月渓を見ていた妖魔に人影が近づいた。
その気配に振り返ると、目の前に立っているのは少年とも青年ともつかない年ごろの男だった。
「近頃芳の様子がおかしいと聞いて、気にはなっていたのだが。おまえが原因だったのだな」
妖魔をしげしげと見つめた。
「真君……」
「なるほど、見事な化けっぷりだ。しかし、そろそろ黄海に戻る時期だぞ。一緒に帰ろう」
「黄海には戻らない」
「なに?」
天仙の鋭い眼差しは妖魔を見据えた。
「私にかまうな」
「それが出来ないから、私がこのようなところにいるのだが。
このまま黄海の外で生きて行けるとでも思っているのか?」
「ああ。妖魔ならここにいくらでもいるではないか」
犬狼真君は、一瞬何やら考え込んでいた。
「麒麟を襲った時は幼過ぎたからな」
不機嫌そうな顔に向かって呟かれた言葉に、妖魔が理解した様子は見えなかった。
「それでどこで何をしているのだ。村娘にしては身なりが良すぎるようだが」
「……王宮で……暮らしている。妖魔が多くて私でも役に立つのだ。今はこの先の村の様子を見回っている王を待っている」
更夜の冷ややかな顔にあきれたような表情が走った。
「妖魔退治をしているのか。いつ使令になった」
「使令になどなるものか。好きでいるだけだ」
「では餌はどうしているのだ」
「山へ行けば餌になる妖魔がいくらでもいる。夜は元の姿で餌をとっている」
「それも王の命か」
「そうだ」
「麒麟を殺したおまえが麒麟の代わりをしているとは」
妖魔はそっぽを向いた。
ここへ来るまでは麒麟など、と思っていた自分だったが、誰も彼もが麒麟を待ち焦がれている中で暮らすうち、嘗て自分のために麒麟を失った国があることを思い出し、気にかかるようになっていた。
時間の感覚もない頃だったのであれがいつ頃の事かも分からず、どこの麒麟だったのか知ろうともしなかったので、その生国のその後は調べようもなかった。おそらくこの真君なら教えられるはずだが、それを聞くのは恐ろしかった。
王のいない国がどれだけ荒れるかを毎日見てきた妖魔には、自分が今までに餌にしたよりもっと多くの命が、麒麟を奪われたその国で失われただろうということは容易に想像がつくようになっていた。
どんなに悔やんでもその命を返すことは出来ない。せめてこの芳の命がこの先ひとつでも失われないように、と願うしかできなかった。
麒麟ならたくさんの使令を使って、自分よりもっと月渓と人を守れただろうに。
また二王が次々と斃れた大きな原因のひとつが前の峯麟が王を支えることに力を尽くさなかったため、と月渓が見なしていた事も知っていた。前の王への愛着から、残虐な失政をそれを止められなかった麒麟のせいにしたいという思いがあったとしても、選んだ王が二人とも愚王とされたということは、やはり麒麟にも問題があったのだろう。
しかしそうなると、これほど期待して長年待たれている今度の麒麟が、果たしてそんな彼を喜ばせるに相応しい麒麟なのかどうかは、それがいつになるのかという事以上に気になった。
月渓の心をもう二度とあのような事で曇らせたくなかった。
真君を前にそんな事を考える妖魔の表情をさらに暗くするような事が言われた。
「しかしお前は半人前の食べ盛りで必要な餌の量も尋常ではないから、その程度の狩りでは、いかに妖魔の増えた芳でも足りないはず。身体が育つどころか衰えているのではないのか?」
妖魔は意識せず自分の袖口を掴むと、少し艶のなくなった肌を隠した。
実際日ごとに衰えを感じていた。最初この身体を作ったときはやせ衰えた状態の祥瓊だったが、今のままでは元と同じに戻ってしまいそうであった。
月渓のそばに居るとき、そしてその手の中にいるときは、なんとか美しい肌を保っていたが、それもいつまで出来るかと内心不安が募っていた。
最後に見られた見苦しい姿が、月渓の記憶に残っていたことを気にした祥瓊の気持ちが今になって分かった。このままどうにもならなくなるまでここにいる事は、去った後月渓の心に残る自分が醜くなった姿になることであった。
妖魔の姿に月渓がこだわりを持たなくなっていても、人の姿は美しいまま覚えていて欲しいと思う自分が不思議だった。
それでも彼から離れることは、そう思う事すら耐えられなかった。
「帰りたくない」
真君は妖魔をじっと見て考え、再び口を開いた。彼にはこれを黄海へ連れ帰る事がなにより優先されることであった。
「芳に留まればおまえが弱るだけではない。お前がいることが芳に妖魔を呼び込むことになるが」
「ばかな」
「うそと思うか。おまえのその妖力に引き寄せられて近くにいる雑魚の妖魔が集まり、それを狙って大物の妖魔も来るかもしれない」
「妖魔が増えるのは王がいないからだ」
訴える妖魔の側に近づくと、更夜は諭すように言った。
「もちろんそうだが、国は月渓らがよく支えているので思いのほか本当によく保っているそうだ。それをおまえが荒らすかもしれない。王宮にまで妖魔が入り込み月渓を襲ったらどうする」
冬の寒さの中、妖魔に襲われて死んでゆく民を悲しんだ愁いに満ちた月渓の横顔が脳裏に浮かんだ。それをどこかの妖魔が襲うかもしれないとなれば、ますます離れるわけには行かなかった。
しかし真君の言葉は容赦なかった。
「それにやがてお前は一人前になる。そうなればいくら月渓に止められても自分で人を食い殺して回るかもしれない」
「嘘だ」
「ではおとなしく人の言いなりになり、人を襲わない妖魔など見たことがあるか」
妖魔は
毎夜臥所に滑り込むときに見下ろす寝顔を思い返した。そして自分が戻ったことに気づき、夢うつつながら微笑んで迎え入れる顔と手。ある日それを自分は襲うかもしれないのだと気づいた。
妖魔の見開いた目は、ただ自分が妖魔であることへの悲しみで溢れていた。
「結局最後には月渓はおまえに喰い殺されるのだ」
「――……」
「帰るな」
返す言葉が思いつけず、犬狼真君の言葉に頷くしかなかった。
もうしばらくの間という事も許されなかった。未練が残るばかりだと言われ、いればいるほど妖魔を増やすと言われれば速やかに国を出るしかなかった。
なによりいつ自分が妖魔としての本性に目覚めるかと思えば、それが恐ろしかった。