前女王の時代のほんの一時復興するかに見えた国土の荒廃は結局止まらず、その後の長い空位の間にさらに国と民を蝕み続け、先頃即位したばかりの女王は下界の人々にはまだわずかな日の光を恵んだだけであった。
しかしそのいずれの時も、雲海の上ではその天候と同じく下とは無関係に、人も建物も輝きが陰ることはなかった。
今も王宮の奥の内殿では昇殿を許された高位の官が重々しい衣を纏い優雅に行き交っていた。
慣れぬ目になら天の宮の姿を写し取ったかと見まごうその舞台に、突然それを壊すかのような足音が響いた。そしてひとりの若い娘がすれ違う殿上人の驚いた顔に目もくれず、その衣装の重さが許す限り駈け抜けた。
周りは驚きから醒めると次々と慌てて叩頭したが、そのころにはすでにその尊き姿は彼方にあった。
駆け抜ける娘は王宮の主に相応しく美しかったが、潜めた眉と険しく強張った頬がそれを損ない、すでに着崩れ始めた絹の衣の裾は、その滑らかさのため摘まんでも摘まんでも指から滑り落ち、脚に絡んで急ぐ彼女の邪魔をした。
それでも何もかも振り捨て置き去りにしたいという気持ちのままに、彼女は夢中で走りつづけた。
その少し前、自室をぐるぐると歩き回る彼女のところへ、入室を求める声と共にひとりの青年が現れた。その肩に流れる金色の髪は、瑛州侯としての執務中に突然押しかけてきて女王への苦情を言い立てた無礼極まる官とのやりとりのあと、指でかき上げたためいつもよりほんの少し乱れていた。
「主上……」
「あのばかな官たちを首にしたわ」
どうせその官から苦情を言われてしぶしぶ小言を言いに来たのだろうと、何か言いかけた麒麟を遮り言い捨てた。どのみちあちらの言い分しか聞かないに決まっているのだから。そしてふっと溜息が聞こえたのを確かめると、くるりと振り返った。
「溜息はもう聞き飽きたの。やめて頂戴。いったい私に何をどうしろと言うの?」
「ですから、きちんと政務をお執りになって・・・」
「やろうと思っても、私はそんなことは初めてなのよ。しかも教えて欲しいと思っても、みんな薄ら笑いを浮かべるだけ」
今朝は書類を持ってきた内竪に、せめてこれが何の書類なのかを知ろうと声をかけて訊ねたのだが。
結果は居合わせた者から府吏などに声をかけたといやみを言われ、いやみを言ったその上級の官はこんな事も知らぬのかと、彼女の質問をそしらぬ顔で聞き流した。
あげくにそこへやって来た彼女を補佐するはずの女史は、さっさと書類をかき集めてから、まだそのどこにも御璽が押されていないことに初めて気づくと、ただ呆れてせかした。
中身も分からないのに御璽は押せないと抗議したが、それはすでに諸官稟議の上問題のないものだけだからと言われるばかり。
「御璽というのは私に責任があるというものだと思うのだけど。諸官で済むならなぜ王が必要なの?」
いったいこれを何度言ったことだろう。そして結局また癇癪を起こしてその女官を他の官と共に追い出してしまった。
私はいったいどうなってしまったの?
私はかんしゃく持ちなんかじゃないのに。
みんな、みんなが私の事が嫌いなところでどうやってゆけばいいの?
目の奥から涙がこぼれそうになっているのを感じた。それに必死で耐えながら、ちらりと見た麒麟は相変わらず無表情に見えた。
景麒は麒麟の本能としてこの王に無条件で従っていた、そしてむろん助けようとした。それが麒麟の勤めだと蓬山で教えられて育ったので。
天命を感じたので、この娘の所へ行き足下に跪いた。
その時に感じた痺れるような喜びは身体の奥からこみ上げて来るもので、麒麟としての満足を初めて味わった。
その一方で頭の中なのか心の中なのかは妙に冷え冷えとして、この娘が王として立ちゆくのかという疑問が湧くのを押さえられなかった。
その相反する感情の差が彼を戸惑わせ、未だにこの王に接することにこだわりを持つ原因になっていた。
彼が学んだ事によれば、麒麟は王と共にいることに何よりの喜びを感じ、それに何か疑いを持つことなどあり得ないとされていたからである。
自分はもしかしたら欠陥のある麒麟なのかもしれないという恐れすら彼を苛んでいた。
景麒にとって不幸だったのは、その前にいた蓬山公がいささか出来の悪い麒麟であったということだった。しかし人懐こく気だての良い麒麟で、女仙といえど元は人の子、つい甘やかしてしまった。しかしその結果、早々に下山した麒麟が政務の役に立たず王の足を引っ張り、出来たばかりの王朝を危うくした。
そして二度とそのようなことがあってはならないと、女仙一同が気を引き締めて次に育てたのが景麒だった。そのためか知識技能には優れていたが、成長するにつれ表情に乏しく妙な枠に凝り固まった麒麟となった。
麒麟にも出来不出来はあるが、朝の長さや王の麒麟に対する満足度に反映していなかった。
出たり入ったりでろくに書を読む暇もなかった延麒は、朝議をさぼることによって最強の官吏軍団を作ることになり、身の回りの品が増えすぎて他の宮の衣装蔵まで使っていた氾麟は、奢侈で国を滅ぼすことなく主従で国の産業の推進者となっていた。
一方で美しい字で完璧な書類を書き、立ち居振る舞いすべてに美しいこの麒麟は、麒麟としての自己への不信と未熟さへの焦りで、自分の王を支えるより、追い込んで国を滅ぼしかねない状態に陥りかけていた。
そして今も心の中では王のために何かしようと焦りながらも、喜怒哀楽を表すことを知らずに育った顔は、外からはただ無関心にしか見えず、舒覚はそれと向かい合っていることに堪りかね部屋を飛び出したのだった。
駈け続けていたが、さすがに息が苦しくなって立ち止まろうとしたとき、急に明るい陽差しの中に出た。どこかの庭院のようであったが、その明るさに誘われるようにふらりと走廊から降り立った。
そして落ちそうになっていた簪を刺し直し、手は無意識に身繕いをしながらさてここはいったいどこかと見渡した。
するとその時、無人と思えた庭のどこかから明るい女の笑い声が聞こえ、それをしっと止める男の声もした。くすくすという笑い声はやがて柔らかな言葉にならない声となり、男の何か訴えるような声と絹の衣ずれがそれに重なった。
人の気配にそちらへ向かいかけていた足を止め、思わず耳をそばだて目を凝らした舒覚の視線の先にあった茂みの陰から、やがて女がひとり笑いながら飛び出してきた。
一瞬誰かが葉の間から青い満開の花を摘み取ったかに思えた。
胸元の少し崩れた萌葱色の襦裙のあちこちに離れたこちらからでもわかるほどに木の葉らしきごみが付き、縹色の髪にはまるでそれを飾るかのように小枝が刺さっていた。
見苦しい姿のはずだが、何がそんなに楽しいのか、その笑顔は軽い笑い声と共に小さな光をあたりに舞い散らせ、腰の帯が緩んでいるのにも構わず身体全体を大きくしならせて笑う姿は、舒覚にそういえばこちらに来てから声を出して笑った事なんてあったかと振り返らせた。
すぐその後から現れた男は舒覚の気配に気づくと、娘を追おうと伸ばした手を止め、邪魔者を睨みつけて追い払おうとしたが、相手の身なりに誰かと気づき、すぐに叩頭した。
襦裙を整え塵を払うのに忙しかった娘も突然横で男が叩頭するのを見て、王の方を振り向きすぐに同じく膝をついた。
叩頭したことで彼女の笑いが見えなくなり放っていた光が消えると、三人がいるのが他に人の姿もないやや荒れ果てた庭院であることに、舒覚はやっと気づいた。
彼女は叩頭が嫌いだった。朝議でずらりと並んだ頭を見ると気が滅入った。
「頭を上げなさい」
二人の下げた頭に自分を相手にしようとしない官の姿を思い出してついきつい言い方になった。
そして
二人が躊躇いながら頭を上げると、女の方に向かって言った。
「手伝う者が一人要るの。女史に任じます。ついていらっしゃい」
女の方は一瞬驚いたようであったが、すぐにはいと返事した。その横で男が目を丸くしているのが見えた、大抜擢に驚いているのだろう。
大丈夫よ、きっとまたすぐに首になるから、そう待たなくてもまた草むらで好きなだけじゃれ合えるわよと、皮肉っぽく思った。
実のところ舒覚は選ばれて驚いた娘以上に、そんな事を言った自分に驚いていた。もちろん自分で誰かを任命したのは初めてだったが、やってみてなかなかこれは気分のいいものだと感じ、それだけの力を持つのだと自分の立場をひとつ実感した。
そうよ、何も押し付けられた官の顔色を見て暮らさなくても、こうやって自分で選べばいいのよ。この娘が使えそうだったらこれからもせいぜいあちこちの藪でも穴でも覗いて回ってやるわ。内殿にのさばっている冠位と気位ばかり高い官などごめんだもの。
そしてこちらへ来てから初めて自分で何かを決めたことに妙に勢いづいた舒覚は、初めて持った自分のしもべを従え来た方へと歩き始めた。