娘の要領の良い説明を聞きながら、女王は机の上を占領していた書類を片づけ始めた。
そしてそれにかかる前に女史は舒覚に尋ねた。
「恐れながら、主上のご実家はたいへん大きな商いをなさっていると伺っておりますが」
「そうよ、とっても大きな呉服屋よ」
嬉々として書類に向かっていた瞳が、家族を想って一瞬翳った。
「しかも長子であられるとか。ではお店のお手伝いはなさいましたでしょうか?」
「妹の舒栄はお客の相手が好きだったけど、私は苦手で裏で帳簿や在庫を見るくらいだったわ」
女史の青い瞳がそれを聞くと満足そうに光った。
「大店の帳簿や仕入れと言えば大層な数字を扱うはず。それをお出来になる方なら、こんなものは容易いかと存じます」
「そんな、まさか。反物や履き物と川の治水や祭礼がどう繋がるの?」
「帳簿はいつでも誰が見てもわかるように、あるいは続きが書けるように、さまざまな約束事で出来ております。王宮の書類も、どの官が読んでも仕事が出来るように、また後の世でも理解できるように、用語や手順が厳しく決まっております。
そのためどちらも全く見慣れぬ目にはいささか取っつきが悪うございますが、独特の言い回しや用語などを多少学ばれれば、帳簿をお分かりになる主上にならすぐに理解できるのではと思うのですが」
本当かとまだ信じかねている舒覚に、女史はいくつかのことばと担当の官や府の働きを教えた。
「書類は作るとなればかなり知識と経験が必要でございますが、読むだけならそれよりずっと簡単にお出来になりますよ」
実際いくつかの用語を教えられると、今まで文字にすら見えなかった件名だけでもかなり解るようになってきた。
王位について以来溜まって行く一方だった書類が片づいてゆく快感は何とも言えず気持ちのよいもので、勢いづいた舒覚は時間を忘れて熱中した。そして積み上がった書類の山のひとつがきれいに片づく、舒覚は思わず重い袖を振り上げて伸びをした。
「あー、気持ちいいわー」
その無邪気な動作は女史の微笑を誘ったが、それほどに政務は彼女の気持ちの負担になっており、王宮の書類を読んだ後に快い疲労を感じたことなど初めてであった。
華やかで愛想の良い妹は気まぐれに店に立つと、さほど努力もしないで上客に高価な品を買わせていた。それに較べると、年老いた父を手伝うためとはいえ、地味な仕事と思っていた店の裏での帳簿つけがこんな形で役に立つとは思わなかった。
また客の相手はあまりしなかったが、店でも奥でもたくさん抱えている家生の采配では母を手伝うことも多かった。それも沙参に言うと、官吏など、どれも王にとってはただの使用人でございますとあっさり言われた。
おどおどとして失敗ばかりする賄い方の奚を指図するのと、貫禄たっぷりの六官に命じるのとが同じとは思えなかったが、この娘が言うなら自分にも出来るのかもしれないと、その時の彼女には思えた。
「菓子の用意でもさせましょうか?お疲れでございましょう」
成し遂げた結果に満足して快い興奮に浸っている女王を見ながらそう言う本人はしかし長時間の手伝いに疲れた様子も見せず、御璽の捺された書類を確かめながら揃えていた。
「そうね、でももう夕刻ね。すぐに夕餉だからもういいわ」
「ではこれを官府の方へ届けて参ります。あちこちへ参りますので、今日はこのまま下がらせて頂いてもよろしいでしょうか?元の職場の仕事も残っておりますので」
「ええ、かまわなくてよ」
ところで、この娘の元の仕事というのは何だったのかしら。そう言えば本来の名前も何も聞いていなかったことにやっと思い至った。頭に血が上っていて少々やけになっていたので、考えればとんでもない事をしていたとわかった。
今更だがせめて仕事と名前を聞こうとした時、入室を求める声がした。
入ってきたのは大宰と大司寇だった。
ふたりはまず書類を抱えて女王の傍らに立つ娘の方をじろりと見た。
「ああ、新しい女史よ。彼女のおかげでやっと書類が片づいたから、今から届けにゆかせるところよ」
これでもうねちねち言われることも減ると思い、また大宰だと思えば腰が引けるから、うちの番頭だと思えばいいのよね、と女史の無言の励ましを感じながら言った。
「それはこちらで運ばせますので、外に待たせている下官を呼び入れてもよろしいでしょうか?」
そんな彼女の気分を冷ますように愛想の欠片もない声だった。
「ええ、お願い。じゃあ、あなたは下がっていいわ」
礼をして下がろうとした娘を大宰が止めた。
「待て、お前のことで話があるのだから」
大宰の物言いにも負けず
まだ気分が高揚したままの女王は、やっと見つけた女官の採用に口出しをされるのかとむっとした。
「たかが、女史のひとりやふたりを雇っただけで、何か?」
「女史なら構いませんが、小司寇がらみとなりますと、こちらにもひとこと頂きたいのですが」
「小司寇?」
この娘、小司寇の女官だったのか。どんな男だっただろう。
女王と直接話すなど六官の長くらいで、あとは朝議の時に下を向いた頭を見るばかり。あるいは遠くで奏上しているのを聞くくらいしか記憶にない。
小とつく六官長の次席は実務のトップであり、書類で名前は見ているのかもしれないが、件名すら意味のわからない書類の中の名まで覚えているはずがなかった。
あれこれ顔を思い出そうとしていた女王は次の言葉に驚いた。
「そうです、仮にも小司寇をいきなり女史に落とされては、あまりの降格でよほどの落ち度があったことになり、本人の将来にも差し障ります。なにより先程から秋官府は業務が停滞して大変な状態になっております」
そう言う大宰の横で大司寇はこれ見よがしに溜息をついた。
舒覚はあっけにとられて、横に立つ娘を見上げた。
娘はもっともらしい顔をしていたが、すぐそばにいる女王には、その身体が小さく震えているのが感じられた。
――この娘、面白がっている、笑っているんだわ。
どうやら、この間に合わせの女史は、仕事をさぼって火遊び中のただの女官ではなく、秋官府の二番頭らしかった。
言われてみればあの仕事ぶりも納得ゆくし、着ているものも最初は汚れにばかりに気を取られて見落としていたが、ただの女官が着るようなものではなかった。
「まあ・・・」
途方にくれてそう言うしかなかった。
結局沙参はそのまま舒覚の元で働くことになった。
さすがに女史というわけには行かず、位はそのままで大宰直属の王の補佐ということになった。
王宮の仕組みに疎い舒覚はともかく、小司寇にまで昇っていながら今この役目を引き受ける事の難しさは、沙参にはよく分かっていた。
一方に王をないがしろにして実権を握ったままでいたい官吏がおり、とりわけ冢宰六官長は互いに争いながらも王に対する方針は同じであった。もし彼らの企てを少しでも邪魔をすれば、どうなるかは明らかであった。
そして王はやはり王であり、この機嫌を損ねてもやはり官としてはこの先は難しかった。
つまりこれはもし本気で勤めるならどうやっても立ち行かなくなる役目であり、官としてはどちらの側についても致命的であった。つまりまともな官なら何よりも避けるべき役であった。
人並み以上の出世欲も能力もあり、官の派閥とも良心が痛まぬほどには妥協してきたが、今後はそれがどこまで可能か難しかった。
それでもこの仕事に取り組もうと彼女に決心させたのは何だったのか。
長い官吏生活にやや飽いていたのかもしれない。そして自分の手引きで嬉しそうに書類を片づける王の姿や、それによって国政の頂点に陰で関わることに対する官としての誇りだったのか。
王にとって利のある相手に、王の意志とは関係なく働く天賦の力は、今やっとそれに相応しい相手を見つけたのである。そしてそれは王本人を守る事が優先され、捕らえた相手には王のためになるよう容赦なく働く。