短い眠りから意識が浮かび上がって来た時、傍らに慣れぬ身があるのに気づき、そこからの視線を感じた。

「目覚めたか」

ゆるゆると見上げると、先ほどまでが嘘のように静かな目があった。
そう、大学時代、激しい論争をした後まだ相手の息が上がったままの時、一足早く冷めてこのような目をして次の戦いに備えていた。
しかしこのような場でもこの目を見るとは思わず、その冷たさに少し身を引いたが伸ばされた腕はそれ以上離れることを許さなかった。

少し目を細めて探るように見ると、浩瀚は抑揚のない声で何か飲むかと訊いてきた。頷いてその隙に抜け出そうとしたが、遮った腕はその半身を優しく起こしながらも決して逃がそうとはせず、反対の手が杯をくちもとに差し出した。

今までの恋人は娘になかなか会えないとすねたり愛し方に注文をつけることはあったが、結局それはすべてその腕の中で彼女を甘やかし見つめたいがため。その関係ではどんな時も彼女の意向が全てだった。
浩瀚はそれをさせない男だと無意識に感じとっていたから、これまで女としては近寄らなかったのかも、と今になって迂闊さを悔やんだ。なぜあの時さっさと自室へ戻らなかったのか。

「そろそろ何があったのか話してくれてもよいのでは?」

頑なに飲み物に注がれたままの青い瞳を覆う長い睫の影で、その表情は窺い知れなかったが、かけられた言葉に紫の玻璃の中で透明な液が揺れ、掴む白い手が杯を割ろうとしているのに気付いた浩瀚はそれを取り上げた。



取り上げた杯を静かに傍らに戻し、外は冷静に見せながらも、浩瀚も自分に戸惑っていた。

こちらに来てから、町や村で出会い慕ってくる娘を相手が望めば城に連れ帰りしばらく共に過ごしてきた。官吏や城で働く者とは戯れる事も避けていた。
娘の多くは浩瀚によって初めて愛されることを知り喜び、豪華な州城での生活を珍しがり楽しんでいた。しかしやがていずれも仙で生きる彼とそれ以上人生を共にすることは出来ないことを悟り、あるいはごく人並みの女の幸せを求めたり元の生活を懐かしがるようになった。浩瀚はそうなると飼った小鳥を放つごとく未練も見せずに雲海の下へ戻した。一旦戻した小鳥は決して連れ戻すことはなかったが、彼女らはいずれもその後伴侶を得ると幸せになり、夫からも恋人となった者からも愛された。
そのため麦州では侯の寵を受けた女は果報者と囁かれ、里心のため離れた後も彼を忘れがたく想う女の口を通して伝えられたその姿は、松塾時代以外にここには地縁がなく、おいそれと一般の人の前に姿を見せる機会もない浩瀚が州民に広く慕われるきっかけともなった。

そういった今までの相手をいずれもあれほど優しく抱いてやれたのに、友人であった、しかも明らかにいたわりを必要としている相手になぜこれほど冷酷な態度がとれるのか分からなかった。

苛立ちを隠して空いた両の腕で細身の身体を改めて抱え込むと、柔らかな耳朶にその唇を這わせると見せかけたものの触れることなく再び鋭く訊ねた。

「おまえのその目を暗くしたのは誰だ」

娘はその耳からの感触にびくりとするとしばらく身を硬くしていたが、大きく息を吸って身体を反らせ、その半身を浩瀚の胸と肩に預けた。彼の羽織る薄い単衣を通して互いの身体の熱が伝わった。彼女はこの人肌の暖かさが好きだった。女より少し高めの男の体温と香りは共に何よりも彼女を癒しその生に喜びを与えるものだった。
そうした久しぶりの男の熱と香りにそのまま浸っていたかったが、これはそんな相手でも場合でもないことは分かっていた。そして自分が何のためにここにいるかを考えようとした。

「予王が登極されてまだ間のない頃に側近として仕えたの」

「それで?」

「信頼されていたわ。不慣れでいらした政務も順調になり始めて」

「それは・・・よい事なのではないのか?」

「私もそう思っていたわ」

娘は頭を巡らせて浩瀚をその暗い目で見つめた。もたれた胸に青い髪がまとわり広がった。
その男の冷たさがむしろ話しやすくしてくれるのかもしれない。決して甘えることも嘘も受け付けないというその厳しさが、彼女の悔恨の情をごまかしなく受け止めてくれそうであった。

再び閉じた瞼に嘗ての金波宮の美しい姿が目に浮かんだ。
たくさんの女官が働き、その華やかな衣装が王宮を彩っていた。偽王の戦いで傷ついたあたりも、あのころは日が射しただけで柱も玻璃もきらきらと輝いていた。

そしてその中央に立つのは、あの人だった。
傍らに金の髪の僕を従え、ゆっくりとしたその動きは美しかった。
ただちょっと風に吹かれただけでその白い肌はほんのりと色づき、何枚もの紙を綴じた書類はその手では持ち上げるのすら無理に思えた。

そのひとが、こちらを振り返って名を呼ぶのが今も聞こえるようであった。少し笑みを浮かべた唇から呼ばれるその名は、初めて会った時に与えられたもの。王宮にそぐわぬ雅のない名すらその柔らかな声で呼ばれると美しかった。

呼ばれたことを思い出しただけで、今自分を押さえる腕を振り払って身は駈け寄ろうとする。しかし、今、彼女を呼ぶあの主<ひと>はいない。

あの日はいったいいつ終わったのか。

◇ 第一章 終 ◇