予想されたことではあったが、その年も天候は不順で日は差さず、結局昨年よりもさらに収穫は少なかった。
冬を越せないかもしれないという恐怖は芳全土を暗くした。
その上妖魔の数も増え里へも近づくようになり、食べるものもない農民は飢えと妖魔の両方に怯えながら冬を越すことになった。
「他の妖魔の様子はどうだ?」
月渓は宮中の人目を楽しませるよう寵姫と廊屋を一緒にそぞろ歩く役目をしながら尋ねた。
「ほとんどが小物の妖魔ばかりだ。それなりの武器があれば里に集まった農民にも戦えるだろうが、夏になってばらばらに農地へ戻ってからが危ないだろう」
いまのところ防ぐ手はこの妖魔が食べ尽くしてくれる事くらいしか思いつかないと、月渓はあでやかだが重そうに着飾って階段を下りる娘の手を取ってやりながら溜息をついた。
妖魔も実は餌とする以外でも、見かけた妖魔はなるべく倒したほうがいいのかとは考えていた。しかし遊びで殺戮をする習性はなく、なまじ強力な種族のため襲われる心配もないので、今までこちらから仕掛けたこともなかった。そのためせいぜい里に近いところから追い払うくらいしか出来なかった。
天候の影響の少ない雲海の上でも今年の冬は寒く、夜の闇は冷え込みを伴った。
明け方ふと目を覚ました月渓は、湯殿から戻ってくる妖魔と目を合わせた。
「音を立てたか?」
「いや。・・・・他の妖魔は多かったか?」
いつもなら臥牀の向こう側にまわる妖魔はそのまま月渓の方へ来た。
「・・・・多い、途中里家がひとつ襲われた跡があった」
「けが人は?」
妖魔は黙って首を横に振った。
襲われる里家はもともと人数の少ないところが多い。けが人すら残さないほど襲った妖魔の方が飢えて数も多かったのだろう。
それは月渓も分かっていた。子供も含めて全滅したはずのその里に住んでいた顔も知らない民を思った。
目の前の闇に浮かび上がっている白い妖魔の身体が霞み闇に溶け込みそうになった。また妖魔の姿に戻ろうとしているのかと思ったが、自分の目に溢れるもののためだった。
声を立てず、身体を震わせるのに耐え、それでも静かにそれが溢れるにまかせていた。
その霞の中から触手ではなく白い手が伸びてその涙を掬った。しかしとても指先では拭いきれない涙をどうしようかと迷った指は衾を引っ張ってみたが、どっしりした錦には涙を拭うところがなかった。
困った妖魔はその唇を近づけて月渓の目元に溢れるものを吸った。そして枕に落ちそうになった滴を舌で捕らえた。
つい先ほどまで数頭の妖魔と戦いそれをむさぼり食った妖魔の口と腹にとって、顔も見たことのない人々を思って自分を責めて泣く男の涙は甘く、温泉でも清めきれない穢れた身を祓
うかのようであった。
そのままゆっくりとその甘い水が止まるまでいつもとは違った飢えを満たすように小さな滴を舌に集めた。
やがて細身だが強い腕が伸びて妖魔を捕らえた。
今まで何者にも捕らえられたことのない身が静かに衾褥の中に引き寄せられた。
暖かいな―――
そう呟いた男は白い妖魔の身体をしっかりと抱きしめると、そこに顔を埋めてまた眠り込んだ
芳の長い寒い冬はまだ始まったばかりであった。
その寒くて長い夜、夜明けに帰って来ると妖魔は今までのように臥牀の反対側ではなく月渓のそばに滑り込むようになった。
しばしばうなされるようになっていた月渓は、浅い眠りの中でその暖かさを味わうように抱きしめるといつもそのまま幼子のように眠り続けた。
寒さが一番厳しかったある夜、妖魔が帰ると月渓が起きて玻璃越しに外を眺めていた。
雲海の上で玻璃越しといえど冷気が伝わり月渓の顔色は血の色がなく冬の月のように白かった。
妖魔を振り向くこともせず、下は寒かったかと尋ねた。
あまりの寒さに、薪も切らし火を熾し続けることの出来なかった里家が白く凍り付いていた。
集まってきた妖魔も凍り付いた肉には歯が立たず去っていった。妖魔は人形になって中を覗いてみたが、命のある者はいなかった。残っている櫃の中身から見てどのみち長くは持たず静かに眠ったまま死んだのは幸いなのかもしれなかった。
それを話すことが月渓を苦しめることだとわかっていたが、妖魔は隠さず話した。おそらくそれは月渓が想像している事のはずであったから。
それを聞きながら月渓は天井を振り仰いで無言で立っていた。
声も立てず涙も流さずその表情には何も見せていなかった。
妖魔は自分に襲われた人間の恐怖に満ちた顔も、助からないと知って覚悟した顔も諦めた顔も見飽きるほどに見てきた。助けを求め叫ぶ者もいた。
しかし、これほどまでに深い、救いを求めることすら忘れた絶望を見せられた事はなかった。
やがて月渓のつぶやきが聞こえた。
「王ならこれだけ国を荒らしたらとうに麒麟を失道させて死んでいるだろう。
仮王は死んでやることも出来ないのだ。
民が哀れで王を討ったのに、私のしたことは民を飢えと寒さに追いやっただけであった」
そして寂しげに妖魔を見た。
「おまえが私を喰い殺してくれたら、かわりにすぐに新しい王が立って下さるというのならどんなによいか」
妖力と権力を持っていても、今この二人に下で生きる民にしてやれるのは彼らを想うことだけだった。
冬の寒さが少し緩み始めた頃、しかし春を待つ気持ちは芳には少なかった。
これからの季節、せいぜい寒さで死ぬ事がなくなるだけだったが、いつ飢えて死ぬかもしれないとなれば寒さで眠っているうちに死ぬ方がよほど苦しまなくて良い楽な死に方に思えた。夏の日照りで乾きで死ぬのはもっと辛そうだった。
死への恐怖は芳の多くの民から離れなかった。
実際芳の将来は沈み込んでいた。
春に実り秋までの食料になるはずの麦は、冬の間僅かな手入れも出来ないまま多くが枯れ、なんとか残ったものの葉の中をのぞいてもほとんど実をつけていなかった。
そして秋に実る米に至っては春に撒く籾すらなかった。
なんとか残していたものも、この冬を乗り切るためにほとんどが食糧として食べられてしまったのである。そうしてもあちこちの里家で餓死するものが出た。
妖魔に何度も襲われて人数が減ったおかげで、籾だけは奇跡的に半分残ったという里すらあった。
これを恐れて籾はすべて各地方の役所で集めて管理すべきとしたのだが、昨年の収穫のあまりの少なさに飢えを恐れた農民の大半が提出を拒否した結果であった。
本当なら集めなかった役人の責任だが、現場を知る地方の下官にはそれはあまりに酷な事とあえて見逃す者が多かったのである。
春が来ても新たな実りはなく、植えるものもないという絶望的な状況がいよいよ王宮の月渓達を追いつめた。
不順な天候なりにだんだん日が長く明るくなるのすら月渓には恐ろしかった。
目先の冬と寒さと戦っている国民の心には、無意識に春になればなんとかなるという思いがある。北国の民にとって春は希望の季節なのである。
その希望をうち砕かれたときの民の救いようのない絶望感をどうすればいいのか。
何度か妖魔もいる荒れた冬の海に船を出し、無謀な航海を繰り返して近隣の国から食料を求めることにした。
ほとんど空手形に近い芳の支払いに黙っていくつかの国が送ってくれた。
しかし問題は春植える種籾だった。
厳しいこの気象条件に合った品種を持つ国はなかった。あるとすれば柳国か戴国くらいであるが、どちらも今は芳と同じく食料が不足しており分けてもらえるはずもなかった。王のいる国はたとえ北国でも気候は安定している。
ある日範から知らせが来た。深い付き合いはないが、それでも恭と共に何度も援助の食料を送ってくれていた。
それによると慶からの使者が種籾を携え、範を経由して芳に向かったという事であった。
なぜ慶なのかと思ったが、種籾の入手は今では国を救う唯一の方法であった。
すぐに月渓は妖魔のところへ行った。
何度かの海を越えた食料調達の時、月渓には何も言わなかったが妖魔は王宮をそっと抜け出して船を襲う妖魔と戦っていた。何度も助けられた芳の海の男達は黒い守り神がいると信じ始めていた。
そして疲れ切って王宮までたどり着き、なんとか人型に戻ったものの疲れで床にうずくまったまま動けなくなった妖魔を、月渓が見つけて寝かしつけたこともあった。
妖魔が何も言わなくても、帰ってきた船乗りや官の話からおおよその事はわかっていた。
月渓が自分の部屋へ行くと、妖魔はいつも昼間ひとりで過ごしている時のようにぼんやりうとうとしていた。
こんな時間に何ごとと振り返る妖魔に、慶からの使者の話をした。
妖魔は黙って立ち上がると部屋の隅へ行って髪飾りを外し、するりと衣から抜け出した。
月渓はその黒い姿に手を差し伸べて軽く抱きしめると、気をつけて行ってくれと声をかけて窓を開けてやった。
ふわりと浮かび上がると妖魔はそこから滑り出て、月渓の見守るなか雲海の上を飛び去った。