回廊に戻ったが、部屋への戻り方が分からない。
振り返ると、何も言わなくても黙って一方を手で示された。
「お部屋まで少し遠ございます。先に立ってご案内してもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願い」
そして
まだあちこちに葉がついたままの後に続いた。
汚れてはいても、ぴんと背筋の伸びた張りのある背で見ていると気持がよかった。周りに較べる者もなくよくは分からないがかなり長身のようで、いつもはその長い足を大きく伸ばして忙しそうに歩き回っているような気がしたが、今は小柄な舒覚に合わせてだろう、ゆっくりと歩いていた。
そんな後ろ姿を見ているうちに、こちらに来てから贅沢に育った彼女でも見ることもなかったような衣装を着せられ、その重さと王である重みが肩に重く、周りとの軋轢も重なりつい姿勢が崩れ気味になっていた自分に気付いた。
そこでひとつ息を吸って背を伸ばし、目の前の形の良い後頭部から延びる首筋を真似てしっかり頭を上げて歩き続けた。
途中見晴らしのよいところの前を通りかかると、なり立ての女史は振り向いた。
「少し休憩なさいませんか?」
先程は気が立っていたので夢中で走っていたが、そう言われてみれば少し疲れているのに気づいた。広い王宮を思った以上遠くまで来ていたようだった。
頷くと、娘は回廊から降りる段の下に先に降りて立ち、手を差し伸べた。
その手にすがりながら少しふらつく足で降りると、その先に置かれた石の椅子に掛けた。
目の前は切り立った崖で、雲海を挟んで右手にこの山の絶壁が見え、さらにその上の方に小さな堂が見えた。
王宮は広く彼女が日常使っている場所は限られており、こんなところがあることも知らなかった。
しばらく座って眺めていると、ついた手のひらに伝わる石の椅子の冷たさが心地よく、崖から吹き上げる風も爽快で、刺々しくなっていた気持ちが少し落ち着いてきた。
振り向くと娘は膝をついたまませっせと身繕いの最中だったが、見られたのに気づくとすぐに手を止め再び叩頭した。
「失礼いたしました。あまりに見苦しい姿でお供をするに忍びなくて」
「かまわないわ。それよりこちらへ来て後を向きなさい」
おずおずと娘が近寄り後を向くと、先程歩いている時に気になっていたいくつかのごみをとってやった。王が何をしているかに気づくと、娘はまた前の方の汚れを自分でもとっているようであった。
見晴らしの良いところでさわやかな風を感じながら、他人の衣に付いたごみを取ってやるという、こちらに来てからはすることもなかったつまらない事をするのがやたら楽しく、ごみをつまんだ指先から娘の力強い生気が流れ込んで来るようだった。
「はい、終わったわ。じゃあ、そのまま少し屈みなさい」
さらに娘を屈ませ、恐縮するのに構わず花色の髪に絡んだ小枝や塵もとってやり、なんとかこざっぱりとさせたのに満足した。
王になって以来、湯浴みから脱ぎ着まで人にされてばかりの毎日であったが、こうして自分の方から人の世話をやくことが彼女が最も得意とすることでもあり、どんな気晴らしより彼女をくつろがせた。
「ありがとうございました」
そう礼を言って娘が再び下がってきちんと膝をついてこちらを向くと、初めてその顔を正面からじっくりと見ることになった。
美しい娘であった。まだ若く仙かどうかは分からなかったが、見かけは同じくらいだった。
よく見れば少し口が大きすぎるとか目が離れすぎているとか、欠点にもなりかねない癖も多い顔でもあったが、それも魅力とする生き生きとした表情の豊かな娘だった。
「働いてもらうので、名を上げます。沙参<シャセン>と呼びますからね」
先ほど草むらから這い出しておおらかに笑った花色の姿から思いついた野の草の名だった。あそこで何をしていたかを考えれば不愉快だったが、それでもその伸びやかな姿は堅苦しい姿ばかり目にしている鬱屈した目にはどこか見ただけで開放感を与えた。
娘はさすがに妙な名前をつけられたのに少し驚いたようだったが、ありがとうございますと礼を言った。
「今度人に……男と会うときはもっと汚れないところで会っては?」
こちらに来て、人の顔色を見ながら言いたいことも言えないでいたのに、この娘の屈託のない様子を見ていると、なぜか勝手に口が動いた。
娘は顔を赤らめもせず、ただ目をぱちくりさせて、はいと答えた。
そのまま私室へ戻ると、庭で拾われた女官は初めての王の部屋に怖じ気づいた様子も見せず、すぐに舒覚に着替えをさせるよう現れた女官に命じた。プライドの高い女王付きの女官はむっとしたようであったが、それに動じる様子も見せない相手に一応従った。
遠出をして汗ばんだ衣を着替えさっぱりして元の房室へ戻ると、用意されていた茶で喉の乾きを癒してほっとした。しかし雇ったばかりの女史は見あたらず、どこへ行ったのかと思っていると、隣室でかさかさと紙の触れる音がした。
覗いてみると、そのにわか女史が先程投げ出していったままの書類を並べ直していた。
いつもなら、そこへも何人かの官が詰めているのだが、今朝みんな一緒に追い出してしまったので無人だった。
「何をしているの?」
「女史にしていただいたのはこのためかと思っておりましたので、少し片づけておりました」
「ええ、そうだけど。出来そうなの?王の扱う書類よ」
「なんとか」
にっこり笑うとまた書類をぱらり開いて軽く読んでは分け続けた。
そんな簡単に分かるようなものなのかと呆れて横で見ていたが、やがて娘はこちらを見て尋ねた。
「もうご休憩が終わられたのでしたら、恐れながらこちらのものを少し見て頂けないでしょうか?」
また訳の分からないものに御璽を無理強いされるのかと、美しい口をへの字に曲げて、それでも書卓へと戻った。
「少し急ぐ方がよいものがございましたので、勝手ではございますが、そちらへまとめておきました」
たしかにそれは数日前から書卓に残っており、今日喧嘩になったのもそれが原因だった。
「急ぐのは分かっていたけど、中身が分からないので御璽を押せなかったのよ」
「確かに難しそうですね。少しご説明してもよろしいでしょうか?」
いきなり王の執務室へ来てその書類がわかるのだろうかと思ったが、官の端くれなら自分よりは書類には慣れているのかもしれない。
「ええ、お願い。ただし難しい言葉を無理にそのまま読むのはやめてね。貴女でもわかることだけでいいから」
「承知いたしました」
それから最初の書類を取り上げると説明した。
「これは地官からの書類で王の直轄地の件でございます。地盤が悪くしかもしばしば川の氾濫にあう土地があり、川や土地を改修するより住民を移した方が簡単ということで、里ごと新しい土地に引っ越しをさせるという計画でございます」
言われてから読んでみると、件名すら意味の分からなかった書類はたしかにそれらしき内容の件名と解った。また中には今までの災害の報告や新しい土地の割り振りの図が付いていた。
「ふーん、なるほどそのようね。じゃあ住人は、新しい安全な土地をもらって喜ぶでしょうからいいわね」
そう言うと御璽を押した。
素直に御璽を捺す姿を、娘はじっと見ていた。
突然目の前に現れたこの若い女王は、やや生真面目すぎるようだが王宮で密かにというよりおおっぴらに囁かれているほど愚かには思えなかった。しかし普通の町娘がこれらの書類の意味を分かるにはよほどの指導が必要であり、それが与えられていないのは確かであった。置かれた書類にそれを説明する書き付けなどは見あたらず、王の反応から口頭でも説明がなかったことは確かであった。
王を実務から遠ざけようと言う目論見はありありとしていた。
現にこの書類についても、王には表向きの内容を説明したが、裏があることは確かと思われた。実際その土地はたしかに洪水にしばしば見舞われたが、それだけに土地は肥えて水利はよく、年に何度か高台に逃げさえすればよい住民は満足していた。むしろ新しい土地はこれから開墾しなくてはならない痩せた土地で、土地は貰えても家は自分で建てなくてはならなかった。元の土地を欲しがっている者が裏にいるのだろう。
書類には慣れている娘はその可能性に気づいたが、すでに計画が動き始めているもので、今からこれを止めるとなると御璽を捺さないだけではなく、王がそれなりに動く必要があり、今のこの女王では無理なのは明らかであった。
他の書類も似たり寄ったりで、王が事情の解らないのをよいことに、官によって進められている事が多々あることは確かであった。彼らにとっては、時間切れになって王がいい加減に御璽を捺すのを待っていればよいだけなのである。
実のところ、彼女自身悪意はないとはいえ、常日頃それを利用している立場といえた。しかしそうでない者などこの王宮にいるとは思えなかった。
王宮すべてがこの王の無知につけ込み、よく言えばそれだからこそ政治の素人である王の存在にかかわらず国の政は滞らず行われているのであった。
長年王のいない国を支えて来た自信から、政は自分たち官の仕事であり誇りであると思っていない官吏などいないはずであり、特に上級の官である国官は、その大部分が王の存在意義など天災と妖魔を防いでくれることくらいと思っているに違いなかった。
しかしそれはそれ、王にその仕事を教えないという事はまた別ものだと娘は思った。この女王のように政にそれなりに興味のある王がそれから遠ざけられて、そのために王位に飽いたら、やがて失道に至り再び国が荒れるのである。
とりあえず今日のところはこの机の上を一旦片づけてまわりの思惑に従うしかないようであった。