厚い布でしっかりと赤ん坊をくるむと、浩瀚は明け始めたばかりの外へ出た。
小高いところに建つその庵からは瑛州との州境の山が見えた。それに遮られここからは見えないがその向こうに堯天山があるはずで、その雲海の上には金波宮がある。
そこでこの時間まだ眠っているはずの紅い髪の若い娘を想った。
そしてひれ伏す官を前に高らかにその意を伝える声ではなく、二人で仕事をしている時に、あるいは字やこちらの仕組みについて教えている時に垣間見せるとまどった表情と共に発する声を思い出していた。
――浩瀚、私はどうしたらいいのだろう
私も同じ事を誰かに訊きたいのです、主上。
沙参が残したこの子、今の王宮で育てる事は出来ません。いくら守ってもこの小さな命は私の足枷となり、主上と国の手助けの邪魔となるでしょう。
それは彼女の望むところではないはず。
紅い髪の王のどんな問いかけにも迷いを見せず明確に返答する自分ではあるが、答えてくれる者などいないこの問いにも自分で答えるしかなかった。
――他人に預けるしかないか
父として子にすまないと思う気持ちは大きくとも、そのために与えられた子なのだからと自分を納得させた。
また、あれほどに長い年月待って、やっと生涯をかけて仕えるべき相手を与えられて全力で走り出した彼を止めるにはこの赤子はあまりに非力であった。
冢宰として王宮へ入った日、彼が姿を見せたことだけで驚いた他の者はもちろんだったが、面識ある者は彼をよく知る麦州の者も含めてそれ以上に驚いて彼を振り返った。
それほどにその変わり様に驚いたのであった。
そこに立っていたのはいつも通り静かで落ち着いた姿であったが、すでに内定していた冢宰という地位に相応しい貫禄を早くも漂わせ、渋い色合いの衣や髪の結い方のためもあってか歳すらいくつか加わってどう見ても三十前後であった。
その後も王に対してはおだやかに優しく接し、慈愛に満ちた父とも兄とも師とも思って貰えればよいと思っていた。
しかし決して甘やかすつもりはなかった。彼女がどれだけの王になるかに慶の将来がかかっていた。
隙を見せない自分に王が少し遠慮しているのにも気づいていたが、友と呼ぶに相応しい相手は元芳の公主などすでに得ており、予王とは違いその点で自分は不要と思っていた。
すでに陽子が自覚せず発している青い王気に自分が捕らわれ始めているのには気づいていたが、それに負けては王を支えきる自信はなく、嘗ての沙参の轍を踏むつもりはなかった。今更そんなもので捕らえなくとも、これから私はあなたのためだけに生きるのですからと告げたかった。
腕の中の命が少しは自分の方を向いて欲しいと訴えた。
それを見下ろしそっとその柔らかな頬に触れた。
あと一日、おまえの事だけを考えて一緒に過ごそう。
そしてそれが済んだら、お前を私の人生から閉め出すことを許して欲しい。
いつか、国を落ち着かせたらきっと迎えに行くから。
子供の成長と朝の安定ではかかる時間が違いすぎると分かっていても、そう思うしかなかった。
私が行けなかったら、代わってお前に手を差し伸べて幸を与えてくれる人がきっと現れるだろう。あれほどの女が、そして女王が望まれた子なのだから。
この小さな手に何が与えられるのかは知らぬが、おまえはそれだけの運命を持った子のはず。
天はこの子を与えることで沙参を安らかに死なせたが、生き残った彼の前にあるのは安らぎとはほど遠い道だった。
王ならその一代を背負うだけであるが、幾代もの治世に関わった官である浩瀚は、すでにあまりに多くのものを背負い抱え続けていた。
――天帝、私はまたこうして先に逝った者の憶いや願いを託され生きてゆくのでしょうか。
その呟きに答えるように東からその日最初の強い光が射し込み、青みがかった光に沈んでいたあたりは一気に赤く燃え上がった。夏も終わり弱々しいはずの日差しといえど、これに勝る光はない。
光を見つめているとなぜか柴望が伝えた沙参の最後の言葉を思い出した。
――自分の手の届かないところへ行ってしまった相手に縛られたり責任を感じる辛さは私だけでいい。
それと共に腕の中の赤ん坊がまた小さく声を立て自分を見ろと訴えた。
それにほとんど無意識に手を動かした時、突然走馬燈のように過去の女王や台輔の姿が目に浮かんだ。そして懐かしい人々の姿も。
そして指先に感じる肌のみずみずしさ暖かさに人の短い一生と儚さを思い出した。
誰も、これほど長く私に何か負わせようなどとは思ってはいなかったのではないだろうか?
たとえ別れの時に何か告げられたとしても、それは人ひとり分の命の長さでの事ではなかったか。
残された者としての悲しみのため自分こそがあまりにいつまでもそれらを捕えて引き留めていたのかもしれない。あるいは無限に永らえる仙であることに慣れすぎたためかもしれない。
この世の光を初めて受けた柔らかな頬の上で止まっていた彼の指を、小さな指がしっかりと握り締め自分の方に引き寄せようとしていた。それは新しい世界を一緒に見ようと誘っているようであった。
そしてその指にこちらの指を任せたその瞬間……ほおっと自分の中から何かが抜けて行くのを感じた。
不思議な感覚は嘗て初めて王の弾指を受けた時にも似て、今彼の指を掴んでいる小さな指とは違う、その暖かな指の感触を額にはっきりと感じたように思った。
そして気付いた。
――私は……今、過去から解放された……のか…
自然に唇に微笑みが昇ってきた。そして、光の中に赤子を軽々と抱き上げ、高く掲げた。
先程まで青ざめた光に包まれていた淡い色の髪の赤子は、朝日を浴びて紅に縁取られた。
――天帝、私は新しい慶をたしかに受け取りました
完