王宮への護送の途中で脱走に成功した浩瀚は遠くに逃げると見せかけて、半日身を潜めてから町へ引き返すとある里へと向かった。
寒さが身に染みたが冷たく冴えた朝の空気の中を駈けるのは、幽閉されていた身には心地よく爽快で、その開放感に何度も大きく胸の底から息を吸った。
味方に救出される前、護送の指揮をしていた王宮の秋官が近寄ると、後ろ手に縛った綱を確認するふりをしながら浩瀚に小刀を握らせた。その間それが他の兵に見えないよう別の二人がさりげなく彼らを囲んでいた。逃げる時振り返ると、彼らはいずれも救出の兵の剣の前でさも恐ろしげに腰抜けの文官を演じていた。
彼らも、さらにはその後逃亡した元麦州侯追跡の任に当たった夏官も、沙参の元部下や友人であった。巻き添えで殺されていたかもしれない上、生き延びても失態への処分を考えれば申し訳なく思うと共に、王宮の官にもまだまだ心あるものがいると知り、今後彼らがその力を存分に振るえる王宮になればと願った。
しかし命を捨てた男となる前に、ひとりの夫としてすべきことが残っていた。
最初に聞かされた時は全く現実味のなかった話が、短い妙な新婚生活の間に帯が出来上がって行くのを見ることで、徐々に現実のものになって来ていた。
彼を目の届かぬところへ一時でも行かせる事に反対する護衛をなんとか説得して離れたところに待たせ、ひとりでたどり着いた里木の柵の前には心配そうにたたずむ見慣れた姿が待っていた。夜の長い真冬のこんな早い時間に外を出歩く者など滅多にいないが、それでも誰かに見られないように深く顔を防寒具に埋めたままの二人はたった一日離れていただけであったが再び堅く抱き合った。
命あるもの全ての気配が絶えたように思えるこんな季節の空気も今の彼らには乾き飢えた喉に染みとおる水のように甘露で、その上で葉もない里木のそばに近づけば空気は和らぎ暖かく彼らを呼び寄せるようであった。
帯を結ぶとなればどちらかが州侯であれば州城奥深くにある里木に願うはずだが、それでは敵に悟られてしまう。幸い州侯といっても今のところ片方は罷免され片方は正式任命前、それをよいことに彼女が目だたぬ
住む人もほとんどいなくなったこの里へ密かに二人の籍を動かしたのである。
白い石を敷き詰めた中庭に子を願う者として立つのは二人とも初めてであった。冷たい早朝の空気の中でそれを踏みしめる二人の乾いた足音は追っ手を気にする彼らの耳には大きく響き、誰かに気付かれるのではとどきりとさせた。
そして目の前にある里木は少しばかりの帯とさらに僅かの卵果しか見られないわびしい姿で、民の絶望を現しているようであった。瑛州を除けば長年一番豊かと言われた麦州の州都ですら今ではこの程度であった。
「どの枝にする?」
沙参が懐から見慣れた青い帯を取り出すのを見て、急がなくてはと焦りながらも少しでも良い枝はないかと捜してしまう。
「東を指している枝がいいわ」
「蓬山は西だが」
「いいえ、堯天の方角にこの子の将来を決める方がいらっしゃるのよ」
「そうだな」
東に向かって帯も実もない一本の白い枝があった。
二人は黙ってそれに帯をかけた。
帯を結ぶ二人の背後で、ふと声がしたように思った。
――ほら、やっぱり私が思った通りでしょ。
そしてころころと笑う楽しげな声に重なるように、腹立たしげな声も重なった。
――天の意を知ろうなどという思い上がった者に、天は子など授けては下さいません。
沙参はその言葉にぞくりと背に冷たいものが這い上がるのを感じた。
しかしそれを振り払うように心で呟いた。
――あともうしばらくお待ち下さい、台輔。
結局すべての麦に穂を刺すことは出来なかったが、浩瀚の絵のおかげで寂しい帯にはならなかった。そして両端につけた緋色の房が鮮やかで、奇しくも二代の女王の貴色の帯となった。
「今さらなんだが、あまりおめでたい柄でなくて悪かったな」
「いいえ、これほどおめでたさを感じるものはないわ」
色鮮やかな玉飾りや鳥などの絵柄に混じった、茶色と金の麦は清々しかった。冷たい風にそよぐ帯の麦は青空を背景に刈り入れを待つ金色の豊かな実りを切り取ったようであり、緋色の房はその上に輝く太陽のようであった。
「我々は見守れないが、代わって麦州の猛者が守ってくれるのだから」
「そうね」
二人はその帯に縫い込まれている無数の人々の名を思った。その中には今日浩瀚を助けるためすでに命を落とした者も入っていたかもしれなかった。
しばらく二人は寄り添ったまま早朝のおぼろげな光の中に浮かび上がるその帯をじっと見つめていた。
急に山の際が明るくなってきた。夜が明ける。
浩瀚は腕を解き、改めて向かい合って沙参を抱きしめた。
もうこれ以上言う言葉はなかった。二度と会うことはないだろうと、どちらにも覚悟は出来ていた。
浩瀚としてはいっそ戦いの場に出たいほどであったが、叛乱全体を裏で指導するのは彼にしか出来ない事であり、また乱の後、関わった全ての者の罪をひとりで受ける事を願い出るのも残された一番大事な役目であった。そのためにはこれから身を潜めていなくてはならなかった。
そして残された沙参もぎりぎりまで乱を支援しながらも、その正体が敵方に露見するのは時間の問題であり、その時逃げ隠れできないだけに乱の前線以上に危うい立場であった。
いくら抱き合ってもふたりには足りなかった。それでもいよいよ始まった企てに彼らは戻らなくてはならなかった。
離れる時、ぽつりと浩瀚は言った。
「とうとう泣かなかったな」
その言葉の意味が分からず訝しげな表情に、少し顔を歪めて微笑みかけた。
「めそめそしたのは男も女も嫌いだと言い張ってここまでやって来たが、妻にも泣いて貰えない男になってしまったようだ」
「そんなことはないわ」
慌てたように沙参は言った。
「私こそ一度泣けばもう二度と涙が止まらないと分かっていたのかも」
「結局お互いまだまだこれからすることがありそうだな」
「私がめそめそ泣いたら、貴方は代わりにどんな姿を見せてくれるのかを楽しみにしているわ」
そして両手を彼の腕にかけたまま、じっと浩瀚を見つめて呟いた。
「でも私が泣かずにいる事が出来たのは貴方のおかげ、そんな貴方を愛していたのよ」
その言葉に眉を上げて少し目を見張った浩瀚に、あの柴望が愛してやまなかった晴れやかな微笑みを満面に見せると身を翻して先に立ち去った。
浩瀚もその言葉に微笑むと、最後にもう一度里木を振り返った。
もしどちらかでもこの嵐を生き残れれば、その者がここへ来て天の意を知るのである。
もしかすればその時この長い年月を経て、浩瀚が再び天帝とその世界を受け入れる気持が蘇るのかもしれない。
二人が去った後、ぽつんと麦の穂を結わえられた枝は訪れる人もないままにその腕を王宮に差し伸べていた。