祥瓊らが運んできた籾は、弱々しい日差しと洪水と干ばつの繰り返す中で、それでも力強く育ち、これ以上の餓えは免れることが出来るようになるかもしれないと希望を持たせた。
しかし大半の土地では、まだ以前と同じ種が使われていたので、秋の収穫に心配は尽きなかった。
「こんな寒い土地で米を作るのはもともと無理なんじゃないのか?」
痩せこけた青い穂を手にとって見回る月渓の後をついて歩きながら妖魔が言い、自分に連れ添っているうちに、いっぱしの事を言うようになったと月渓を面白がらせた。
「ああ、たしかにこの国は今までは米にはあまり頼っていなかった。米より麦が多かったし、家畜はどこの国よりも多くて、以前はこのあたりにも牛や羊がたくさん飼われていたはずだ。とりわけ芳の馬は有名だった」
「そんなものはとんと見かけないが」
「ちょっとここに来るのが遅かったようだな。妖魔が狙うのは、まずは家畜だ」
月渓は振り返ると、その言葉にぐっと苛立たしそうに顰められた妖魔の眉を指でなぞって伸ばしてやり、なだめるように説明した。
「家畜がいない本当の理由は育てる余裕がないからだ。長い冬に備えて大量の飼い葉が必要だが、今の芳には夏にそれだけの飼料は育たない。
それに米や麦を食べれば、肉の何倍もの人間を養える。ここでは肉は贅沢なのだ」
妖魔は眉に続いてこめかみと頬に沿ってすべる月渓の指から顔を背けて訊ねた。
「私が肉を食うのはいやだろう」
「うらやましいだけだが」
冗談めかして言ったが、そんな答えが妖魔の欲しいものではないと気づくと真顔になり覗き込んだ。
「人は肉でも麦でも生きて行ける。しかしお前はそうではないのだろう。
肉しか食べられない愛妾に、肉の欠片すら食わせる甲斐性がないということで、私が自分を恥じるべきで何もお前が気にすることはない。
しかもそんな私に文句も言わず、自分で狩りをして腹を満たし、そのおかげで毎日少しずつ危険な妖魔を減らしてくれている。
私はこれほどの伴侶を得ることが出来たことを毎日感謝しているのだが」
月渓は妖魔の背けた横顔に広い額を擦り付け、桜色の唇の端に自分の唇を寄せて囁いた。
「私がお前ならとっくの昔にこんな男は見捨ててどこかへ行っているぞ。私と居ていったい何の得がある」
「いたいからいるだけだ」
「そうか、それだけでもお前が欲がない良いやつだとわかるな。まあ、いつまでも・・・・私がここにいる限り居てくれ」
今振り返れば、妖魔と出会ったあの日、警護の者も連れずひとり森の中で物思いに耽っていたのは、果てしない責務と後悔の毎日からの疲れが限界に来ていた時だったとわかる。
もしかしたら妖魔に喰われなくてもそれ以上に危うい状況に陥り、あのままではいずれ国事への影響すら出たかもしれなかった。
周りの気晴らしのために愛妾を持ったと思っていたが、一番必要としていたのはやはり自分だったのだろう。
この風変わりで愛すべき者が、ただそばにいることだけで自分を支えてくれていることを何に感謝すべきなのか。天が与えたと思ってはいけないのだろうか。
そしていつになるはわからないこの毎日が終わる日のことが頭を横切る。
自分がすべての咎を受ける心づもりはあの日から出来ている。今までそれで失うものはないと思っていたが、この手の中で暖かく息づいている姿を見下ろすとその気持ちに何か加わったかもしれなかった。
―――・・・こんな身で未練など持ってしまったか。
しかし今はまだその日は来る様子はなく、月渓の国への奉仕は続いている。そしてこれが続く限り、そばにこの姿が寄り添ってくれることなしにはこの日々が乗り越え難いものである事は確かであった。
また冬が巡ってきた。
前の冬より楽になった訳ではないが、一時ほどの食糧難からはなんとか解放されそうな予兆に極北の国の冬の寒さも少し和らいで思えた。
凍り付いた湖の上で月渓は氷に穴を開け始めた。力のいる見た目よりは難しい仕事で、この国に育った月渓には初めてではないが、ずいぶん久しぶりなので少々手間取っていた。
風は穏やかな日だったが、氷上は冷えて寒さが足下から這い上がった。
なんとか開けた穴に釣り糸をたれて満足そうに座り込んだ月渓を、やはり小さな椅子に座った妖魔が眺めていた。
「何をしているのだ」
「釣りだ」
「魚か」
「ああ」
「ふーん」
特にそれ以上何を言うわけでもなく、ただ黙って座っていた。
黙って座っているだけの時間が、それでも二人の世界であった。
気が向くと質問責めにする妖魔だが、もともと無口で、釣りの横にいるにはいい相手である。
それでも黙っていてもその気配は月渓を包みこのひとときの時間、彼を安らげた。
こんな季節に大事なか弱い女主人を連れ出すと聞いた妖魔付きの女官達はこぞって月渓を非難したが、しぶしぶ妖魔を厚手の上着でぐるぐる巻にして、決して風の当たるところには立たせないと誓わせて送り出してくれた。
か弱い女主人は毎夜衣を脱ぎ捨てて出歩いているのだが、こうやってほっそりとした姿で北風の中座っているのを見ると女官達の心配も理解できた。
一方妖魔の方も、多忙な日々の続く中、なんとか作った半日の休みをこんな吹きさらしの氷の上で過ごすほどこれが楽しいものなのかと、内心呆れて一心に穴を覗き込む男を見ていた。
たしかに同じような穴の上で、ちびりちびりと酒を飲みながら日長座っている人間はたまに見かけたが、月渓にそんな暇があるとは思えなかった。
「おっ、釣れたぞ」
嬉しそうに穴から釣り上げた魚を籠に入れると寒さですぐに動かなくなった。
「この時間のここがいいと聞いたのだが、なるほどこれはなかなかだ」
厳しい冷え込みはせっかく開けたその小さな穴もすぐに氷の欠片で閉ざそうとした。それを防ぎながら、そのまま次々と釣り上げていたが、しばらくするとぱったりと釣れなくなった。
「今日はこれまでだな」
そう言うと、あたりの積もった雪で穴を埋め戻し、半分埋まったところで棒を立てると立ち上がった。
そして、さて、と言って魚を盛り上げた籠を妖魔に渡した。
「さあ、おまえのだ」
妖魔は青い木の葉を敷き詰めた上のつやつやとした魚鱗を見下ろした。
「私の?」
「ああ、うまい肉はとても食わせてやれないが、魚ならいいだろう。それは皮が少し固いのだが、身はなかなか美味い。とはいってもお前の好みがよくわからないのだが」
とんとんと足裏の氷と雪の欠片を払い、穴開けや釣りの道具を抱えて歩き始めたが、妖魔が付いて来ないのに気づいて振り向いた。
妖魔は未だ籠を抱えてそれを見おろしたまま立っていた。
「どうした?」
顔を上げた妖魔の表情は逆光でよく見えなかった。
そして何も言わず歩き始めた。
音も立てず月渓に追いついた妖魔は籠を見下ろしたまま言った。
「これは芳の魚だ」
「ああ、そうだが?」
「芳の生き物を食べてもいいのか?」
月渓ははっとして立ち止まった。そしてそれに気づいて立ち止まり振り向いた妖魔の持つ籠に手を添えた。
「これは芳の男が女のために自分で捕った魚だ。堂々と食べて欲しい」
そしてさらに近づくと、少し顔を赤らめて口ごもった。
「それに・・・何というか・・・それは下心のある贈り物だ」
何のことか分からぬ妖魔を見下ろした顔は、ひとりの若い男の顔であった。
「それを食べれば食事に出かけなくてもよいかと思って。明け方だけではなく、一度でよいから一夜お前と過ごしたいのだが」
それを聞いた少し見開いた目の縁がほのかに赤らみ、身体のどこか奥、人間なら心の臓とでもいうあたりが、抱える魚の尾のようにぴくんと跳ねた。
どうだろうかというように少し首を傾げて問う相手に黙って頷いた。
それからにっこりと、生まれて初めてにっこりと笑いかけた。
ふたりとも両手に荷物を抱えて互いに手をつなぐことも出来ないものの、寄り添いながらその互いの熱で氷上の風を忘れて歩いた。