月渓は部屋へ急ぎ戻ったがそこには誰もいなかった。
しかし何か物音か気配を感じ湯殿を覗くと、石張りの床に妖魔がいた。その身体はいつもの球体を取れないようで、溶けかけた氷のように崩れ、さらに床にはどろりとした緑色の液体が溜まり、あたりは生臭い刺激臭に満ちていた。
目はその姿から離すことなく手早く重ねた衣類を脱ぎ捨てて衫だけになり、近寄ろうとしたが、体液で滑りそうになった。裾と袖をまくり上げながらなんとか近づくと片方に大きな傷が見え、どんな牙や爪が裂いたのか、ざっくりと口を開けた傷は癒えるどころか今もなお緑色の血を流し続けていた。

妖魔は近づいた月渓に気づいたのか揺らいで人型をとろうとしたが、それも一瞬で力尽きたようでまたすぐ黒い塊に戻った。そしてそのため一層形を崩し、触手も力を失い垂れ下がった。

その様子に、以前意識のはっきりしない妖魔に触れた時に起きたことも忘れて近づき、どこが頭とも背ともわからぬまま両の手を添えた。それに気づいた触手がびくりと動いたが、以前のように彼を捕らえようとはせず、ただ数本の触手が苦痛を訴えるように月渓の手にすり寄った。月渓もそれを避けようとはせず、指を絡めて撫でてやった。さらにしゃがみ込んで改めて傷口の様子を見ると、不規則に裂けた傷は深いようだが大量の血のため奥は見えなかった。

立ち上がると、堂室の外に立つ歩哨に姿を見られぬように、扉の影からいくつかの指示を与えた。
頼んだ品が届くのを待っていると意外な人物が現れた。
それは部屋で休んでいるはずの祥瓊で、その両手に余るほどの布や治療の道具を抱えていた。そしてそのまますぐに堂内に入ろうとする彼女を止めるのは至難の業であった。

扉越しに丁寧に断り、届いたものだけを受け取ろうとする月渓に治療が必要と思い込んだ祥瓊は、がんとしてそれを渡そうとはしなかった。先ほどの従順さはやはりその場限りのものかと思うほどに、言い出したら聞かないところは以前の祥瓊を思い出させたが、その心根が以前とは全く違うとわかるだけに断りに手間取った。

苛立った祥瓊は護衛の兵を声が聞こえぬところまで下がらせた。

「もし貴方様がご無事と分かればすぐに引き下がりますのでそのお姿をお見せ下さい。またもし誰かを庇っていらっしゃるなら、よそ者の自分ほど適任はいないではございませんか」

至極もっともな事であり、それよりここで言い争っている間に流れる妖魔の血の量を思えば躊躇は出来なかった。
一言見苦しい姿をしていることと、こちらでどんなものを見ても決して叫ばぬ事に了解をとると扉の隙間を大きくして彼女を招き入れた。

入ってきた祥瓊はさすがに月渓の姿とその悪臭に驚いたようだったが約束通り何も言わなかった。そして奥へ通されると茫然とした。

「月渓・・・・これは・・・・」

「妖魔です。先ほど貴女を救ったのはこれです。危険なものではありませんが、治療中は保証できませんので戸口まで下がっていて下さい」

「何か手伝えることはないの?」

「では誰も入ってこないように見張っていて下さい。これがここに居ることは誰も知りませんので」

それに頷く祥瓊の腕から運ばれてきたものを引き取り、妖魔のそばへと戻った。
屈み込むとどこが耳かは分からないので、適当なところに向かって声をかけた。

「今から傷を針で縫う。血を止めるにはそれしかないのだ。かなり痛いが我慢できるか?」

すでに力無く床に拡がる塊となっていた妖魔の一部がゆらりと蠢いた。これに針をつき刺せば怒り狂って襲うかもしれなかったが、その反応を了解と思うことにして用意した騎獣の治療用の針を手に持った。
外殻の層はあまりに堅くて針が刺さりそうにもなく、ギザギザに裂けた断面の柔らかそうな層を選ぶと思い切って針先を立てた。妖魔はその瞬間びくりと動いたがそのまま耐えているようで、それを見届けた月渓は静かに励ましの言葉を呟きながらそのまま縫い続けた。数カ所しか縫えず、堅い糸を強く引いて閉じた傷口からはなおも緑の液が漏れたが、しばらく経つとなんとかそれも止まった。

ほっと緊張を解いた月渓はその場にしゃがみ込んでしまった。すでに緑の液体で全身がどろどろになっており、いまさら床に座ってもそれ以上汚くはなりようがない有様で、最初気になった臭いすらすでに感じなくなっていた。

それでもこのままこうしている訳にも行かず、 一息つくとゆっくりと立ち上がり、泉に顔を突き出して冷たい水で顔と手を洗った。そして自分の姿を見下ろすと、血で重く身体に貼り付いた残りの衣も脱ぎ捨て、全身にも冷たい泉の水を浴びた。
なんとかさっぱりして手桶を戻しかけたが、再びきれいな水を汲むと、妖魔のところへ戻って傷口を避けて少しずつかけてやった。何度も繰り返すうちにどろどろだった触手もかなりきれいになり、流れた水であたりの床の汚れもなんとか落ちたが、どろりとはいつくばった姿はそのままであった。

隣室で待つ祥瓊や、慶からの使者のもとへ戻らなくてはと思いながらもその場を去りがたく、黒い姿の端の方に軽くもたれるように座り、ゆっくりと何度も繰り返して、触手に包まれた何の反応も見せない身体を撫でてやった。

温泉の方から流れ込んでくる暖かさで裸でも寒くはなかったが、寄り添った妖魔の身体の常にない冷たさが心配だった。
そこでさらに両腕をいっぱいに伸ばして触手の下に差し入れた。表面のずるりとしたその感触は以前喰われかけた時の事を思い出させたが、構わず熱を失いつつあるそこへ触手をかき分けて自分の全身を滑り込ませると、覆い被さり暖めてやろうとした。その動きに力を失っていた触手が僅かに持ち上がり、月渓のその身体を抱きしめるように包んだ。



物音のしなくなった隣室の様子を窺いに来た祥瓊が見たものは、黒い妖魔のひしゃげた姿に触手に包まれて覆い被さった白く浮かび上がる月渓の姿であった。

彼女が覚えている月渓は、高位の文官にはいささか俊敏すぎる立ち居振る舞いに思えたが、すらりとした長身をいつも趣味の良い隙のない身なりで包んだ男であった。
そしてさまざまな事に目覚め、しかしそれを自分ではどうすることも出来ず、ただ苛立つばかりの年頃であった彼女の目には、彼は悩みや過ちなどとは無縁の完璧な大人に見えた。
しかしその後の長い公主生活は彼女から人を見る力を奪い、あげく最後に見た時の彼女の憎しみに満ちた目では、その服装の贅沢さと態度の傲慢さしか見て取る事が出来なかったのだった。

その事をその後長く悔やみ反省して来たのだが、いくら彼を分かっていなかったとはいえ、裸で妖魔に寄り添う姿を見るなどとは思いもよらぬ事であった。

それにしても、どういうわけでこの男が妖魔の世話をすることになったのかは想像もつかなかったが、先ほどの王座で気を張りつめた様子とこの無防備に横たわる姿はあまりに違いすぎた。
そして今のこの様子には他者の入り込めない何かがあり、そのためこれを見ているのは秘めやかなものをのぞき見しているようにも思えて、祥瓊はまたそっと隣室の見張りに戻った。