朝早くに目覚めた月渓は横になったまま、何が目を覚まさせたのかと考え、昨日の妖魔の事を思い出した。あれは奇妙な夢だったと思おうとしたが、臥牀の外から聞こえる音がその期待を砕いた。
帷から顔を出すと床にあの黒い妖魔がいた。どうやら眠っているらしく、その中央からはいびきらしきものも聞こえ、取り囲む靄とも触手ともつかぬものはそれに合わせて揺らいでいた。
王宮の朝は早い。こんなものを他に見られては大変と恐る恐る忍び寄った。
「おい、起きろ」
しかし何度声をかけてもそれに返事はなく、やむを得ず触手のひとつをつんとつついてみた。するとそのとたん、まわりの触手がざわりと動き、あっという間もなく月渓を捕らえると黒い芯に引きずり込んだ。
ぬらぬらとした内側に押し込まれ月渓は必死でもがいたが、じりじりと身体は奥へと吸い込まれていった。やがてどこからか出てきた管が首筋のあちこちに吸い付いてきたが、太い血管の浮き出たところを見つけるとそこに一層強く吸い付いた。血を吸い取られるのかと覚悟した時、突然動きが止まり、肉の壁がゆるゆると確かめるように彼の身体を探っていたが、今度はいきなり吐き出された。
どろどろの姿で訳も分からず床に投げ出された月渓の目の前で、ぷゆぷゆと動く黒い妖魔は先ほどより少し大きくなり立ち上がったようであった。
―――朝餉になりにきたのか。腹は減っていないのだが。少しのどが渇いていただけで
あわや朝の茶になりかけたかと思い、血を吸われかけた首筋に手をやった。
「とんでもない、そのままの姿で寝ているところを見られては困るから起こそうとしたのだ」
―――起こすなら声でも掛けろ
「何度も掛けたが起きなかったではないか。それより早く人の姿になれ」
妖魔は言われていやそうに祥瓊に似た姿になった。
その白い肌にまた慌てて目を背けたが、自分の姿を見下ろしてそれより自分の身をなんとかせねばと奥の湯殿へ急ぎ、熱い泉水でぬるぬるした液を洗い流したが、その時になってそれがどうやら消化液らしいと気づいて身震いした。
しかも湯から上がって湯殿の棚に目をやると、湯上がりの着替えや布が二組置かれているのに気づき、自分と妖魔が女官に何と思われているのかということにげんなりした。
そして再び臥所へ戻ると、相変わらず娘は素っ裸で突っ立ていたが、二日続けてそれに喰われかけた身では、その裸体の美しさも見かけだけと置物程にも気にならなくなった。
それより先ほど掴まったときの血生臭さを思い出し、湯殿へ連れ戻った。
「これは湯だな。昨日も入れられた。なかなかに気持ちのよいものだった」
幸い妖魔は嬉しそうに進んで湯に浸かるとぷかぷかと浮き沈みし始めた。
「しっかりと洗ってその血の臭いを取れ。これから狩りから戻ったらすぐに湯を使うのだぞ」
それはこの妖魔がこれからもここへ戻ってくる事を認めたことになるのだが、とりあえずそれは考えないことにした。
「昨日は女が洗ってくれたが、おまえはしてくれないのか?」
そんな
至極真面目な背後の声に怒鳴りたいのも我慢して、月渓はとにかく湯にしっかり浸かれ、とだけ言い置いて妖魔を湯殿に置き去りにした。
しかし湯から上がって戻ってきた妖魔がまた床にごろりと横になろうとしたの見ると、慌てて止めた。
「人は臥牀で寝るのだ。ここはまあ広いからとりあえずそっちの端で寝てくれ」
そう言ったものの妖魔と同じところで寝る気にはなれず、目もさえてしまった月渓は女官を待たずに身支度をすると、隣の書房で増える一方の書類を読み始めた。
しばらくすると女官が現れ、こんな時間に仕事をしている月渓を見て驚いたようであったがそのまま奥へ行った。月渓はそれを見送って書類に目を戻したが、妖魔がまた寝ているうちに元の姿に戻っていないかが心配になった。
あわてて女官の後を追うと、ちょうど一人が床から花びらのような被衫を拾い上げるところで、付いて来た月渓をうれしさを押さえきれない様子でちらりと振り返った。
その視線を避けて奥を見ると、別の二人の女官は月渓が止める間もなく帷をさっと巻き上げた。その奥には豪奢な錦の衾褥の上に白い姿がその肌を晒して横たわっていた。
ちゃんと人型をとっていることに安堵したが、衾褥の使い方と被衫を着ることを教え忘れた事に焦る月渓を見た三人の女官は、笑いをこらえ切れない様子で彼を部屋から追い出した。
「さあさ、お支度にかかりますから、目を離したくないのは分かりましたが、あちらへ行って下さいましね」
「あ、いや疲れていると思うから寝かしておいてやってくれ」
「まああ。はいはい、承知いたしました」
すっかり誤解されたのに気づいたのは部屋を出された後であった。