泉の水音だけが聞こえる中、月渓はうつらうつらしながら妖魔に押しつけた自分の胸の鼓動だけを感じていたが、ふとそれとは違う響きを聞いたように思った。それは彼の腕の中から聞こえたようで、月渓のそれよりずっとゆっくりと弱々しく微かであったがたしかに聞こえた。
思わず微笑むと、そのぬるりとした表面をまたやさしく撫でてから身を離そうとしたが、彼を包んだ無数の小さな手が弱々しくいやとでも言いたげにそれを止めた。
やむを得ずそのまままた抱いていたが、だんだん身体が冷えて寒くなってきた。思わずぶるっと身震いすると、気づいた手は慌てたように引っ込み彼を放した。

月渓がするりと身を離すと、ひとつ置いて妖魔もひくりと動き、やがて彼の目の前で盛り上がりいつもの形を取り始めた。まだ少しいびつであるがこんもりとした形に戻ると、今度はふるっと震えて人型をとりはじめた。元の姿も醜いとはもはや思わないが、身体の具合がそれではよくわからないので、娘の姿を見るとほっとした。

まだ立ち上がれないらしくすぐに屈み込んでしまったので、あわてて抱き上げると、その脇腹に見えるむごたらしい傷には月渓が縫った後が残って痛々しかったが、なんとかふさがっているようで安堵した。

そして白い肌にまだ残る緑色の汚れに気づくと泉へ運び、もう一度ゆっくりと肌に手を滑らせて拭った。その間、妖魔は月渓のその動きを閉じそうになる瞼の陰から見つめ、黙って彼の腕に身を委ねていた。

清め終わった後も抱きかかえたままじっと見下ろしていたが、ふと気配に顔を上げると祥瓊が立っていた。
祥瓊は一言断って入ってくると、無言で月渓の肩に薄物を羽織らせ、さらに乾いた布を差し出してそれで娘の身をくるむのを手伝ってくれた。
そして妖魔を臥牀まで運ぶと、また祥瓊に手伝ってもらって再び眠り込んだ妖魔の脇腹に布を巻き被衫を着せた。
そのまま湿ったままの髪を顔のまわりに拡がらせて昏々と眠る姿を見下ろしていたが、自分が小衫を羽織っているだけの姿であり、それどころかその前はどんな姿であったかということにやっと思い至り、どもりながら祥瓊に詫びると慌てて自分の身支度に戻った。

湯殿の前には先ほど脱ぎ捨てたはずのものが見あたらず、見まわすと傍らの卓子にきちんと畳まれ、さらにどこから見つけたのか着替えまで準備されているのに気づき目を見張った。

生乾きの髪を緩く首元で結わえただけの月渓が着替えを済ませて戻ると、祥瓊が妖魔のそばに立っていた。

「危険はありませんが、意識がないと寝ぼけてとんでもないことをしますので、少し離れて下さい」

その声に振り向いた祥瓊は素直に一歩下がった。

「先ほどは本当に失礼いたしました。よもやあのような姿をお見せするとは」

祥瓊とて男の裸体など直視できるものではなかったが、なぜか妖魔といる月渓の姿には羞恥を感じることはなく、むしろどこか儚いまでのまぶしさを感じていた。

「怪我人が出たようだったので準備を手伝ったのですが、運んできただけで何の役にも立たなくて」

静かに微笑みながら言う元公主に嘗ての高慢な小娘の姿はなく、以前慶の禁軍将軍が伝えた姿を思い出させた。なによりも先ほどの畳まれた衣類が彼女の年月と今を雄弁に語っていた。

「怪我人の世話などなさるのですか?」

「地方の乱に関わったのがご縁で女王に召し抱えて頂きました。その時何度も怪我人の世話をしました。なにしろ禁軍と州軍を相手の乱でしたので、怪我人だらけで。その後も生傷の絶えない主上のお世話をしておりますので、すっかり手慣れてしまって」

乱のことは将軍から聞いていたが、他国の内乱など他国との交流も絶えた月渓には事情が分からず、禁軍相手と聞いてあきれた。

「では王に逆らったのですか?」
「いいえ、女王は私どもに混じって剣を振るっていらっしゃいました」
何と言うこともなかったように楽しげに笑って言う姿にまた驚かされた。

長い時間を経て再会した嘗て敵であったはずの二人が、眠っている妖魔の枕元でその体調を気遣いながら、すでに終わった他国の乱の話をのんびり交わしている、しかも一方は一命を危うくしながらここへたどり着いたばかり、片方は一国の首長でありながら先ほどまで素っ裸で妖魔の世話をしていたなどというあまりの異常さが、二人の間にあった溝を一気に埋めたようであった。なによりこの短い時間に見た互いの姿は、どんな言葉よりも理解を深め合うものであった。

「ところで、この妖魔はあなたのご友人ですの?」

苦笑いをしながら月渓は妖魔を見やった。

「ここでは誰も妖魔とは知らず私の愛妾と思われています」

「まあ」

「実のところ、王も公主もいらっしゃらない王宮の殺風景さに飽いた臣下に泣きつかれたのです。私が着飾った娘を見せびらかし、くだらぬ噂話のひとつふたつを提供する事がなによりの士気向上になるとかで。
面白味のない長は多少の失政より罪らしいです」

「でもおとなしく着飾ってくれるだけ妖魔の方が慶王よりよほど素直ですわ」

理由に呆れながらも祥瓊は、同じようなことを自分の女王に言い続けている毎日を話した。

「それにしてもどういうきっかけで妖魔が王宮に?それになぜ寵姫役を?
月渓殿になら、普通の娘にいくらでもなり手はいたと思いますが」

嘗てと変わらず美しい、しかし簡素に結われた群青の髪を傾げて問いかけるその顔は、心底月渓の事を案じているようであった。

「これは私を喰う機会を逃さぬために私を見張っているのです。
それまではする事もなさそうなのでこの役を頼んだのですが、思ったよりも良く勤めてくれています。
他の妖魔に襲われたときも助けてくれましたので、こんなよい愛妾を持つ王はちょっといないでしょうね」

祥瓊はあっけにとられたが、月渓はなぜか楽しげに淡々と話した。
独りで慶で新しい人生を切り開き、さらにこうして他人を心に掛ける事の出来るようになった祥瓊に向かって、あなたの両親を手に掛けた私が普通の娘を侍らす事など出来ないからとは、今更聞かせたくなかった。

「喰われかけた時、国が気になり命乞いをしたのです。私がこの国にいらなくなった時に喰われるからという約束で。そこで王宮に付いてくるために人型をとったのです」

あまりの話に言葉もない祥瓊に、月渓は少し微笑んだ。

「先ほどお姿を見たとき、私も、そしておそらく他の幾人かも妙な顔をしたのではと思うのですが。実は妖魔が人の形をとる時に私の心を読んで貴女様の姿を拝借したのです。あとで髪の色目の色は変えさせましたが。
ですから皆も私も見慣れたこの妖魔の姿と同じお姿を拝見できると思い込んでおりましたので驚いたのです。いつの間にかこれが形を変えていたとは知らず」

祥瓊は臥牀で眠り込んでいる妖魔を見た。
たしかに同じ年頃に見えるが、汚れて色も分からなかった髪は今見ると珊瑚のような真赭色だった。そしてふっくらした頬とぱっちりした目の祥瓊よりも細面だし、今は閉じているがその目は涼やかに引かれていたはず、しかも引き締まったその体つきもあまり似ていなかった。
これを自分とそっくりと皆が思いこんでいたとは信じられず、いかに自分がここでは過去の存在となっていたかを思い知らされた。

それに比べこの妖魔はその本性がどうであれ、王宮の人々の心を和ませ、月渓の心と命を守っているようであった。
月渓とはどの程度の関係かは知らぬが、先ほど見た二人の様子から、すでに互いがかけがえのない間柄であることは確かであり、それが月渓にとってどれほど大事なことかは王宮の頂点に立つ者の孤独を知る祥瓊にはよくわかった。

―――私がここですべきであった事、そして今慶でしようとしている事をこの妖魔はちゃんと果たしている。

「ここへは二度と戻ることはないと思っておりました。それでもそうなった時の事を密かに想像した事はありました。
貴方がどのように迎えて下さるか、そして私がどの様な思いをするか。そして芳はどのようになっているだろうかと。
長い間に有りとあらゆる成り行きを想像しましたので、もうそれ以上の事などありえないと思っておりました。
でも今日一日にあったことはそのどれとも違って」

「……私もよもやご一緒に妖魔の看病をするとは思ってもおりませんでした」

暖かく祥瓊を見つめた月渓は、眠る妖魔の襟元を整えながら、祥瓊のどんな想像よりも穏やかに優しげに笑って見せた。


―――公主、あなたはもうこの国に何の咎も感じることなく堂々と生きてゆけるのです。運んでくださったものは多くの民の命を救い、その心を伝えるでしょう。まだ償いを残しているのは私の方なのです。