北の州で乱が起きた。
暴動は州全体にあっという間に拡がり、このままでは隣の恵州にも飛び火しかねない有様であった。隣へ拡がれば乱の原因によっては国全体に拡がるかもしれず、月渓らはその行方を見守った。
やがて届いた報告によれば、生活苦から難民として国外に出ることも出来ない貧民が一部の不平分子に踊らされて計画もなく起きたもので、それだけにもし平定が遅れれば、鬱々と飢えて死ぬことだけを待っているような者がさらに加わり際限なく拡がる可能性があった。
このような場合近隣の州兵を送るのはその州を危険にさらす恐れがあり、禁軍を動かすことになった。むろん、禁軍はろくな武器も持たない相手を威嚇して解散させるだけの目的であったが、どちらの側にも危険な事には違いなかった。
月渓も直接出向くため、身支度をした。
「なぜおまえが行くのだ?将軍が行くのだろう」
「何も戦をするわけではない。話しを聞き説得するには私が適任だろう」
嘗て幾万もの兵を率いて王をその手で倒したと聞いていても、毎日身近にいるこの穏やかな男の姿とどうしても結びつかなかった。その手に血の跡は感じられなかった。
そして自分の事なら、妖魔には愚かと思えるほどまわりの言いなりとなり、現にこうして妖魔を寵姫として望みもしない王座についている。
しかし州からの報告を聞いていたのは妖魔が見慣れた穏やかな男ではなかった。
玉座から州の特使を見下ろし、ただの野盗と甘く見て事を悪化させたその対応を聞いた後、返された静かだが冷ややかなその声に、彼らが乱の後受ける処遇が軽いものではないことは想像が付いた。
反対にそしてそのために乱に巻き込まれた犠牲者のことを聞くとき、いや乱を起こした者に対してすら限りない憐憫を感じているようであった。
そして
彼が安穏と王宮に留まって、このまま報告を聞いているような男ではなく、苦しむ民のためとなれば、他に先んじて自分の手を汚す事を躊躇わない男であることを知られていたからこそ、人々からこれほどの信頼を得ていたのだろう。
乱の
どちらの側もが庇護を求める芳の民であることを考え、重い気持ちで帯を結ぶ月渓を、妖魔はそれ以上何も言わず見つめて見送った。
しかし、州城の下に押し寄せた群衆と対面してそれを説得する間も、州の役人に厳しい言葉で速やかな対応を迫る時も、見えなくとも物陰にいつも妖魔が潜んでいるのを月渓は感じていた。
禁軍を見ただけで恐れをなして散ってしまった烏合の衆も多く、説得と話し合いに応じる者も現れ、乱は解決へと向かった。
少しずつ安定してきたはずの収穫も、田畑も失った者には行き渡るまでにはゆかず、州侯の責任も問うことになりそうであった。彼が嘗て王に反逆した時最初に同調した一人だっただけに、これが収まった後の事後処理に苦慮しそうであった。
とにかくなんとか無事収まったと王宮へ向かおうとした時、残党の一団が現れて月渓らに矢を浴びせた。
騶虞がすばやく飛び上がったので月渓は難を逃れたが、その騎獣が直後射抜かれ、月渓は地表に叩き付けられた。
朧気に数名の手で抱え上げられたのを感じたが、強く頭を打ったためかぼんやりとしかあたりが見えなかった。
騎獣は手綱を失ったようなので、しっかり鬣に掴まるようにと声をかけられたように思い、言われるままに騶虞のふさふさとした毛にしがみついた。
あまり高くは飛ばないからというくぐもった低い声がどこかから響いたのを聞いて、毛に頬をすりつけるようにして頷いた。
やがて周りを流れる冷たい風に曝されているうちに朦朧としてた頭から徐々に霞がとれ、ゆっくりと騎上で身を起こした。
―――大丈夫か
座っている下から響く声に驚いて、手綱もない不安定な身体はころげ落ちかけた。すばやく体勢を傾けてそれを防いだ騎獣は、くつくつと笑った。
「おまえ・・・」
―――私だ
「騶虞になれたのか」
―――妖獣になるなど人間よりずっと容易いが
「ああ、そうだろうな」
―――姿を変えている間は力がそちらに取られるので戦うのには向かない。だからもし襲われたらとりあえずは逃げるし、それでだめならお前を下ろして元の姿に戻るからそのつもりで。
「わかった。私の騎獣は殺されたのか」
―――いや、傷が深く今は立てないが、動けるようになったら王宮へ帰ると言っていた。
「騎獣と話せるのか」
―――ああ、頭の悪いのが多くて人間より話がつまらないが。
あの騶虞の話はおまえとあちこち行っていたから、多少面白かった。
「どんな話をした」
やはりまだ身体に力が入らず、再び騎獣の首にしがみついて身体をもたせかけて目を閉じながら訊ねた。こうして話し続けていないと気が遠くなりそうだった。
―――そうだな、一時赤い瓦屋根の家に住む美人のところへせっせと通ったとか
目を閉じたまま、眉間に力を込めて唸った。
「おしゃべりめ」
―――仕事が忙しいので、女を迎えに行かされる事もあったと言っていた・・・あちこちの家へ
「あいつにもう帰ってこなくていいと伝えてくれ」
そう、そんな日々があったこともすっかり忘れていた。
赤い屋根の家の女、まだ覚えている。いい女だった。愛していると思っていた。なぜ別れてしまったのだろう。あのまま結婚して子でもなしていれば、王を倒す事は思いとどまったかもしれないという思いがよぎり、そして自分の考えることはいつまで経ってもそ
こに行くのかと溜息をついた。
その考えから気持ちを逸らすために、そして引き込まれそうな睡魔と戦うために、昔の女のことを考えた。
髪の色も様々だった、ほっそりもぽっちゃりもいた。年若いのも年増もいた。
こうして振り返ってみても、自分がいったいどんな女を求めていたのかさっぱり分からなかった。
妖魔の姿を決める時、なぜあの中から選ばなかったのだろうとふと考えた。赤い屋根の女の事すら思い浮かばなかった。
そして、今いつも側にいる娘の姿を思い浮かべた。なぜか他の女より美しいかどうかはあまり気にならなかった。美しいに違いないのだが。ただその存在を思っただけで心が暖かくなり身体が熱くなった。
しかし
座っても茶の一杯も注いでくれず、好奇心一杯に質問責めにしたあげく黙りで何時間でも座っているだけの女など、さすがに今まで一人も居なかったのは確かだった。
そこまで考えたとき、下からまた声が響いた。
―――私の上で女のことを考えるのはやめてくれ。
「分かるのか?」
―――こんなにくっついているときに熱心にそればかり考えれば、女の事だくらいは分かる。特に誰か知らないが最後の女の事は・・・・気に入らない
「ほう、最後の女が一番気になるか。しかし他の女への悋気は王の愛妾としては一番してはいけない事だぞ」
黙り込んだ騶虞の太い首に顔をもたせかけたまま、首筋をゆっくりと撫でた。見た目より柔らかなその毛は慣れた手触りとそっくりだったが、これほど優しく撫でたことはなかった。
「もう一度よく私の心を読んでみろ」
―――・・・・・
「伝わったか?」
―――・・・あまり、あまりそう考えられても・・・・
「では、早く王宮へ、家へ帰ろう」
―――・・・・わかったから、あ、もうそこから先はそれ以上考えなくてもいい
王宮へ着いたその瞬間から、乱の後始末にかからねばならない。当分妖魔と過ごす時間があるとも思えなかった。
王として下さなくてはならない裁断に情けは押さえなければならなかった。
乱というのはそれに正しい言い分があるかどうかに関わらず、自分の王としての至らなさを突きつけられたと受け取らざるを得ないものである。
このような時、本当の王ならもっと毅然と立ち向かえるのかもしれないが、仮の王である引け目から脱せない上、もとからの質で月渓にはつらい決断が必要であった。
この時間だけはそれを忘れようと、いつになるか分からないが、妖魔と戯れるひとときを心に浮かべて気持ちを遊ばせた。
―――そんな事考えるのはやめろって言っているのに、もうっっ、おまえ、おまえ、そんな……
一瞬月渓の心に満ちた黒い雲に気づいた妖魔だった。
だからそれを振り捨てるためにつまらぬ事を考えているとは分かったが、いや、それにしてもこれは。
嘗て祥瓊が囁いた話を思い出した。あの時は何のことかさっぱり分からなかったが、今になればだいたいは分かる。
それでも、あれよりもこれは・・・。
祥瓊は自分で思っているほど噂を聞き取るのは上手ではない事も分かった。
―――私はいやだぞっっ、振り落としてやるからな、なんて事を、王のくせに
少し離れて囲むように伴走していた護衛の兵は、低くうなり声をあげ続ける騎獣とそれに楽しげにしがみつく王を皆不安そうに見守った。