柵の中に白い木が見えた。

州城の後宮にある樹とは比べものにならぬ侘びしい里の小さな里木であった。数本の帯しかなく、見たところ卵果も実っていなかった。
それは民の絶望の度合いを表していた。すでに麦州の崩壊は始まっており、この年月営々と築いてきたものが踏みにじられようとしていることに民は気づいているのだろう。

余人の立ち入る事の許されぬ州城奥深くに植えられ、帯を結ばれることもなく長い年月顧みられなかった麦州城の樹はそれでも常に周囲は掃き清められ、いつでも主の子を迎える用意は出来ていた。その管理も州宰の仕事のひとつであったのでたまに見回る事もあり、その幹にそっと手を這わせて浩瀚がここに帯を結ぶのはどんな相手とだろうと想像したこともあった。しかし城に迎えた娘のだれも帯はおろか正式に後宮に宮を賜ることもなく、いつしか柴望も決まり切った仕事のひとつとしてしかそれを気に掛けなくなっていた。

そして浩瀚は、柴望が浩瀚を幸せにして欲しいと願いながら細かく気を配って世話をした女のひとりとではなくこの沙参と、そしてそれでもいつかはと密かに祈りながら丹精し続けた樹にではなく、こんな忘れられたようなところに帯を結んだのであった。

しかし今その沙参は傷つき、浩瀚は追われここへ戻ることも出来ない。


沙参はぼんやりと考え込んだ柴望に抱かれたまま、一心にその木を見つめた。

「もう少しそばへ」
その声が妙に弱々しかった。こんな声を出す女だっただろうか。
柴望が黙って木の下に歩み入ると、敷き詰められた白い石の上に赤い花びらが点々と撒かれてその後に続いた。

枝越しに青地に金の刺繍の帯がちらりと見えた。

「見て」
「ああ」
「ほら、よく見て」
十六の娘の声が言った。

こんな木より彼女の具合が気になるのにと、こんな時にもまだその声に少々腹を立てながら、柴望はいやいや白い手の差す先を目で追った。

娘の髪を思わせる青い花色の帯の横に小さく光るものがあった。刺された刺繍の金と同じ色だった。
思わず息をのんだが、すぐに全身の力を込めて細い身体を高く掲げて娘の手がそれに触れることが出来るようにした。

小さな小さな実が着いていた。帯に隠れてよく見ないと隠れてしまうほどにそれは小さかった。
白い細い指がそれをそっと撫でた。小さな子供の髪を撫でるように。
唇が動き、実に呼びかけていた。何か歌ってやっているようにも思えた。

やがて手が離れていった。伸ばす力を失った手はもう実に触れることが出来なかった。柴望が急いでなんとかその腕を支えて再び枝に近づけようとしたが、それでも僅かに届かず諦めた指が今度はゆっくりとした動きで実に別れを告げた。

沙参は落ちた腕を柴望の首に巻き付け彼の首筋に顔を埋めた。首筋に当たる息が小鳥のように微かだった。
そしてもう一度首を上げて実を見つめた。

「柴望、私達は勝つわ。そしてこの子が元気に育つ新しい時代が来るのよ。
天帝はそれを教えて下さっているのよ」

「ああ、きっと勝つ」

――主上、慶は強い王の立つ国になります。
主上が織られたこの帯に卵果がなりました。

「でも天はその意を知ろうなどとする思い上がりは、やはりお許しにならなかったのね」
寂しげに実から眼を離さず呟いた。

それにどう答えればいいのか柴望には分からなかった。

「柴望、お願いが……あるの」

聞こえにくくなって来た声を聞くために柴望は色を失った唇の側に顔を寄せた。

「なんだ」

「私が死んだ後、たとえ王がお訊きになってもそうと言わないで。どこかに逃げたとでも、そしてそちらで幸せに暮らしていると言って頂戴」

「そんな馬鹿な話誰が信じる」

言い捨てたが、沙参は微笑んでその言葉を遮った。

「主上がご存じない事のために誰かが死んだと知って頂きたくないの。
自分の手の届かないところへ行ってしまった相手に縛られたり責任を感じる辛さは私だけでいい。
そして浩瀚にも……」

柴望は彼の腕の中でそんな事を呟く彼女に、なぜそんな相手と帯を結んだのかと言いたかった。なぜ私では駄目だったのか。
しかし天はこの二人に卵果を与えた。それが天意なのだ。
しかし卵果を与えながらもそのために彼女の命は今奪われようとしている。それも天意だと彼女は言っている。そんな天意を信じろというのか。

「これでやっと私は自由になれるのよ」

納得できないで怒りすら見せる柴望に向けられた、青ざめながらも喜色に溢れたその表情に、彼はそれでもなんとか相応しい言葉をかけようとした。

「ああ、万が一死んだら何でも言ってやる。それより早く行って天帝のご意向を皆に教えてやろう。それに父親になることを聞いたら、浩瀚も少しは自分の命を惜しんでくれるかもしれない」

下を向けば涙が零れまた彼女にからかわれると思い、顔を挙げて白い枝の実を見ながらそうとでも言うしかなかったが、それを聞いても明るい笑い声は聞こえなかった。そして腕の中が少し軽くなったのに気付いたが、下を向いて恐れている事をその目で確かめる事は出来なかった。
柴望は目の前の小さな金色の実を、すがりつく思いで、まるでそれが全ての災いから自分たちを守ってくれるかのようにただ見つめ続けた。しかしやがて押さえきれない涙でそれが霞んで見えなくなった。

目をぐっと閉じてそこに溜まった涙をはらった。それからゆっくりと見下ろせば彼の胸の中で唇が微笑んでいた。
――弱虫ね
その唇に今はなによりそう言って欲しかった。

しばらくじっと見つめ、そして再び頭を挙げて金色の実に向かって言った。

「母親に別れを言いなさい」

青い帯がその周りで揺らめいた。それは別れを告げる手のようであった。そしてそのまわりに下がる紅い房はそれを慰める手のようにも思えた。

「父親は今はまだ来れないが、きっと迎えに来てくれる。大きな実になればきっと来る。もし誰も来なかったら私が来てやる。天が何と言おうと私がふたりの代わりにもいでやる。だから安心して大きくなるんだ」

そう言うと骸を抱き、僅かな帯とたった一つの卵果のなっている里木に背を向けた。



和州の乱もしくは朱恩党の乱と呼ばれる赤楽王朝二度目の乱が収まるのはそれから間もなくであった。
そして浩瀚は王宮へ、柴望は和州へと移り、麦州の里木の卵果はまた誰にも見守られず大きくなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「柴望さま、柴望さま」という声にはっと気を取り戻すと、小さな顔が覗き込んでいた。

「ごめんなさい、お忙しいからお疲れなんですね。ぼくが叱られたから来て下さったんですよね」

「いや、そろそろ来ようと思っていたから気にすることはない」
柴望はそう言いつつ伽羅色の頭を撫で、その手に伝わる柔らかいがさらりとした手触りがあの州城の樹の肌を思い出させた。

「さあ、では最後に矢をつがえてみるか?」

「え、いいんですか?」
心配そうな顔がぱっと顔が明るくなった。

「どれだけ練習したかがわかる方がいいだろう」
小さな矢を三本渡したが、その時こちらに向かってくる人の気配に気づいた。

「ほら、ちょうど主上も見に来られたぞ」
それを聞いた子供は嬉しそうにそちらへ手を振り、その人に見せようと矢をつがえた。

矢は前に飛んだが、的までも届かず途中で落ちた。次の矢も落ちた。それでも子供は楽しそうだった。そして振り返ると陽子に元気に弓と最後の矢を振って見せた。

そして弓射場に吹き込んだ風が三度目に射られたそれも落とした。
子供はそれでも満足そうで、弓の楽しさを告げようと到着した陽子に抱きつき緋色の髪に身を潜らせた。風に吹かれて舞い上がった長い緋色の髪は、その子供を守るように愛撫するようにその周りで舞い始めた。

◇第四章 終◇