「浩瀚はどうしているかしら?」
沙参は樹の幹にもたれて座り込み呟いた。
「ああ、大丈夫だ。またうまく居場所を変えたようだ」
「そう」
その何時か前、州城の執務室に座る沙参の前に立ったのはあの王宮から靖共の命で付き添って来ていた目付の侍官だった。この男が目立たぬ文官に見せながら裏で靖共のために様々な後ろ暗い仕事をして来たという事は、嘗て冢宰府に囚われていた沙参にはよく分かっていた。
ばさりと彼女の目の前の書卓に投げ出されたのは、和州に送ったばかりの使いに持たせたはずの書き付けと金であった。
沙参は町の若者に見せかけてそれを届けに行った少年がどうなったかを考えまいとした。浩瀚を誰よりも尊敬して城で働いていた彼が口を割ったとは思えず、そのためどんな目にあったかを想像するだけで、この大事の瞬間に心が揺らいで弱みを見せる事になる。あんな若い子が守り抜いた事を自分が壊してどうする、と自分を叱咤した。
しかしそんな彼女に侍官は容赦なく言葉をかけ、その目は指一本動かすことを許さなかった。
「さて、この賊に宛てた字は誰のものでありましょうか。何やら見覚えのある手蹟でございますが」
そう言いつつ、書卓を廻って彼女にじりと近寄るとその胸元を遠慮なくぐいと掴んで顔を寄せた。
「謀反人の相手をされるのも敵の懐に近づくためかと考え、犠牲的でお見事な仕事ぶりと見ておりましたが……所詮女であったか」
男は王宮の日陰暮らしからの彼女の突然の復活以来、表向きはうやうやしく仕えていた態度を脱ぎ捨ててそう言うと、蔑むようにその頬や襟元に遠慮なく手を這わせた。
「あのような男にたぶらかされて、せっかくの栄達を目前にそれを棒に振るとは。夜がお寂しかったのならいくらでも私どもでお相手致しましたのに」
「お前達下司の考える事は皆代わり映えがしない。あの勅使も同じような事を浩瀚に言ったそうだ」
椅子に身体を押し付けられ、さらに奥へ潜り込もうとする不快な手から逃れようとしながら虚勢を張り嘲る沙参に、男は再び手をゆっくりと柔らかな首筋に這わせ、やおら後頭部を掴んだ。
「惜しい。この首を断たねばならぬとは」
そう言いながら反対の手で彼女の白い喉を掴んだ。
「これほど美しい首を断つのは哀れ、このままこうして縊り殺して差し上げるのも情けかと感謝せよ」
つぼを心得た細い指は僅かの力を加えただけで彼女から呼吸と考える力を奪い、食い込む指を振り解けないまま沙参の縹の髪は小刻みに震え力の入らぬ両手がむなしく空を握り締めた。そして血が逆流して耳障りな音だけが響く耳に囁かれた。
「さあ、あの男はどこに隠れている。その他の者もどこに?」
男が見つめるふっくらした唇は苦しくて震えているのか言葉を発しようと震えているのかも定かでなく、紅を付けているにもかかわらずすでに黒ずみさらに色を失おうとしていた。
その時霞んで真っ赤に見える視界のどこかにそれでも何かを見たように思った沙参は、男の気を引きつけるために必死で何か告げるふりをした。
聞き取れないその声に、一瞬手を緩め屈み込んだ男の背にばっさりと剣が振り下ろされた。
どうと倒れた男の身体の下敷きになったまま、ごほごほとむせている沙参の身体から邪魔な死体を蹴り落としたのは柴望だった。
待ち合わせていた使いが来ないことに不安を感じ、危険を覚悟で秘密の通路を抜けてちょうど入って来ようとしていたのだった。
「済まぬ、確実に仕留めないと外に気付かれるので、すぐには手を出せなかった」
心配そうに抱き締めて謝る彼に沙参はなんとか微笑むと、支えられそっと立たされた。
「苦しいだろうが休ませてやる時間がない。こうなればすぐに逃げよう」
「待っ……て」
絞められた喉から声が出せず、焦れったげになんとかそれだけを言うと力の入らぬ足で這いずるようにして側の棚に近寄り、その扉の中の隠し場所から一包みの書類を取り出した。そして柴望がじりじりと待ちかまえている抜け道の隠し扉の方を向いた時、声もかけずに外から入って来た者があった。
入ったきりの侍官の様子を見に来たその部下である武官だった。
彼は沙参のただならぬ様子を怪しみ何か言いかけたが、その足もとの書卓の脚越しに見えている倒れて動かぬ身体にはっとすると、すぐに外へ声をかけながら剣の鞘を払った。
痺れが取れず思い通りに動かぬ身体でなんとか沙参がそれをかわすと、すぐに柴望が駆けつけて武官に斬りかかった。
しかし呼び声とその物音にさらにもうひとりの護衛が入って来ると、護衛とは言っても元からの麦州の者ではなく敵方であり、柴望を見るなり先の武官に加勢した。二人を相手に苦戦する柴望の姿に沙参も震える手で書卓の縁に手を滑らせ、浩瀚が隠していた剣を見つけると戦いに加わった。
幸いそれ以上敵が集まる前に、なんとかそのふたりを倒した彼らは抜け道から脱出した。もはや王宮の敵は誰が裏切ったのか知ったわけで、しかも彼女か柴望が捕まれば浩瀚はもちろんその他の同志の命も危険に曝すことになる。それだけは避けようと必死で騎獣を走らせ追っ手をまいて、なんとかここまで落ち延びたのだった。
柴望は答えた声の調子が気になり側へ行った。
「浩瀚にならまたすぐに会える」
そう慰めようとしてはっとした。足下に粘りのある濃い色の液体が流れているのに気づいたのである。
慌てて抱き寄せるとぐったりとした身体がもたれ掛かってきた。見れば腋に血が滲み始めていた。
「つっ」
「いったい……いつ。あの時やられていたのか」
「ちょっとしくじったようで」
詰まったような笑い声を立てた。
柴望はすぐに自分の袖を裂くとそれを彼女の帯に挟んで止血をしようとした。そして別の布で首にもあった傷も押えさたが、いずれもそれだけでは止まりそうにないほどであった。
「大丈夫、仙なんだもの」
「血が無くなって生きて行ける仙などいないっ」
どんなに怒らせても彼女に向かって声を荒げたことなどなかった柴望の剣幕に少しびっくりしたためか沙参は珍しく下手になって頼んだ。
「あの、お願いがあるの、ここを離れる前にちょっと里祠へ連れて行ってもらえないかしら」
それより早く治療を、そして浩瀚のところへ、と言う柴望を遮りまた同じ事を頼んだ。
柴望が右手で押さえる首からの血は止まりそうもなく、腹の布も真っ赤になった。左手で支える身体から力が抜けてゆくのが感じられ、それにたまらなく不安になると、いったいなぜこんな事になったのかと涙が出てきた。
「あら、泣いているの?」
少学でさんざん腹を立てさせられた口調で言われた。
「悪いか」
それはまるでこちらも十六に戻ったような言い方だった。
「そんなところで泣いているくらいならちょっと連れて行ってよ」
また少し力無い声で言われた。
柴望は黙って彼女を抱き上げ直すと、言われた里へ向かった。