妖魔の傷の治りは順調だったようで、あれから数日たった頃、祥瓊と月渓が両国の官と話しているところへ茶を運ぶ女官を伴って現れた。
月渓はその姿を見ると小さく微笑んで手招き、初めて会う慶の客に引き合わせた。

妖魔はずいぶん着ることにも慣れたようで、鴇色を重ねた牡丹の刺繍の入った襦裙は年若い娘らしいすがたで部屋を明るくしたが、少々ぎこちない笑顔で言葉少なく挨拶をした。むろん命の恩人の妖魔とは知らない慶の一行ではあるが、美しい王の寵姫に会えたことを素直に喜び、そのもてなしを感謝した。

客のもてなしや茶の用意は無理とは分かっても、祥瓊の目にはよくこれで寵姫役が務まると思うほど愛想がなかったが、それでもなぜか茶の香りと同じ程にはその場の雰囲気を和ませ ていた。
どうやらその理由は月渓にあるようだった。

挨拶が済むと部屋の隅に下がろうとした娘を傍らに引き留めた月渓の口元の微笑みはそのまま消えずに残り、ゆったりと椅子に掛け直しその背後に座った彼女を振り返ってなにやら言葉をかける姿は、誰が見ても愛妾を侍らせる王であった。
そうなると不思議とまわりも目に見えてくつろぐ様子を見せ、長時間に渡る会合に疲れて言葉少なくなっていた者も、また活発に意見を交わすようになった。

女官も慣れぬ女主人を庇おうとするのかてきぱきと働き、茶の用意が出来ると、その間ただ見ていただけの彼女の方を、さもその采配で行ったかのように了解を求めて見やった。そしてそれに少々強張った笑顔でうなづかれると、誇らしげに盆を 抱えて下がった。


少し休憩をということになり、祥瓊は妖魔を誘って露台へ行った。

「お礼を言いたかったのですが、そう何度も月渓殿の私室へうかがうわけにもゆかず。本当にありがとうございました。助けて頂かなければ、たぶんあのまま死んでいたでしょう」

相手の正体を明かすことになるので、うかつな事は出来ず、礼が遅くなったことを詫びた。

「どういたしまして」

見かけと同じぶっきらぼうな返事が返って来た。それを聞いて思わずくすりと笑った祥瓊をいぶかしげな目が見た。

「ご存じかしら、昔の王宮では恵州侯といえば皆のあこがれで、おそばに近づこうと娘はみんな競っていましたのよ。
私の母は美しく着飾るのが大好きな人でしたが、その母も月渓殿が王宮にいらっしゃる時はいつもより念入りに着飾っておりましたの。気を引くつもりはなくても、恵侯がいらっしゃるとまわりが皆派手になってしまうので負けまいとしたのでしょうね」

「そんな男とは知らなかった」

思いがけない話に女らしい言葉を作ることを忘れた。

「だから女っ気のなくなった月渓殿に皆ががっかりしたのは分かるような気がして。あなたがそばにいてくださって本当に良かったわ」

「私の正体を知ってそう言うのか」

「そうねえ、もちろん出来れば人間だったらとは思うのですが。
ところでなぜ形をおかえになったの?私の姿はお気に召さなかったのかしら?
結構自信があったので、ちょっとがっかりしたわ」
冗談めかして訊ねてみた。

「まねたのはもっと日に焼けて痩せこけていたし、表面はあちこちざらざらでごわごわで汚れていたが」

「……それって、えーっ、月渓の記憶の私はあのぼろぼろの時の事だけだったの?ひどいわ。あんまりだわ」

何か悪いことを言ったかと思った妖魔は珍しく取りなすべきかと考えた。

「しかし、衣の下は日に焼けていなかったし柔らかだったが」

「下……、下って何、もしかして身体のこと?」

「ああ、記憶は正しかったようだな。身体は同じに戻した方がよいだろうか」

どうして月渓の記憶に私の裸まであるのかと怒りまくって、籾を全部持ち帰ってやると息巻いている祥瓊を見て妖魔は当惑した。

「いや、おまえの形が気に入らなかったのではなく、むしろ月渓が気に入っているらしいので変えたのだが」

祥瓊は月渓に毒づくのをやめて妖魔の話に耳を傾けた。

「私があいつを……つまり喰おうとした時、心に浮かんだのはお前の姿で、しきりに謝っていた。それからお前からの手紙を大事にまだ持っていて見せてくれたが、その様子は本当に懐かしそうだった」

手紙?と祥瓊は呟いた。あの手紙だろうか。

「まあ、そんな相手と同じ顔をしているのもなんなので、少しずつ気づかれないように変えていったのだが」

祥瓊はまじまじと妖魔を見た。もしかして……これは……使えるっ。

「ねええ、ちょっと聞きたいのだけど、月渓って……恋人としてはどおお?」

尋ねられた妖魔はきょとんとしていた。

「だってね、国中の娘がみんな(力を込めて)恋人にしたがった男なのよ。私は子供だったから相手にしてもらうのは無理と分かっていたけど、話がね……聞こえてくるのよ……」

意味ありげに潜めた声に思わず妖魔は顔を寄せて聞き耳をたてた。

「彼が州侯になった時は王宮中の妻や恋人のいる男がほっとしたらしいわ。
そしてたまにこちらへ来るときは、皆、女をなんとか遠くへ遊びに行かそうと必死になったのよ。だって、彼が歩くとすれ違った女でそれなりの女はみんなそのあと暫く姿が消えるの。おかげで王宮中、自分の女を捜しまくる男だらけ」

完全に若い娘同士の内緒話の世界であるが、話し手は王宮で育った耳年増であり、無垢な黄海育ちに(?)うそまことを取り混ぜた話を聞かせるのなどはお手のものであった。

「 とにかくすれ違った時にちらりと見つめられただけで、理性だの貞淑だのといったものは飛んでしまって、いつのまにか彼の腕の中らしいわ」

毎日夜明け前には月渓の腕の中にいる妖魔は、まあ居心地は悪くないがと聞いていた。それなら私は月渓と恋人しているのだろうか?で、恋人って何なんだ?

「で、消えていた間に何があったかというと……」

祥瓊の話の中で月渓は前代未聞の芳国一の女たらしとなった。なにしろ退屈した十三歳の好奇心が集めた三十年分の王宮での色事話の集大成である。

「やっと男が恋人を見つけたら、そこは……というような事もあったらしいわ」

月渓は人間は床ではなく臥牀で横になるものだと言って、私を狭っ苦しいところに押し込めたが、自分はどこででも横になるらしい。

「でね、その次の娘の話によると……、これが……もうっすごいのよ」

おまけに人を口にしてはいけないと言ったが……身体の場所によってはいいのだろうか? いや月渓が口にしない場所などないようだが?そんなところ……美味かっただろうか?好みのわかりにくい男だ。

「……その間中彼のいったい何本あるのか分からない手が、彼女の……」

触手があったのか?

「だから、月渓がまた女性に興味を持ったとなれば、狙う女性は多くて大変だろうなって同情しているのよ」

祥瓊のささやいた月渓の華麗な女性遍歴と駆使した技の数々は、妖魔には結局ほとんど理解不能であったが、自分が妖魔であることを忘れて、彼が他の女には自分に対してとは違う態度をとるとは一応分かり、さらにだれかが月渓と自分の間に割って入って来るかもしれないということも分かった。
そうなれば自分は黄海に帰ればいいだけなのだが。

なんとなくひっかかるものがあるような顔をした妖魔を見て、祥瓊は満足した。
とにかく月渓に餌となるより値打ちがあることを分かってもらえればいいのだから。
国のためという理由は妖魔には通じないのだから、彼の個人としての魅力をふんだんに聞かせて、彼の事を愛する者がたくさんいる事を知れば、先日見た親密さから考えて彼を食べるのをやめてくれるかもしれないと思ったのである。

妖魔によりによって自分の一番思い出したくない姿や衣の下まで使わせたのには、一言以上言いたいことがあるけど、そんなことよりも月渓がちゃんと生きていてくれることの方が大事だもの、と殊勝に考えたのである。

この先もお父様の事を悔やみながら、沈んでゆく芳を支えることを思えば、月渓にとっては今死んだ方がもしかしたら楽かもしれない。私もずっと同じ事を思って彼を恨み続けた時があったから。

でも彼には生きてもう一度幸せになって欲しい。
彼のお陰で私が今幸せだから。
それに彼は幸せになるに相応しい人だから。

そして、祥瓊は意気揚々と帰国した。



祥瓊のその置きみやげは籾より早く妖魔の中で芽吹いた。

―――それにしても床だの茂みだので……月渓は何をしていたのだ?
……ああ、交尾したかったのか。