またなんとか冬を越し、小さな出来事の繰り返しのうちに日は静かに流れていった。
ゆっくりと国が沈んでゆくこともそれに身を任せるしかない人々にとっては、ひとつの繰り返しであり、それが静かな沈み方であればありがたいと受け入れるしかなかった。

農作物の問題が少し片づいた月渓は、海沿いの村を巡り始めた。あの後も乱はあり、まだまだ国中自分で見て回らなければならないところにきりはなく、僅かな時間を見つけてはあちこちへ出かけた。

冬の北の荒れた海と違い、この時期波も穏やかで、岸辺には漁を終えた漁民が一家総出で船や漁具を片づけていた。
妖魔が増えてからは沖合に船を出す漁は出来なくなったので、他の食糧同様に収穫は少なくなっていたが、近くで採れる魚は肉の少ない芳では貴重な食物となっていた。

漁師達と水揚げや妖魔の出没について話していた月渓は、返事を聞きながら少し離れたところの人だかりを見ていた。
月渓の妖魔が人に囲まれていた。
漁師の妻や子供に、暖かな微笑みを浮かべて挨拶を返す姿はどこから見ても、立派な王の寵姫であった。

妖魔はあれからほんの少し成長した姿になって、月渓と過ごした長いともいえない時間をその身に留めていた。それは妖魔が作った時間による変化だけでなく、男に愛されている女が花開き始めた姿で、もともとののんびりとした性格に人らしい表情が加わった結果、妖魔と知らない者から見れば、おっとりと優雅な殿上人に見えなくもなかった。
箸の持ち方も知らぬ山客をここまで仕込んだ事を誇る女官たちは、鼻高々に女主人を自慢していた。
しかしなによりも無邪気な本来の気質が月渓との満ち足りた日々によって磨かれて、それを類まれなる美しいもの、しかも妖魔でありながら人に慕われるものにまでしたようであった。

そして相変わらず口は重かったが、人々の話を興味深そうに聞くその様子は、どんな雄弁にも負けず相手の心を捕らえた。
そのため最近では雲海の下へ同行すると、いつも彼女を取り囲むように人が集まり、口々に日々の暮らしを語り、苦労を訴え、最近のあたりの出来事を聞かせた。

それに気がついた月渓は、そっと下官を側に立たせてその内容を聞き取らせようとしたが、彼らに誰かが気づくととたんに話が止まってしまうため、妖魔に任せることにした。

そんな遠出の帰路、騎獣の前に乗った妖魔は書き付けた控えもなしに驚くほどの量の会話を月渓に語り聞かせた。数字に表しにくく、地方の官の報告からは分かりにくい実状が、その話しの中には溢れていた。

「それにしても、よくそれだけ覚えていられるな」

「字だの書だのに頼るから物覚えが悪くなるのだろう。だから字など覚えなくてもよいと言ったろう」

「なるほど。いっそ史書に雇いたいほどだ」

しぶる妖魔に文字を教えたころの事を思いだして、月渓はからからと笑った。

「史書の方がおまえと一緒にいる時間が長そうだから、私はそれでもよいが」

「いや、それはやはりやめておこう。お前が昼間側にいては仕事が出来なくなりそうだ」

手綱を手首にからませたまま、さりげなく妖魔を抱え直して自分の身体ですっぽりと包み込み、背後から耳の下に鼻をすりつけて優しい言葉を囁きながら襟元からの甘い香りを楽しんだ。



その日予定の村はすべて見終わったので、他の官や兵は今日の宿舎となる州城に先に帰し、少し夕暮れを楽しもうと二人きりで飛んでいたが、結局また別の海辺の村を見かけると月渓はやはりその様子が気になるようで降り立った。

騎獣を繋いでから何かを捜していた月渓は、波のかからない平らになった岩を見つけると、そこへ妖魔を座らせた。

「少し話をしてくるからここで待っていろ。あちらは岩場なので、その履き物では歩きにくそうだ」

そう言い置いて漁師のところへ向かう月渓を見送った妖魔は、することもなく言われるままに座っているうち、海から吹き寄せる少し重い風に今更のように気づいた。
雲海の上に住んでいると潮の香りは親しいものだが、本当の海の潮風はやはり濃さも強さも違った。
胸の底にまでその濃厚な潮の香りを吸い込んでいると、黄海を離れて初めて海を通ったときの事を思いだした。あれからどのくらい経っただろう。

黄海にいた時より、こちらに渡って来てからの方がずっと短いはずだが、記憶に残るのはそのほんの短い時の事ばかりである。
こちらと言っても、それも月渓に会ってからの事だけだろう。

ただ眠り捕らえたものを食べる。その繰り返しで時を過ごして来た時間は時間とは言えない。それは流れゆく単なる繰り返しの中に存在していただけ。
共に暮らして時を共有する相手がいるようになり、初めて妖魔にも時間というものが意味を持ち始めたのである。

この海の彼方には恭の国があるはずである、そしてさらに海を挟んだその向こうが黄海である。
二度とあちらへは帰りたくはないが、いずれ王が立てばここには居られない。またどこかの荒れた国へ行くしかない。

それは月渓との別れを意味した。
この生活が終われば、またひとりであの意味もなくただ繰り返される日々に戻るのである。いったいそれが何万回繰り返されるのか、自分の年も寿命も知らない妖魔には分からなかったが、人間とは違う長さであることは確かであった。
ここに来るまではそれが当然と思い、漫然と過ごしてきた終わりのない時間が今では妖魔を捕らえる煉獄に思えた。


月渓の元で書物を読むようになったが、他国について書かれた中に、雁国では妖魔も受け入れると書かれてあり、それについて月渓に訊ねてみた事があった。

「この国は遠いのだな?」
月渓はいつものように積み上がった書類に埋もれていたが、その陰から首を伸ばし、こちらの書を覗き込んでから答えた。
「雁か、十二国の西側だから遠い」
「ここでは妖魔が住めるのか?」
「住むといっても…家畜として認めるという事だ。近づくと延台輔の使令にされるどころか畑で働かされることになるぞ」
「そういうことか」

ぱたりと書物を閉じた妖魔を見ていた月渓は書き物の手を止めた。
「行く時は私と一緒に行こう。それなら私が畑で働いて、おまえはまた昼寝をしていられる」
笑いながらそう言うとまた筆を動かした。

それならいっそ月渓の騎獣にでもなって、と思ったが、この国をこれほど愛している彼をここから連れ出せなかった。
もちろん黄海へ連れて行くことなど問題外だった。妖魔ですら退屈で耐え難かった黄海は彼の住むところではなかった。
彼には一日も早くこの苦労を終えて、ごく普通の人として幸せになり、そして元のように施政者として思う存分働かせてやりたかった。それが芳にとっても彼にとっても一番よいとわかっていた。


ぶるっと身を震わせるといらいらと立ち上がった。
先ほどまで快かった潮の香りが、想像したくない近い将来の事に結びつくと急に不快な香りとなった。



村の長を呼びに行った村人が戻ってくるのを待つ間、待たせた妖魔の方を振り返った月渓は、居るはずの愛しい美しい姿が自分が座らせたそこにないのに気づいた。万が一にも何かに襲われる心配だけはないし、待ちくたびれてそのあたりを見て回っているのだと思いこもうとしたが、なぜか胸騒ぎが消えなかった。

やがてやって来た村の長との話しに集中できず、夕刻も近いので後ほど官の誰かをこちらに寄越してその話を聞くからと言い置くと、何かにせかされながら騎獣と妖魔を待たせたところへ急いだ。