月渓の捨て身のそんな想いも知らず、妖魔もまた不思議な感情に戸惑っていた。

外見など好きに作れる妖魔にとって美醜など論外であり、また争ったり捕らえたりする時でもなければ他者に触れることなどなかった。
そのためこうしてゆっくりと時間をかけて、生きているものの形を見たり触れるのなど初めてであったが、愛撫とも呼べない稚拙な触れ方で月渓の身に触れるうちに、食欲とは違う不思議な感情がこみ上げてきた。

その感情に戸惑ったまま、目の前の大きく力強い身体に触れ続け、さらにはそっと裏返してその広い背を眺めたりもたれたりして味わった。
そして再び広い胸元に戻ってみると、そこで月渓の目を見つめながらゆっくりと手を滑らせる事が、一番胸のどこか深いところで気持ちがよくなる事に気づいた。
互いに大切に思う相手に触れることから生まれる喜びを、月渓の身で妖魔は知ろうとしていた。


繰り返し繰り返し止まることのない指先の羽のような動きだけでも月渓に超人的な自制心を強いたが、やがて垂れ下がる髪が彼の肌をなぞり、近づいてくる息づかいが彼の産毛までを揺らした。
そして月渓の目がくっと細められると、その度妖魔は痛みでも与えたかとすぐに手を放し、胸元にすり寄り許しを請うように見上げた。

やがてさすがの月渓も自分を押さえる事に自信が持てなくなった頃、妖魔が力を抜いてむくりと起きあがった。

祥瓊の話と違い月渓が何もしてくれないのでは、この先がどうにもならなかった。野にいれば獣の交尾などいくらでも目にしていたが、何もしてくれない相手、しかも先ほどまで自分から逃げようとしていた相手にあのような事をこちらからしかけるのはいやだった。
逃げる獲物を捕らえて喰うことは出来ても、なぜかそれは出来なかった。

もともとただ他の女に月渓を取られると想像するのが辛くて始めたこと。
いっそこのままここでこの男を喰ってしまえば、他の女に触れるのも触れられるのも見なくて済むのにとも思った。

自分の中にある思いにも行動にも説明が付けられないことに苛立ちながら、所詮自分が人間でない以上、月渓が何かしてくれると期待するのは無理なことと諦めるしかなかった。

「すまぬ。やはり私は余所へ行った方がいいらしいな。部屋を頼む」

臥牀に倒れたままの姿で妖魔が元の姿になって出かけるのを見送った月渓は、恐る恐る起きあがった。
「ひさしぶりに喰われかけたか」

そして窓辺に行くと、真っ暗な外を見上げて溜息をついた。
「というより、妖魔ですら喰ってくれなくなったのか」

そしてもう一度溜息をつくと、被衫を拾い上げて纏い、なにやら妙に広く感じる衾褥の間に潜り込んだが、満足するかと思っていた妖魔の先ほど出かける前の少し寂しげな表情が気にかかった。なぜか、とつい考えてしまい眠れなかった。


やがて夜半も過ぎた頃、ひとつの考えが半分眠りかけた月渓の脳裏を横切り再び眠りを妨げた。




獲物には何度も逃げられ、しかしどのみち食欲もないため早々と戻ってきた妖魔が久しぶりに臥牀の反対側にまわろうとすると、手が伸びて腕を掴まれた。

「どうした、こちらに来ないのか?」

「あ、いや、邪魔になるだろう。あちらで寝る」

「かまわぬ」

そう言うと半身を起こして、突っ立ったままの白い華奢な腰に手をまわし、まだ硬さのある胸元に横顔を押し付けた。

「私の時間も身体もすべてこの国と民の物だ。
しかし今この時間、どちらも私を必要とはしていない。
まだ喰われてはこまるが、まあ味見くらいなら構わないと思うのだが」

そう言うと静かにその身体を引き寄せた。

一瞬引き寄せられることに抵抗しようとした妖魔だったが、月渓の目を見た時その力を失った。野生の世界では眼を合わせることは、力に勝る者がどちらかで瞬時に勝負がつく。今の妖魔に月渓に勝つ力はなかった。


月渓がゆっくりと抱き取ると、どうしていいのかわからないという顔がこちらを見つめ、緊張ばかり感じられてこれ以上触れるのが不憫になるほどであった。

そこで大きな掌でゆっくりとその強張った頬を包み込むと、何も案じることはないという言葉を込めて微笑みかけ、人とは違うという不安は感じぬままゆっくりとその身を解し始めた。
今まで毎夜ただ抱きしめることで和ませてくれていたその身体はすでに月渓には親しいものであり、いつからかすでに気持ちの上では他に代え難い半身となっていた妖魔とさらに深く結びつこうとする事に迷いは感じなかった。
以前耳にした妖魔はすべて牡だという伝聞の真偽すらもはや意味を為さなかった。

その腕にいるのは間違いなく自分の唯一の女であり、おそらくは自分を慕ってくれているはずの無垢な乙女であった。
その美しさをいくら愛おしんでも反応のないのは寂しかったし、宵にあれほど月渓を困らせた悪戯ものの手も今は彼に触れることを恐れ躊躇うかのようにただ強く褥を握りしめていた。しかし力強い手に身を任せ、その身を辿られることにおとなしく従っていた。

見開いたまま決して閉じない目は、月渓が自分の肌の隅々までを辿るのを見つめ続けた。その白い肌はいくら見た目を人に似せても恐らく他の女のようには感じることは無理と思い、せめて目にそれを留めたかったのである。

なぜ急に彼がこのような事を始めたのかは分からなかったし、もしかしたら先ほどの自分を哀れんでかとも思った。何にも負けぬ誇り高い妖魔でありながら、たとえ哀れみであっても、またこれが最初で最後でも、先程の言葉にならぬやるせなさよりは、とそれを受け入れる覚悟をした。
 
今までも夜眠る時同じようにこの腕の中にいたが、包み込む腕は決してこのように動くことなく、ただ時々妖魔が腕の中にまだいることを確かめるように少し力を込めて抱き寄せるだけであった。
祥瓊が言った彼の腕の中がそれとは違うことがやっとわかった。

やがて妖魔は目を強く閉じ、褥を掴む手に力を込めた。
これはただつがっているだけのはず、しかしただつがうだけにこれほど何度も触れる事も言葉も必要ないはず。月渓は誰かとつがいたかっただけではなかったのか?

耳元の月渓の息と重なって祥瓊が囁いた言葉が聞こえた。
―――月渓を愛さずにいることなんて出来ないのよ。

愛などと言う言葉は知らない、しかしこの男を愛さずにはいられないという事なら分かるという気がした。

こうして月渓に抱かれた事で、人であったらとはもはや思わなかった。しかし人であれば今この気持ちをひとこと何か言葉で表せるのにと思った。自分の顔のすぐ側の耳に何か伝えたかった。


やがて月渓はその腕の中の強情っぱりな半身の耳元で囁いた。

「私の・・・味は、いかがか?」

豊かな髪に包まれた頭は腕の中でかすかに横に振られ、あわてて一度だけ縦に振られた。
月渓はふ、と笑いながら、そのあともあちこちの方向に揺れる髪に指を滑り込ませるとしなやかに反った肢体ごとまた腕に捕らえ、先ほどさんざん与えられた邪気のない拷問に惜しみなく礼を返す事にした。

宵に知り尽くしたと思っていた月渓の肉体であったが、あれは動かぬ形だけのもので今こうして妖魔を翻弄するのは彼女の全く知らないものであった。
  
そして彼の汗ばんだ肌にそっと舌を這わせた時、そこから立ち上った香りもまたそれまで知らぬもので、王宮の他の女に嫉妬する(ああ、これが嫉妬というものだったのか)必要など何もなかったことを妖魔に教えた。

彼から溢れるほど満ちるほどに与えられた事によって、妖魔は二度と相手から奪うことも強いる必要もない事を知った。
容赦なく獲物を捕らえてきたはずの手は、今は月渓と喜びを共にすることを求め、あとはただ惜しみなく差し出されたものをひたすら味わった。


そして明けるのが早い春の光が堂内に射し込み始めた頃、為されるままになっていた身が、奥の方で微かに震えたのを月渓はその身を通して捉え 、驚きに見開かれた目を唇で閉じてやった。


朝早く、いつも通りお支度に入ってきた女官達はそのままそそくさと退出した。

「やはり・・・・お昼寝のお邪魔はしない方がよろしいですわね」

若い女官がこほんと咳払いをして言うと、もう一人も同意した。年輩の女官は何も言わず、ただこれで月渓を問いつめる必要もなくなったと、ほっとして主の幸せを喜んだ。