祥瓊は自分が慶に落ち着いた後も、芳の行く末が心から離れる事はなかった。
幸い以前の縁によって、範から陽子宛に現状が伝わることもあったが、そこに見る母国の様子は窮乏の一途であった。
まだ復興途中の慶に嘗ての母国の事で負担をかけることに遠慮はあったが、ついに今年は種籾すらないらしいと聞くに及んでは居ても立ってもいられなくなり、たとえお情けの古米一粒でも運んでやれないかと思い詰めた。
心を決めると陽子に話をする時間を頼んだ。毎日何度も顔を会わせていても、これは臣下や友人として話すべきではないと考えたからである。
指示された時間に積翠台へ行くと、そこには台輔と冢宰もいた。まだ執務が終わっていないところへ来てしまったと思った祥瓊は退室しかけたが止められた。
「私に用があったのだろう」
「はい」
景麒と浩瀚の方をちらりと見たが、ふたりとも出てゆく様子も祥瓊が邪魔という様子も見せなかった。
「あの、これは元芳の公主としてのお願いです」
「それはいいが、そなたはすでに慶に籍を移して、ここでは単なる主上の臣下だと言うことを忘れないように」
こちらも見ずに何か書き付けをしながら言った浩瀚は素っ気なかった。
それも当然のこととして耐え、それでもここで引き下がるわけには行かなかった。
「ご存じのように、芳ではいよいよ食物が不足して今年撒く籾もありません。どんなものでも結構です。分けて頂けないでしょうか?」
「分けるのはいいけど、慶は温暖だからここの品種が芳でも育つのだろうか。
それにそれをどうやって運ぶんだ?祥瓊が一人で運べるものではないだろう。あちらには妖魔も出るというじゃないか」
陽子はそう言ってからちらと浩瀚を見た。浩瀚は少し考えたような顔をしてからよどみなく答えた。
「主上のおかげで収穫も増え多少の余裕は出て参りましたが、これは本来備蓄に回すもの、他国のために使うほどの余裕はないかと存じます。
そもそも主上がおっしゃるように品種が違いすぎます。そうですね、北部の州で試していたものなら少しは使えるかもしれませんが、これはごく少ししか作っておりません。
それから輸送に関しては、妖魔を考えれば警護の兵やそれを指揮をする武官だけでも十名以下では無理でしょう。そもそもそんなところへ行きたがる者がいるかどうか」
聞いているうちに祥瓊の気持ちはどんどん落ち込んできた。
やはりいつまで経っても自分はだめな人間で、人に頼るだけしか出来ない。
ごめんね、月渓。ごめんね、芳のみんな。
そこへ憮然とした声が割り込んだ。
「もうお戯れはそのくらいでよろしいでしょう。いい加減になさいませ」
顔を上げると、景麒が陽子と浩瀚をにらんでいた。
にらまれた浩瀚は澄まして手元の書類を取り上げ、陽子は笑い始めた。
ぽかんとした祥瓊を見て、笑いを止めた陽子は浩瀚から書類を受け取った。
「ごめん、祥瓊。でもひとりでくよくよしているだけで相談してくれないのでちょっといじわるしたくなって。これは慶から芳に籾米を贈呈する計画の書類だよ。
品種は雁が戴を助けるために作ったものだから今の芳でも使えると思う。相当寒くて不安定な気候でもなんとか育ったと聞いたので、またどこかの荒れた国に必要になった時用にと少しずつ蓄えていたんだ。ただし味はお薦めできないらしいけどね」
立ち上がってそばに来た陽子は、それを祥瓊の手に渡した。
「ごめんなさい、私何と言っていいのか・・・」
礼の言葉が思い浮かばず赤面する祥瓊に、浩瀚が先ほどまでとは違いきちんとこちらを向いて淡々と計画の説明をした。
「撒く時期が迫っているため、出発は明日に決まった。
警護の者はなるべく付けるが、噂に聞く数の妖魔が相手ではいくらいても足りるものではない。氾王のご厚意で、あちらで疲れた騎獣を取り替えて頂くことになっているが、それでも逃げ切れる保証はない。
だから全員が荷を分けて持ち、一人でも多くあちらにたどり着く事に賭けるしかないと考えている」
祥瓊はそれを聞いて陽子の方を振り向いた。
「自分も行きたいんだろう」
聞かれて強く頷くと、あああ、という顔をされた。
「そう言うと思って祥瓊には黙って出発させることにしていたんだ。今までこれを内緒にしていた理由だよ。
でもね、思ったんだ。祥瓊はあちらに何かやり残したことがあると感じているのではないかって。それを引きずったまま生きてゆくのはつらいだろう。それだったらいっそそれと向かい合うのも必要かもしれないし、だったらこれはいい機会かもしれないね」
「ごめんなさい、そして・・・・ありがとう」
祥瓊は思わずそのまま陽子に抱きつきそうになったが、はっとしてその手を下ろし、背筋を伸ばして姿勢を正すと伏礼した。
「使節に加えて頂き、ありがとうございました、主上。慶の官としてお預け下さった貴重な穀物は必ず芳へ届けて参ります」
「うん、でもちゃんと帰ってきてね。そしてこれが終わったら、今度こそ慶で生きていけるね」
それを見下ろして陽子は答えた。
「麒麟がいない王というのはどういうものなんだろう」
準備のために自室へ下がった祥瓊と共に浩瀚が去った後、陽子がつぶやくと金の髪のかかった肩がぴくりと動いた。
「以前延王がおっしゃった。何か言われたら、麒麟が自分を選んだのだから、文句は麒麟に言え、そんな風にかわせと」
あの王の言いそうな事だと思った。
「でも月渓はそうは言えない。もちろんその間にいろいろとあったことは桓魋からも聞いたけど、自分がしたことと選んだ事の結果として王になっている。つまりどうなっても自分がすべて責任を持たなくてはならないわけだ。私には出来ないことだ」
立ったまま手を後に組んで窓の外を眺めている陽子の表情は見えない。
「天が麒麟を通して私に王座を押し付けたと思ったこともある。でも麒麟は王にとってそれだけじゃないんだな」
「私はあなたにとって望まぬものを押し付け、その後は言い逃れの方便という事でしょうか」
いつもより低い声は少しなじったかのようだった。
「ああ、違う。麒麟の仕事は王を選んだ時に終わるのではなくて、そこから始まるんだな、とやっとちょっと気が付いたってこと。王に選ばれた事を知らせるだけなら青鳥にだって出来る。何もお前があちらまで来る必要なんてなかったのさ。
そもそもあの説明ぶりを思えば、文でも寄越してくれた方がよほど解りやすかったね」
陽子は振り向き、窓にもたれて足先と腕を組むと、景麒をその碧の瞳で見つめた。
「王になるためじゃなくて、王であり続けるためにこそ麒麟が必要なんじゃないかな。
ひとりで背負うには重すぎて、でも他に代わってくれる人はいない。これを理解しろというのも無理だろう。でもせめてそれを見守ってくれる人がいないとね。
だから私がここにいる限り、必ずお前がいるという事は、やっぱりすごいことで、その幸せを天に感謝しないといけないんだろうね。私は決して一人にはならないということを」
前の王にひとり残されたことのある麒麟は、自分のまわりのどこにも心に繋がる者がいないと感じた事をまだ忘れられずにいた。反射的にあの掴まるものもないままに漂うような感覚を閉め出そうとしたが、傍らから流れ込む王気はもはやその必要がないことを彼に知らせた。
一瞬強張りかけた心を緩めた景麒は、静かに陽子を見上げた。
「いつも一緒にいてくれて、私のする事を見ては溜息をついて、ケチをつけて、使令で助けてくれる麒麟はやっぱりいいやつだなと感謝しているんだから、たまに言い逃れの方便にされるくらいは、まあ我慢するんだな」
言いたいだけ言い放つと、こちらに口を挟む隙も与えず出てゆく主を、勝手な方だと憮然として見送った景麒は、それでも身体の奥のどこかで以前の主には感じたことのない暖かいものがひろがるのを味わっていた。