赤楽二年、麦州は秋を迎えようとしていた。

その年始めの和州における乱とそこでの麒麟に騎乗した女王の勇姿は、それを耳にした慶の民に夢を与えたが、さらにここ麦州ではそれに多くの麦州の者が関わっていたと聞けばいっそう新王に期待が膨らみ、春に撒かれた種や籾にも豊作への期待が込められた。
そして新王が登極して二度目の冬を前に、量としてはまだまだであったが、久々の陽差しを浴びて育った実りは痩せた穂を見慣れた目にはその一粒一粒の大きさだけでも新しい王の見守る国であると実感させた。

夕暮れの刻、早くも辺りを包み始めた闇に紛れるように一人の男が人気のない里祠の前に姿を見せ、しばしあたりを見回した。人気がないとはいえ一度はほとんど無人となって里祠の衛士すらいなくなっていたこの里にも民が戻ってきたのか、少し離れた集落からは夕餉の支度の匂いが漂い煙突からは煙が昇っているのが見えた。玻璃がないので早々に扉を閉ざした家の中を窺うことは出来ないが、耳を澄ませば家族の団らんの声も聞こえるようであった。

男が静かに里木の柵の中に歩み入ると、前に来た時から一年も経たないのにそこに下がる帯の数は確実に増えていた。
その数に民の希望と動き始めた国の息吹を感じ、政を預かる者としての喜びを味わっていたが、ゆっくりと視線を上げて堯天を示す方向を見定めるとそちらに伸びる枝を追った。

そこにはひとつだけ卵果があった。
緩やかに秋の風に靡くいくつもの帯を従えてその実だけが大きく育っていた。

あれ以来ここへ戻る余裕もない日々が続き、彼がこれをその眼で見るのは初めてであった。柴望から聞かされてはいても、実際こうして目にしてもそれでもやはり信じられぬ思いでそれを見つめた。しかしそこに下がる帯の麦の穂は確かに嘗て男がその手で描いたものであり、硬く艶やかに光る実は誇らしげにそれを冠っていた。

薄い唇がここで共に帯を結んだ女の名を呼んだ。

しばらくそれを万感の思いで見ていたが、そっと両手を添えると待ちかねていたようにその細く長い指の中に実は落ちてきて、受け取った手はずっしりとしたその重さを味わいその胸に抱き留めた。


浩瀚は町はずれにある小さな庵の一室にその実を運び、慣習通り軽く石で叩いてひびを入れ転がらぬように布を敷いた卓の上に置いた。

置かれてすぐに彼の目の色に似た金色の実がふと揺れた。それは中からの命が揺らしたのだろうが、大丈夫かと案じた手が揺らしたように思えた。

「大丈夫だ、もうしばらく見ていよう」

誰にともなく浩瀚はそちらへ話しかけた。

また静かに実は眠り込んだようであった。

その傍らで、浩瀚は持ってきた書類を拡げた。
そこに記されたのは、密かに集めさせていた主だった官についての調査の結果であった。
しんと静かな小部屋で紙をめくる音だけをたてて彼はひとり読み続けた。

今は王の方針によって、まずは民を飢えさせずに国を落ち着かせる事が優先され浩瀚もそれに従っていた。また和州の乱は特殊な例であり、あの王が今後再び腐敗した官吏やそれと癒着した者に自ら手を下して倒すことは当分ありえなかった。しかし今の王に反感を持つものは多く、当然ではあるが私利私欲を貪ってきたのは靖共たちだけではなかったはずである。

秋の夜更け、ろくな敷物もない部屋は冷え込んで来たが、あえて火を焚かず、それに負けないほどにもっと己の心を冷たく尖らせようとしながらそこに現れた名前を追い続けた。
朝を安定させるには彼らを見極め反対する者をいかに取り込むかあるいは排斥するかにかかっていた。ここで安易に情けをかけ見過ごすことによってやっと得た女王のこれからを危うくしてはならない。後で悔やむことがないよう無用な憐憫から自分を遠のかせた。

彼の脳裏に翠の目を輝かせ紅い髪を翻して高らかに初勅を述べた女王の姿が浮かんだ。それは興奮と期待をもって今も国中で語られている。しかし百官すべてがそれを受け入れたわけではなく、むしろその心が理解できなかったものの方が多かったはずである。
その者達がいつまで我慢するのかを恐れなくてはならなかった。いつ爆発するか、どのような手段に出るか、彼にも予測の付かぬそれを断ち切ることが出来る日まで時間を稼がなくてはならなかった。

新しい王朝の始まりに当たって、敵対する者を抹殺するのは珍しいことではない。慶がここ何代か短命な王が続いたのはおそらくいずれの王朝でもそれが不十分だったためと今になってみれば分かる。
しかし今の女王にはこれは出来ない、いやさせずに済むために自分がいるのだ。それが自負なのか思い上がりなのかあるいは過去に繋がる個人的なものなのか、そんなことはどうでも良いことで、汚さなくてはならないならまずは己の手からであることは確信していた。
むろん浩瀚とて今すぐこれに手をつけるのは無理と解っていた。それでも目を離してはならない者を見極め、いずれそれを廃する機会を失しないようにせねばならない。地方が長かった浩瀚にはまだ知り得ぬ王宮の魔物を、しっかりと掴んでおく事が今何よりも必要であった。

しかしいざこれにかかるとなれば、どんなに密かに徐々に行っても全く悟られないようにする事は無理だろう。またそれの恨みを陽子に向けられないようにするためには敢えてそれを為したのが彼であることを気づかせる事も必要となる。
その結果として どのような敵と恨みが自分を待ちかまえることになるかと思った。

それを考え手を止めたため紙の触れる音も止んだ室内で、またごとりと音が響いた。
顔を挙げてそれに手を差し伸べるとそれが解ったように、またごと、と実は揺れた。


その命の動きを手で感じながら、果たしてこれが成長するまで自分が敵の手をかいくぐり生きて行けるだろうかと浩瀚は考えた。またそのような立場の男の子としてこの子は生き残れるであろうかと。
自分が州侯としてやりたいことを成せたのは、親兄弟がすでになく守る者も失う者もなかったからかもしれない。それを持っていた沙参の苦しみを思えば、この子が自分のこれからの立場の足枷になるのも確かであった。

今になって分かる。沙参が決して彼だけのものになろうとしなかった意味が。それは彼女が強い女だったためではなく、彼女の優しさであり弱さゆえであった。もし彼女が彼にすがりつけばあの時の彼には足手まといになったに違いなく、それは彼女にとっても同じだった。そして死ぬ時ですら彼を煩わせることなく逝った。彼にその無惨であったはずの最後の思い出すら残さなかった。
そしてその彼女が残したのがこれならば……

「やはり一緒には無理かもしれない」

また手で触れた実は先ほどより少し熱を持ったようであった。

やがて実は再び動いたと思うと、今度は絶え間なくごとごとと音を立て、布越しにも堅い机に音を響かせるほどに力強く動いた。そしてひびを大きく裂いて二つに割れたかと思うと、茎にかかって実を守っていた帯がはらりと床に落ちた。
少し甘ったるい実の中身の香りに包まれて、赤子が姿を現しすぐに泣き始めた。握りしめた手は心地よく包んでくれていた殻を失った事に怒り、慣れぬ明るさ空気に抵抗していた。
抱き上げてやると、それも気にいらぬらしく手をもみしぼって泣き続けた。

「男か」

そこで初めて男女どちらを望んでいたのか考えたこともなかったのに気づいた。普通ではないかなと思ったが、ひとつの命としてしか考えたことがなかったのである。自分に子が出来たということ以上にあまりに大きな責任を持ったため、そんな事まで考える余裕がなかったのかもしれないが、予王と沙参の願いから生まれたのだから、赤子女王のお側に相応しく娘なのだろうと無意識に思い込んでいたような気もする。

赤子はその慣れぬ父親の手で産湯をそして初汁を与えられた。卵果の内側の繊維質の厚い層は赤子を包んで守り、生まれるとまずはそれを削り絞った汁を与えられる。この汁だけでもこの世で最初の数日を過ごせるが、普通はその間に母親は乳を与える準備が整うのである。

細い布を伝う嗅ぎ慣れた実の匂いに赤ん坊はむしゃぶりつき舌を絡め、世話をする手に伝わってくる小さなその身体に不似合いな力強さに浩瀚は命のたくましさを感じた。

そうして父親というにはまだ若い容貌の青年の慣れぬ手で腹を満たすと、赤ん坊は静かに眠り込んだ。
その後も泣いたり寝たりの世話をしながら、浩瀚はその合間も抱いたままで一晩を過ごした。こうしてこの子と一緒に過ごせる機会がこのあとどれだけあるかと思えば、このひとときだけでも離さないで過ごそうとしたのである。

何度目かに子供が寝ついた時、外を見ると暁の光が東から射し始めた。
一晩中聞こえていた小鳥の種類も変わり、今は昼間の鳥の朝の声が溢れていた。