妖魔が回廊の向こうに月渓を見かけたと思うと、どこからか現れた女官が彼にすり寄った。 おそらく柱の影にでも潜んで待ちかまえていたのだろう。
内殿とはいえいつ誰が通るかもわからぬところで、細い首を傾げて片方の肩を月渓の胸元に保たせかけるようにしてしなだれて何やら話しかけている姿は、からみついた蔓のようで、からみつかれた樹ならぬ月渓を締め上げて回廊に押し倒しそうであった。
それをはね除けもせず笑顔で相手をしている月渓の姿に、ひどく不機嫌な気持ちになった妖魔はくるりと向きを変えると部屋へ戻った。
それから間もなく今度は執務中のところへ行くと、別の女官が慌てて身を起こして書卓に座る月渓のそばから離れた。妖魔に挨拶をして出ていったその女官の高ぶった声と紅潮した顔がなぜか気に障った。
覗いてまわっているつもりはなく、暇だし知り合いは月渓しかいないからと心で言い訳しながら、つい月渓のいるところを覗いてしまう。
覗けば覗くほどたしかに月渓のそばに必要以上にくっついている女を見ることも増えた。
また王宮では皆が様々な臭いをつけていたが、嗅覚の鋭い妖魔は通りすがりの見知らぬ女から月渓の臭いを感じて振り返る事もあった。
その上月渓の衣からはいろいろな臭いがした。いずれも男が使わない臭いばかりで、場所は胸元が多かったが背中や袖も多かったが、上を脱いだその下や内側に臭いが付いていることもあった。
一方で、月渓も望んで女を近づけているわけでもなかった。
元々王宮で働く者の半分近くは女で、当然その中には月渓に懸想するものも少なくはなかった。小庸が予言したように女人との付き合いを断ったかのように見えた頃は諦めていた者も、妖魔の手をとる月渓を見て新たな機会が到来したと思ったのも無理はなかった。
月渓にとってはいずれも不安定な仮朝の大切な協力者であり、少々強気な押し掛けに困ることがあっても無下にはあしらえずにいた。
正直言って王としての責務の厳しさと困難な現状から目を背け、一時でもそれを忘れられるなら誘いに乗ってひととき溺れて過ごそうかとも思うこともなくはなかったが、なぜかどの女を見ても、では、という踏ん切りがつかなかった。
首ににくねくねと絡みつくしなやかな手をさりげなくやり過ごしながら、いよいよ自分は王としてだけでなく男としても駄目になってきたのかとため息をついた。
ある夜月渓は食事に出かけようとする妖魔に声をかけた。
「おまえの部屋を用意しようと思うのだが」
いったい何をと妖魔は振り返った。
「いつ正体がばれるかと心配で私のそばから離せなかったが、ここの暮らしにもすっかり慣れたのでもう大丈夫だろう。
奥の部屋の方が広く昼間の見晴らしも良いし、人目もないので夜の出入りもしやすいだろう。こんな有様なので大した用意は出来ないが、本当によく勤めてくれていることへのささやかな感謝の気持ちだ」
広いのが好きなら黄海へ戻ればいいこと、と妖魔は思った。そして祥瓊の言葉を思い出した。
「では誰かがここでお前と寝るのか?」
月渓はそこまで考えて決めた話ではなかった上、妖魔がそんなことを言うとは思わなかったので思わずその時思ったままを正直に答えてしまった。
「いや、まあそういう事もあるかもしれないが」
「私ではいけないのか?」
これで妖魔が寝るという意味を分かっていない事がわかったと思い、自分の失言が救われたと安堵した月渓はあっさりと答えた。
「いけなくはないが。人間と住むのは大変だろう」
「では私と寝ないか?」
「今までも一緒に寝ているが?」
「そういう意味ではなく、つがってみないかと聞いているのだ」
「つ、つがう?」
「そうだ」
ふわりと月渓の前に立つと、そのまま臥牀に押し倒した。
妖魔に臥牀に張り付かされたまま、とんでもないことになったと動揺した月渓だったが、相手がそのまま動かずに考え込んでいるのに気づいた。
この後はどうするのだろう。祥瓊は押し倒すと言ったが、その次どうするのかは言っていなかったと妖魔は今になって気づいた。もっと後の方はたくさん聞かされたのだが。
とりあえず理解できそうだった事を思い浮かべてみると、月渓が逞しいと女たちが言っていたとか。しかし着ていては逞しいかどうかわからない。まずは見てみようかと考えた。
絹の帯は引っ張るとするりと解けた。それに慌てて衾の上でずり上がろうとした身体を腰で押さえつけ、両手を襟に添えてがばと白い被衫を開いてみると、北国の男らしい白い肌に包まれた広い胸が現れた。いつもたくさん着込んでいるので中身より大きく見えていると思っていたが、むしろ衣をとった方がより大きく感じる
。
逃げそびれた月渓は自分の身体の上を視線が走るのを感じていたが、薄暗い臥室の明かりは帷越しのため牀榻では一層柔らかく微かな光となり、これではこちらの姿はほとんど見えないはずと一応安堵した。
たしかに妖魔の目でなければ、夜の帷の中でその肌が色が薄くて昼間でも気づかないほどの柔らかな毛で覆われているのまでは見えなかっただろう。見ているうちに触れてみたくなった妖魔が手を広げて滑らせてみると、どんな獣の表皮より柔らかな手触りで、それに驚いてびくりと動いたそこの動きも掌に気持ちのよい刺激となった。
そのまましばらく気持ちよくあちこち撫でてそれを楽しんでいたが、さらに肩にまで手を動かすと、そこは表面はすべすべとしながらもその下はごつごつした骨と堅い筋肉で出来ているようで、その筋肉はまだ袖が
からまったままの長い腕に繋がっていた。これが逞しいというものなのだろうかと力強く張ったその筋にそってさらに手を滑らせた。
両の手を月渓の両腕に沿って肘まで滑らせると、大きくはないふくらみが一瞬ふるりと月渓の胸に触れた。触れた方は何も感じなかったが、触れられた方はまたずり上がって逃げようとした。しかし生きた物を捕らえることで
妖魔が負けようはずもなく、またふわりとのしかかられて細い腕で押さえ直された。
手触りを楽しむ邪魔された妖魔は、次は腰で押さえつけていたのでまだ衣に包まれたままの下の方に目をやった。
あきらめの悪い何度かの抵抗の後、横からの明かりを受けて薄暗い堂内を背景に白く浮かび上がる顔が、こちらの身体に触れながら見せる表情からいつしか目を離せなくなっていた月渓だった。
今の妖魔は無表情と思い込んでいたのが嘘のように表情豊かで、考え込んで細い眉をすこししかめて思案している様子や、濃い睫に縁取られた涼やかな目が少し困ったように月渓を見たり、手触りにうっとりしている様子は巧まない愛らしさを見せていた。
そして先ほど下の方に伸びた手に気づいて、さすがにそれは止めようと思わず掴んだ両の腕はしなやかでその手触りはしっとりとなめらかであった。それは毎夜うつつのままに触れているものだったが、今までそれをこのように意識したことはなく、おかげでもたれかかっている身体の程良い重さと、自分の肌の上を彷徨う手の感触につい何か感じてしまいそうになるのと必死で戦っていた。
それは決して相手が妖魔であるから拒否しているのではなかった。
その姿の美しさがあやかしによる幻と解っていても、今の月渓にとってはそれは内なる姿に相応しいものであり、現実の人間と同じく真実の姿であった。
むしろ童女のようなその無心な表情が気になり、こちらから進むことをためらったのである。
下の衣に伸ばした手を止められた時にこちらを見返した顔は、まるで目の前の菓子を手にとってはいけないのかとでも言いたげで、そんな顔をされると自分が分かつべき物を惜しんでいるような錯覚すら覚えた。
他の女の誘いや求めなら適当にあしらい、あるいはそれに乗ったかもしれない。しかしこれはいつもの妖魔の人の世界への好奇心によるもので、その先に何があるかまではわかっていないのではないかと、妖魔の知性や能力と釣り合わぬ幼さを知るだけに思ったのである。
自分の上ですっかりくつろいでいる今なら、はね除けようとして出来ないことはなさそうだった。
しかしそれどころかその楽しげな顔を壊すのが忍びがたくなり、子供に多すぎる菓子を与えて笑顔を引き出そうとする愚かな大人のように、なんであれ自分の持つものを差し出さずにはいられなくなりそうだった。
今度は彼の髪を掬い上げてそこに鼻を埋めているのを見ながら、月渓は幼い好奇心だけの事ならいっそ気が済むまで満たせばよいと、その対象が他の男ではなかったことを喜んでいる自分はどこかおかしいのだろうかと思いつつ、この不思議な存在に身を任せることにした。
さきほど止められてがっかりした様子を見せたが、月渓に逆らうことなく余所で遊んでいた小さな手をとると、自分の衣まで導いた。合わせたままの眼がいいのかと問うのに是とうなずき、その指が絹を掴んだのを確かめると手を放した。やがて熱いその身体が空気に曝された時、一瞬肌が緊張したのは単に少し冷えてきた堂内の温度のためだけだった。
いつしか月渓の身で白絹に覆われているのは片方の手の先、数本の指先だけになっていた。