がさりと近くの茂みが音を立て、まさかと振り向くと現れたのは月渓だった。

「おまえは?」

訝しげに問われた若者は何も言わずただ薄く微笑んだ。
月渓はその場に漂う張りつめたものに、無言の相手に構わず素早く進み出て妖魔を両手で抱えると、顔を覗き込んで再び訊ねた。

「大丈夫か?」
妖魔は頷いたがこちらも何も言わなかった。

「とにかくもう遅くなるから帰ろう」

そう言うと妖魔の手を取ったが、その手の上に若い手が重ねられ、月渓はその無礼な手の主と間近に睨み合うことになった。

海沿いの町や村には様々な国や生業のものが行き交うので、見かける姿形も様々であるが、その中でも変わった出で立ちであった。
そもそも最近ではわざわざ海を渡ってこちらに来る者などいないし、国内でもよほどの事でもないと旅などするものは少なくなったので、いったいどこからこんな風変わりな人物が現れたのかと訝しんだ。

黒っぽい布を羽織っているがその下には鎧のようなものが見え、胸元には古びた玉飾りが幾重にも下がっていた。よく日に焼けた肌をしていたが、被り物の影にかくれたその顔は精悍で年頃は娘と同じくらいに見えた。
妖魔と二人黙って並ぶと似ているわけでもないのにどこか近しいものがあり、兄妹かあるいは若い恋人のようにも見え、妖魔が黙って寄り添われているのを見たときは一瞬嫉妬めいたものすら感じた。

「何かこれに用か?用があるならまず名乗れ」

相手はその若さにもかかわらず、月渓に臆する様子も見せなかった。
「これはもう王宮へは戻らぬ。黄海へ戻るのだ」
「なに」

思わず妖魔を背後に庇った。妖魔はしばしその腕に頭をもたせかけていたが、月渓を見上げて言った。

「私がいると妖魔が増えて、芳に害が及ぶかもしれないと言われた」
「嘘だ」
「本当だ」若者が言った。

「お前は誰だ、なぜこんな事に関わる。お前も妖魔か」
月渓が彼らしからぬ尖った声で問いつめようとするのに、妖魔が口を挟んだ。

「その方の言葉には従わなくてはならない。御名は聞いてはならない」

意外な言葉に妖魔を振り返ってその表情を確かめたが、それでもこのままむざむざと妖魔を失う事は出来なかった。
自分が何かを奪われようとしているという事に、今までに感じたことのない恐れを覚えた。今これを奪われれば……後は考えられなかった。

「おまえは、行きたいのか・・・?」

その表情を見れば答えは聞くまでもなかった。
それでも妖魔はくるりと向きを変えて離れようとした。それを腕を掴んで止めようとする月渓に若者が言った。

「それは人とは暮らせぬもの、行かせろ」

「人の姿をとり、人として生きている。これに構わず捨て置け」

「普通の妖魔は人に紛れるような形を取ることは出来ない。せいぜい獣の形くらい。そのようなものを捨て置けと言われても」

たしかに妖魔が人に化けてあちこちに現れれば大変なことになる。
それに不審を感じなかったのは、最初はいつ喰われるか、誰に見つかるかが問題で、そんなことを気にするどころではなく、それに慣れたころには、この年月すべてをあるがままに受け入れそれと折り合って生きるしかなかった身では、妖魔ならそんなものもいるのかと思うだけであった。

しかしさすがの月渓も、これだけは誰の言いなりになるつもりもなかった。

「では何か。納得できるよう説明してみろ。
私はどのみち天に背いた者、この上何に逆らったとて罪が増えようもない。妖魔もこの世の理の外の生き物。
このような我々が、なぜ見も知らぬ者の言いなりにならなくてはならないのか」

きっぱりと言い切る月渓を真君は哀れむような目で見た。
「それは雛だ」
「雛?」

「幼なかったとはいえ、いささか悪戯が過ぎて仲間から放逐されていたのだが、どうした訳かこちらへ渡ってしまった。
このままここで成長すれば、やがてお前をも襲うことになるが」

その言葉にうなだれ顔を背けた妖魔を再び抱き締めると、月渓は若者に対してからからと乾いた笑いを放った。

「そんな事が理由か。私はもともとこれに我が身をくれてやると約束しているのだ。その日まで一緒に過ごせればそれでよい。
むろん他を襲われては困るが、妖魔の一匹増えても減っても今更わが国にはどうということもない。むしろこれに救われた多くの者からは黒い守り神と信じられているほどだ」

なぜ妖魔が必死で自分から離れようとしているのか分かり、そしてそのことを告げられたことでどんなにその心が傷つけられたかを思えば、この若者を許せなかった。
そしてきっぱりと言った。

「私と会ってからは人を守りこそすれ、決して人には手を出していない。
芳は貧しく、いつも腹を空かせているので不憫なほどだ」

「王の仕事はまずは民の腹を満たすこと。妖魔の腹など放っておけばよい。飢えればおとなしく黄海に戻ればよいだけ」

冷たく言い返した真君は、しかしそれでも妖魔を離すまいとする月渓の気迫に溢れた顔に説得の言葉を変えた。

「麒麟のように転化ならそれももともとの姿ゆえ負担にはならないが、それは雛がその身体の柔らかさのおかげで人に化けているだけ。となればこんなに長い時間人の姿をとれば力を使い果たすかもしれない。すでにその形が崩れてきていることに気づかなかったのか?」

その言葉の意味することに衝撃を受けた月渓から一瞬力が抜けた隙に、妖魔はするりと逃れようとしたが、月渓はすぐにそれを抱き留め、その勢いで一緒に崩れ落ちた。

「行くしかないなら今私を喰え、そうすれば一緒に行けるだろう」

倒れた時に解けた髪を指で掬い上げて撫で付けてやりながら、目を間近で覗き込んだ。この髪を毎夜こうして指で梳いて慈しんできたのだ。それが彼にとって唯一自分を安らげる事の出来る時間であった。

「国はどうなる」

「国に私が必要と思っていたことは私の思い上がりであった。多くの者があって保っていると、おまえと過ごしてそれに気づいた。
そしておまえのいない私などより、よほど国のためになる者は他にもいくらもいる。喰うがよい」

薄紅を塗った唇に自分の指を添えながらその上に口付けた。

座る王位すら仮のものでいつか現れる真の王のもの。将来への夢も持てない彼にあるのは半身とも思っていたこの妖魔だけだった。

「私が喰いたかったのは王に限りなく近いからと思ったからだ。助けたのもそのためだ。そんな風ではただの男ではないか。それならいくらでもいる。おまえは芳の事だけを考えればいいのだ」

別れの辛さに負けまいとするあまり、そんな心にもない事を言いながら、いったいこの目を霞ませるものは何なんだと妖魔は思った。
最後に少しでも月渓の顔を目に焼き付けたいのにと、邪魔をするものを乱暴に手で擦った。そして指を濡らしたそれが嘗て月渓の目から溢れた甘い水と同じだと気づいた。
妖魔が泣くなんて。

しかしそれでもこの心地よい腕の中に留まる事は許されない。こうしている事が月渓のためにならないと、妖魔は必死で自分の心と戦おうとした。
そしてするりと姿を変えると、優しくて熱い手から抜け出した。

いきなり抜け殻になった衣を抱えた月渓の前でその黒い靄はふわりと浮かび、一瞬彼を包み込むと、柔らかな無数の小さな手で彼を愛撫した。しかし月渓がそれに身を委ね、そして手を伸ばしてそれを捕らえようとすると、ふっ、と高く飛び去った。

衣を抱いたまま妖魔の名を呼び憚ることなく慟哭する月渓を、真君はいまさら声もかけられず、ただ見るしかなかった。


―――迎えに行く、きっと迎えに行く

月渓は最後にそう言いたかった。しかし今はやはりここは捨てられず、その先彼女を迎えに行ける身になれるかどうかは分からなかった。
たったひとりの女を、引き留めることも迎えに行くことも許されない身が憎かった。

そしてあの娘を与えられたのは、もしかしたら天の許しが与えられたからかと一時でも密かに想っていた自分の愚かさを笑った。
天は与えたように見せかけて最後に奪うことで、彼の罪が決して許されていないことを告げたのだろう。

抱いた衣に残る暖かさと香りが、いつものように言葉を必要としないなぐさめを最後に与えた。