夏は人々にほとんどその姿を見せることなく秋に譲ろうとしていた。

月渓は妖魔だけをつれて時々あちこちを見て回るようになっていた。
寵姫を連れたお忍びの散歩に見えたが、実際のところは最強の警護ひとりをつれた視察であった。
よけいな気遣いもされず身軽なので、時間のない身には効率よく便利に思えた。
自分ではあまり話さないくせにいろいろ知りたがる妖魔の質問も、視察に違った視点をとるきっかけにもなった。



その日見て回った田畑に実りは少なく、そこを耕していた者の中には期待できない収穫も待たず、早くも里か町へ移ろうとしている者もいた。
ここに居ても妖魔に家畜を襲われ、追い剥ぎや強盗と化した難民に食糧を奪われただけ。このままろくに採れない米を待つより日銭を稼いだ方がよほどよいなどと彼らは口々に語った。

先ほど聞かされたその言葉が、頭の中で繰り返し離れなかった。
土地が厳しい気象条件の下でやっと実らせた僅かな糧を農民が見捨てようとする事は、いくら力を尽くしても衰えるばかりの国を支えようとする月渓らが民に見限られる日の近いことを予感させた。


すでに山の上に太陽が近づく時間になっていた。まだまだ山までは離れているように見えてもこの季節あっというまに沈むのが分かっていた。
それでも樹にもたれて目を閉じて座り込んだままの月渓の口元に何かが押しつけられた。
咄嗟に閉じようとした口は細い指に促されて、押し込まれるままに受け入れた。
甘い香りに一口噛むと、甘酸っぱい味が口に広がった。

振り向くと妖魔が手に僅かばかりの草の実を持って立っていた。

「どうした?おまえもそんなものを食べるようになったのか」

「あちらの茂みの中で見つけた。女官達が話をしていたので捜してみたのだが。
土産にと思ったが容れる物もなくて」

月渓の冷やかすような問いかけにとんでもないという顔をして答えると、その横に座り込んでまた差し出した。

「今年は少ないそうで、これだけしかなかった。もっと喰うか?」

お前を喰うではなく、喰うか?かと月渓は苦笑しながら受け取ろうとしたが、この枯れきった土地に生えていた物と思えないほどに水気の多い実は妖魔の手から滴を垂らすほどに柔らかく、やむを得ずその手をとって掌に口をつけ、赤紫色に染まった手の熱で香りを強くした実を味わった。

僅かな夏の実りは、ほんの二口だった。

汁が手からその白い腕を伝って袖の中に流れようとしているのに気づいて、慌てて手で拭ったがその時その腕に傷跡があるのに気が付いた。

「あの時の傷だな」

「ん?ああ、そうだな」

「なぜわざわざ残すのだ?人の形を取るのは自由になるのだろう?」

「あまり急に痕が消えると、女達に怪しまれるかと思って」

「そんなことまで誰も気にしていないだろう」

「とんでもない。毎日何人もが睨みを利かせて、飾り立てたり磨き上げたりするんだぞ。
あんまりじっと見るんで、喰われそうな気がする時がある」

それを聞いて声を上げて笑う姿には先ほどまでの影が消え、月渓は以前の屈託のない若い男に戻ったようであった。王宮を離れ、熟し切った実の放つエキスに酔わされての開放感は、久しく余裕に縁の無くなった男の心を解き放った。

「では、実の礼代わりに今日は私がその身を調べてやろう」

そう言うと、赤紫に染まった手を引き寄せてそれに続く身を倒した。

妖魔と一緒に草の上に重なって転がり笑った。
そしていきなり何をするんだと憤慨した顔を自分の下に敷くと、大仰にその身体を見下ろした。

見なれてはいるがそういえば触れたこともなかったその胸に指を滑らせ、さらにそれを掌で包んでみた。 それは柔らかく月渓の手を押し返し、娘の身にまとわりつく実の熟した香りが、その胸の感触を煽った。

手を下ろして飾り帯を解いた。 そしてそのままさらに下の帯を解くと、僅かな枚数を重ねているだけと思ったその衣装はさすがに王宮の着付けだけあり、実際には薄物を幾重にも重ねてあった。
月渓の指示で一気に解けるようにもなっていたが、今は一本ずつ一枚ずつ解くもどかしさが心地よかった。 一本解き、一枚剥ぎ、その間にも隠れた身を手で味わった。

細い葉の繁る大木の下の緑陰には、二人の動きにつれて下敷きになった夏草の香りが立ちこめた。

やがて様々な色合いを重ねた衣を開いた中に白い姿が横たわった。
衣の上から何度ももみしだかれた胸だけがほのかに色づいていたが、それ以外はあまりに見慣れた姿で、それが月渓の舞い上がった気持ちを冷やした。

いくら美しく柔らかくともこれは妖魔であった。それは誰が知らぬとも彼は知っていた。
自分の心の中にあった過去の人の姿を毎日見る辛さから目を背けようとした事もあった。しかしそれ以上に美しい形の中にある人を喰らう妖魔の本性を忘れられなかった。

だが、と月渓は考えた。
王と呼ばれている自分もその本性は王ではなくただの簒奪者。多くの血を流してそれを手に入れた。
それにくらべてこの妖魔は、と目の前の姿を見た。

他の男なら血潮が騒いで触れずにはおられない肢体を曝したまま、なんだろうという顔のままこちらを見ている。
毎日この姿を見せても何の反応もしないのに、なぜわざわざこの様な場所で身を剥かれるのかが理解できないのであろう。

そこには何の悪も見えなかった。

毎夜生き血を流して妖魔同士食い合っているとはいえ、また以前は人を喰っていたとはいえ、それは生きるためにどうしても必要な事。それ以外何か自分のために殺戮をしたり、悪を為しているのは見たことがなかった。
あとはこちらの都合で窮屈そうに飾られて、口に合わない物を食べさせられて、皆を喜ばすばかり。
その重い口は愛想も言わないが、人を傷つける言葉を吐いたのは聞いたことがなかった。

そんな身に一時の開放感から戯れかけた自分の軽率さを恥じた。

しばらく妖魔を見つめていたが、そっとその白い手を取り起きあがらせると、いったい何をとまだ顔で問いながら素直に身を起こした。
草むらに投げ出されたままの着物を拾い上げて、着せかけると丁寧にまた着せた。
一本帯を結ぶ度に少し弱まった実の香りがまた立ちのぼった。

早い夕日の中で妖魔を抱き上げて騎獣に載せると、また絶え間ない仕事の待つ王宮へと向かった。