祥瓊らが芳に近づくと次々と妖魔の襲来を受けた。一行は果敢にそれと戦ったが、あと一息というところで現れた妖魔は桁違いに大きく数も多かった。兵もその身を守るのが精一杯となり、祥瓊を守る目がなくなったその時、鋭い牙が彼女に襲いかかった。
祥瓊は間一髪それを逃れたが、近くで何か大きな衝撃を感じ、恐ろしさのあまり騎獣の首に顔を伏せたため様子がわからないのだが、血生臭さが鼻をついた。
そして妖魔の叫び声が遠くになりほっとしたのも束の間、現れた別の妖魔の翼に打たれた騎獣を御せなくなり、傾いた姿勢のまま海へ向かって騎獣ごと落ちていった。
春まだ早い北の海は黒々と重い色を見せ、灰色に泡立つその表面が近づいてくるのを為すすべもなく見ているうちに意識を失った。
次にふと目を覚ますと、うしろを誰かに支えられて相変わらず騎獣に乗っていたが、見渡す限り慶の一行の姿は見えなかった。
いったい誰がと振り向こうとしたが、背後からの手が止めた。無理に顔をまわすと乗っているのは見知らぬ若い娘でしかも裸であった。妖魔のうろつくこんなところでいったいどこからこんな娘が現れたのか不思議だったが、声をかけても返事はなく、衣を失った身体には先ほどの妖魔の返り血とおぼしき緑色の液体が飛び散っていた。そしてその汚れで色もわからなくなった髪が蒼ざめた顔に貼り付いていた。
いつまた次の妖魔が襲って来るかわからず、背後の娘の顔色の悪さも気がかりなまま飛び続けているうち、やがて懐かしい王宮が見えてきた。両親を亡くして里家に送られて以来初めて見る王宮の姿に、背後の娘の姿の異様さを忘れた。
すぐにどこかの門に降りると思っていたが、なぜか露台のひとつに降ろされ、まだ騎獣に乗ったままの娘はそのままどこかへ飛び去った。
どういう事情でか着るものをなくした状態では王宮の門に降りるのは無理なのだろうが、あっという間の事でどうしてやることも出来なかった。
一足早く到着した慶の一行から祥瓊が妖魔に襲われて姿を消した事を聞いた月渓は、衝撃のあまり声を失った。自分のために王だけでなく、命を救ったはずの祥瓊まで死なせたのかと己を責めた。
そもそも芳に何の義理もない慶が先の勅使に続いて再びこのような危険を冒してまで助けの手を差しのばしてきたのは、女王の祥瓊への信頼の篤さに由るものである。そして月渓に負けず彼女を失ったことで深い悲しみに打ちひしがれている慶の官や兵を見れば、彼女を認めているのが決して女王ひとりではないと分かった。
それは月渓にとって自分のした事を悔やまず、むしろ誇れることであった。しかしこのような結果となった今、それは彼女を亡くしたことを一層耐え難くした。
あれほど待ちこがれた、そして運ぶ方にとっても命を賭して運んできた貴重な穀物が、一人の少女を心から惜しむ人々の手で、言葉少なく引き渡され受け取られた。
その時足早に入ってきた下官が祥瓊の到着を告げた。
突然露台から現れた汚れきった見知らぬ娘に、皆が驚き怪しんだため報告が遅れたとの事であった。
その無事への安堵のあまり震えそうになる声と手で招き入れられた祥瓊は、進み出るとすぐに叩頭して到着の挨拶と遅れを詫びた。
月渓の前に伏することに何のこだわりも見せない様子に、元の公主を知る者は驚いたが、上げて見せたその顔に再び驚いた。
成長した祥瓊は、以前の空虚な華やかさと代わって聡明で気品のある美貌の持ち主に育っていたが、月渓の愛妾に似たところはほとんどなかったからである。
彼女が王宮に来たときとはたしかに髪と目の色以外はそっくりだったはずである。公主時代しか知らぬ者にはもちろん少し違ったが、それでもその面影が似ていたことは確かであった。
だから愛妾とここにいる祥瓊がこれほどに似ていない事が理解できなかったのである。
もちろん祥瓊の顔を知らぬものも多く、彼らはただ遠方から命がけで籾を運んでくれた年若い恩人に感謝を込めて無事到着した事への喜びを述べ礼を言った。
しかし祥瓊はそれ以外の嘗て面識のあった者の表情を訝しんだ。自分を見て不快な顔をされる覚悟はしてきたが、ただ純粋に驚いている顔に戸惑ったのである。
特に月渓の様子が妙であった。
厳しい状況下で国を預かってきた年月は彼に若い姿はそのままでも何か老成したものを与えており、堂々と王座に座る姿は立派なものであった。それにも関わらず、他の誰よりもひどく間の抜けた顔をしていた。
しかしそれも一時で、すぐに無事着いたことを喜び感謝の意を述べた。儀礼的な言いまわしにも関わらず、その響きの優しさに、祥瓊はおや?と思った。この男、こんな物言いをする男だったかしら。
「それにしてもみなさまよくぞご無事で。いったいどうやって妖魔の襲撃を逃れられたのか」
祥瓊が無事だったことで少しその場の雰囲気も和やかになり、芳のひとりが改めて慶の官に声をかけた。
「もう駄目かと思ったのですが、なんと黒い妖魔が助けてくれたので、ようようここまでたどり着けたのです。最初はてっきりまた新たな敵と思ったのですが。
おかげでなんとか種籾をなくさずにお届けすることが出来ました」
「おお、それは我が国の守り神じゃ。今までそれのおかげでどれほどの命と食料が助かったかしれぬ。天帝が我らを哀れんで送って下さったと皆は言っておるのです」
うれしそうに答える小庸から目を転じた祥瓊は、それを聞く月渓の不思議な笑いを見た。
「私は目を伏せていたので黒い妖魔は見ていないのですが、誰かはわからない娘に助けてもらったようでした。ただ・・・今になって思うと怪我をしていたような気がするのですが」
祥瓊の言葉に驚き、女がひとりであんなところにいたとは?と口々に話す人々の中で、それを険しい顔で聞いていた月渓はすぐに傍らの官に囁くと、もっともらしい言い訳で突然話を打ち切らせた。
「慶の使者は遠路妖魔と戦いながらのお越しゆえ一刻も早く御休息をお取り頂くようにとの思し召しです。とりわけ女史におかれましては妖魔に襲われたと伺った上はお怪我などないことを確かめていただくことが先決かと存じます」
いささか唐突ではあったが、一行はたしかに疲れており、また妖魔に襲われた祥瓊を口実にされては、とりあえず下がらせて頂こうと納得した。
一刻も早く下がるため、使ったことのない御簾を下げさせると、月渓は衣の裾を蹴るようにして部屋に戻った。