの前にここへ来た時、確かに浩瀚に彼女の香りを感じた。今まで何人女を侍らそうと決してその香りを付けることのなかった浩瀚に、とうとうその香りを残すことの出来る相手が出来たのかと彼の幸せを思いながらも無性に切なかった。
そんな想いを振り切って柴望は懐から大切そうに布を取り出した。
「ああ、よかった。時間が足りないので一日でも刺せないのが気になって。柴望がいったい帯に何の用があったの?」
沙参はほっとしたように帯を受け取ると、そう訊ねながらもさっそく刺そうとしたがふと何かに気づいて刺しかけた針を止めて裏返した。
帯は二つに折って仕立てるようになっていたが、その内側に細い筆でびっしりと何か書かれていた。中央に柴望の名があり桓魋の名もあった。その他にも知った名、知らない名が帯を埋め尽くしていた。遠甫の名まであったが、さらにそれらを取り囲むように無数の丸が描かれていた。自分の名前すら書けない者がいたのか、あるいは小さな帯にはもう名を書く場所がなかったためか。これらはそうした無名の者の署名なのだろう。
彼女が針を浮かせて帯の裏を見やったままなのをいぶかしんだ浩瀚ものぞき込み、やはりそのまま何も言わず見つめた。そして二人は顔を見合わせて帯の上で互いの頭を寄せ合ったが、ふと沙参は柴望の方を見ると手を伸ばし、彼の首を引き寄せて一緒に頭を寄せ合った。
幾人もの祈りと祝福に満たされた小さな帯の上で三人の旧友は額を寄せ合ってこれから為すことが天の意に添うことを祈った。
やがて浩瀚が堯天に護送される日が来た。
その手配をした柴望や桓魋の計画が成功することを祈るばかりであった。