即位式を前に国中が賑わい、金波宮も久々に華やさを取り戻したようであったが、それでも彼の目にはどこか荒涼としたものが漂って見えた。
それは予王の時代に減った女官の多くがまだ戻らず衣装で彩りを添えることが少ない上に、慶事の黒い衣が幅を利かせているためかもしれなかった。また修理を後回しにされたあちこちに偽王の乱の傷が残るためなのかもしれなかった。しかしその理由の多くはやはり宮中を満たす、また女王を押し付けられた、という失望から来る投げやりな気持ちの表れなのだろう。
人の心に巣くった傷はどんな柱の傷にも増して王宮を荒れさせるものである。
ましてほとんどの官にとって予王の即位式はまだ記憶に新しく、その前の女王の式を経験した者も少なくないとなれば、新しい王への期待も喜びも萎みがちというのも無理ないことであった。

麦州侯としての立場上渋々ここまで来たものの、集まって潜めた声で自分の事を囁かれているのを感じるのはそばに立つのも不愉快であり、その逆も何やら薄ら寒い思いをするばかり、結局自室に籠もることにした。
それもいつもの州侯の王宮での官邸は内朝にあり周りはうるさい輩ばかり、なるべく人に会わなくて済む外れを頼んだら、なぜか外れとはいえ内宮に押し込まれた。その一画は囲む庭院がとうに夏も終わったというのに手入れもされずにいるのが目に付いたが静かで気に入り、そのうら寂しい荒れた庭も今の気分では眺めるに相応しかった。

ただそんな場所のためか一刻以上前に頼んだ茶がいつになっても届かない。連れてきた者は皆彼の命によってあちこちへ散らばって王宮の様子を探るのに忙しく、誰も残っていなかった。

邸内に人の気配がして、やっと茶が来たかと思ったが、こちらへ声をかける様子もなく、ただガシャガシャと衣を引きずる音がした。

王宮で着る衣はいずれも重く、仙のため実際の年齢がわからずともその着こなしで新米かどうかはすぐに分かるほどであったが、今耳にするその音から察するに、やって来たのは身に付けているのはそれなりの衣装のようだが、慣れないどころかまともな装束を身につけたことがあるのだろうかと思うほどであった。

女官不足とはいえ、仮にも王宮でここまで女官の質も落ちたかと思い溜息をついた。
おそらくいつもなら、いかに部下の教育には厳しい浩瀚でも、たかが下女の裾捌きにこれほど神経を尖らせるはずもなく、自分で思っている以上に王宮にいることに苦痛を感じていたようである。

どこに茶を運ぶのかも分からぬらしい足音はあちこちの扉を開けているようであったが、やっと一番奥のこちらの部屋へ向かって来た。しかしその足音に不自然なものを感じた浩瀚は、隠した懐剣にそっと手をかけた。

場所が場所だけに州から連れてきた射士も大僕もこちらへは入ることが出来ず、これを狙ってこんなところに部屋をあてがわれたのかとも考えた。そして背の高い椅子に深く座ったまま、背もたれ越しに刺される事も覚悟しながら、足音はなんとか忍ばせても消しようもない衣ずれを立てる刺客を待ちかまえた。

しかし相手は背後から襲わずいきなり前に廻ると、正面から襲ってきた。

「わーい、らーくしゅーん」

自分の懐へそう叫びながら女が飛び込んで来る直前、碧の瞳の輝きに殺意がない事を咄嗟に認め、浩瀚はかろうじて刀を止めた。いや止める必要もなかった。短刀を持った手は上げかけたその瞬間がっぷりと鋭い牙で止められていたのである。
浩瀚は痺れるような右手の痛みに耐えぎらぎらした妖魔の目と間近に向かい合いながらも、さらに左手で勢い余って飛び込んできた軽い身を支えた。

そして三者とも椅子に座ったままの浩瀚を中心に固まった。

緋色の髪の少女は、飛び込む直前それがここにいると思い込んでいた待ちわびた友人ではなく、見知らぬ男と分かったが身体を止めるのが間に合わず、しかも頭上では使令の荒い息遣いを聞くに及んで、恐る恐る彼女の身と驃騎の牙を受け止めている男をその胸元から見上げた。

男に殺意のないことを感じたため、幸い驃騎も手を止めるだけにしたようだったが、それでも鋭い歯の間から滴りはじめた赤い滴が陽子の袖に落ちた。

「驃騎、下がれ、早く下がれっ」

その慌てた命に使令はすぐに床に溶け、陽子もその見知らぬ男の膝から滑り降りてそのまま床を膝で後ずさった。

この裾捌きも出来ない若い娘が、間に合わせの女官ではなく新王であることに使令を見た瞬間気づいた浩瀚は、黙って椅子から立ち上がってこちらも膝をつき、血の滲む手を差し出して女王を立たせるとそのまま足下で伏礼した。

先程自分に飛びついた姿が一瞬何かに包まれていたように感じたが、あわてて後退りした新王にそれは見えず、見事な緋色の髪とそれにいくつも挿した飾りに日の光が反射でもしただけなのだろうと納得した。手をとったのはごく普通の 着飾った若い娘の姿であった。

「すまない、友人の部屋だと思ってやっと会えるうれしさで飛びついてしまった。私のせいだ。許してくれ。すぐに手当をさせよう」

心底わびの気持ちの分かる声が聞こえたが、その時隣室の外で人の気配がした。おそらく頼んでいた茶が届いたのだろう。

顔を上げずに浩瀚は言った。

「このような場合ですのでご無礼と知って申し上げます。このまますぐにお部屋へお戻り頂けませんでしょうか?人が参ったようでございます」

「あ、ああ。しかしお前怪我をしているではないか。それをそのまま置いては行けない」

先程立たせるときに差し出した手の傷は決して浅くなかったが、彼はそこから流れる血を止めることもなくその手を床について礼をしていた。
とっさに陽子はまた屈んでその手を取り、懐から出した布で手早く縛り上げた。
その手がいたわりを込めて触れてはいても、決して柔らかい娘らしい手触りではなく、しかもこれほどの出血に怯む事なく手際よく処置をするのに浩瀚は気づいた。
そしてその指先が掌が触れる度何か、何か日の光の暖かさにも似たものが流れ込んで来るような快さを感じていた。

「一応仙でございますので、この程度ならすぐに治ります。それよりいかなる理由にせよ、王にやいばを向けた私がどのような罪になるかはご存じでしょうか?」

王を神として育った臣として持つ王への畏敬の念以外取り立てて感じるものもないはずのこの姿に、身近に目見えただけでこれほどにまで高揚感を感じるものなのかと今の自分の心の軽さを訝しく思いつつ尋ねた。

「いや、良くは知らないが、ここのことだから重い罪なのかもしれないな。でも悪いのは私なんだから」

「大変重い罪でございます。そして法は、拙が王に刃を向けた、その事実だけを裁くのでございます」

「そんな」

「それが法というものでございます。ですからもしそれをなかったこととしてお許しいただけるなら、ここをすぐに去っていただくのがすべてに良いかと」

「うん、じゃあそうする」

それでも傷が気になるのか振り返りながら陽子は窓に向かい、そこから抜け出そうとしたが、幾重にも重ねた女王の襦裙は着慣れない者にとって窓から出入りできるような衣装ではなかった。

伏礼したままそっと覗いていた浩瀚は呆れたが時間がなかった。そこで立ち上がると窓のところへ行った。

「お手伝いいたしましょうか?」

見知らぬ男の胸に飛び込み怪我をさせてしまい、せめて最後だけはさっと消えようと思っていたのに、それすら出来ず焦っていたところへまた声をかけられて驚いた。

「うん、あ。頼む。動けなくなった」

後から伸びた細い指が衣の襞の間を出入りして、引っかかっていた飾りや裾をから外すと、失礼と声をかけて陽子を抱き上げた。そして窓の外へその身を乗せた腕を差し伸べた。衣装の重さも入れるとかなりの重さのはずであるが、細い腕がまるで子供のように楽々と抱き上げていた。陽子が恐る恐る脚を伸ばして外へ降り立つと、上から息も乱れていない声がかかった。

「すぐに使令を呼び戻してお連れ下さい」

「あ、うん、分かった。ありがとう、それから本当に済まなかった」

男は静かに挙手をした。

「いいえ、こちらこそご無礼を」

男の名をまだ聞いていないことに気づいた陽子は尋ねようとしたが、その時入室を求める声がかかり、では、と言い置いてすぐに男は窓から引っ込んだ。

陽子は内殿へ戻るとすぐに客殿について問い直した。

友人の部屋はやはりあの部屋という事になっているようで、実際の部屋も今あそこにいたのが誰かも分からなかった。

王の招待客ではあるが半獣と知った担当の官が、妥協として一番はずれにある客殿に決めていたのだが、延主従が楽俊を自分達の近くにと他国の賓客用の客殿に勝手に移してしまった。そこへ高位のくせに辺鄙なところがいいという妙な注文があり、勝手な事ばかり言われるのにうんざりした官はちょうどよいとそこへ入れたのだが、即位式典の多忙の中、割り振りを書き直していなかったのであった。

客殿に忍び込んだことなどむろん内緒であり、さすがにもう一度抜け出す機会もなく、うっかり聞いて廻ることも出来ない陽子には、あれが誰だったのかとうとう分からずであった。
自分が誰かは知られてしまったのはまずいと思ったが、それを吹聴したり後で利用するような男には思えなかった。

とっさのことだったが、見た目は細身でいかにも高位の文官らしい姿にも関わらず、がっちりと受け止めたその身は力強かったと後で思い返した。なぜか顔立ちははっきりとは思い出せなかった。おそらく癖のない整った顔を痛みと驚きで強張らせていたからであろう。記憶に残るのは、飛びつかれて驚きに開かれた明るい茶色の目、そして驃騎にかまれても顔色を変えただけで耐えた表情、そして陽子が誰かと気づいても大仰に騒がず、その後すばやく脱出させた手際と、自分を下ろした後目の前を一瞬通り過ぎてすぐ挙手のために袖に仕舞われた白い長い指であった。


官吏との拮抗に苦しんでいた陽子にとって、官吏などみんないなくなればいいのにと毎日のように思っていた。しかしふとあの時の男ならと思うことがあった。おそらくどこかの官吏だろうが、名前が聞けなかったことが心底悔やまれた。

式典でも延々と続く官吏の列の中からあの男を見つけることは至難の業であった。皆同じような礼服を着て同じような被り物を被っていた。醜く太った男がいて目だったが、ちらりと見えた顔はぞっとするほど不快な男で、あのくらいでないととてもここでは目を引かないと残念だった。
捜しても見つからないはずで、彼が使令による傷のため、台輔のいる王座に近づくのを避けて背後の列に留まっていたことなど陽子は知るよしもなかった。


一連の即位の行事も終わり、毎日さらに官吏との緊張が繰り返されるに連れて、あの名も知らぬ官がだんだん陽子の中で大きくなっていった。きっと有能で私の今の状況を一気に解決してくれるに違いなく、あの男さえいれば私は王としてやってゆけるとまで思いこむようになった。
その後会えなかったから、あるいは誰か分からなかったからそう思うだけで、知ってみればきっと他の官と大差ないと思おうとした。実際はごく普通の真面目なだけの官吏で、あんな王宮の片隅にいたくらいだから重要な男でもないのだろう。

そう思おうとしても、彼のことが忘れられなかった。
官吏に言い負かされている時、傍らにあの静かな低いがよく通る声が助言してくれたらどんなに良いだろうと思わずにはいられなかった。

あの官が側に欲しい、そう陽子は願った。

陽子は天から賦与された力ですでにその男を捕らえていたことを知らなかった。その力の助けもあり、その願いはやがてかなった。
しかしそのために彼がどれほど多大な犠牲を払わなくてはならなかったかをその時は知らなかった。