玄武から降り立った王を官の先頭で伏礼をして迎えたのは月渓であった。
仙にもかかわらず、その顔には以前にはなかった深い皺が刻まれ、こめかみには白いものも見えた。
芳にはあの後も苦難が絶えることなく繰り返し襲いかかり、それらはいずれも月渓の容貌を変えたほどに厳しいものであった。
そして今日無事この日を迎えたのである。
新王は芳ではなく範に住んでいた男で、偶然昇山の供をしているところを麒麟に見い出された。そうでなければまだ幼い麒麟が彼を見つけるまでにはさらに長い時間がかかったであろう。
王座に座った新王は礼をする官を黙って見下ろしていた。
新たな朝を開くに必要ないくつかの議案があったが、それに先立ち前王及び宰輔に対する罪が改めて問われることになった。
皆が息をのむ中でいずれの者にも咎めなしとなった。失道に至る前王の失政とその後の国を治めた労を見てのことであろうと、内心の期待通りの事に皆は安堵した。
そして唯一月渓のみに別に処分が下されることになった。
それまで淡々と巻物を読み上げていた官が下がると、先日まで月渓が座していた上段から新王が立ち上がった。
「大逆の罪をひとりで受けるとの事でそれを認める。
王および麒麟を手に掛けた本人でもあり、その後の国に対する功は認めるところであるが、それでもその罪を許すには値しない」
まわりから動揺したざわめきが起きた。
「ついては、官位および仙籍剥奪、国外追放とする。国籍は取り上げぬが、速やかに他国に移すよう努力する事を強く求める」
悲鳴に近い声が王宮を満たした。
「酷と思うか、月渓」
王は持った巻物を下ろして一番前に座る月渓に声をかけた。
「いいえ」
静かな答えであった。
そこですべて終わった。
その後月渓だけが王に呼ばれた。
「本当なら死罪にしたいところであった」
「大逆をはたらいたときから覚悟はしておりました」
「私は父をなくし母親と範へ行った。しかし生活は厳しく長引く難民生活で母は病を得て亡くなり、私は親も国もない孤児として乞食同然に育った。
あの時麒麟は失道の病にかかり冽王が身罷るのは時間の問題だったはず。なぜ待てなかった。
王が倒れたとたん我が家のまわりに現れた妖魔に襲われ父が死んだ。
そして麒麟を殺したおかげで次王が立つのにこれほどかかり母が死んだ。
私は子として、そして名もなき民のひとりとしてお前の短慮を許すわけには行かぬ」
王の言葉は月渓を打った。
しかしあの時の状況を、当時子供であった王に言葉で説明しても無駄だろうと思った。その残り僅かな時間にどれほどの命が失われようとしていたか。しかし、自分自身いったい何度麒麟まで斬ったことを悔やみ思い返したか。
「お前の罪に対する嘆願が他国からも届いておる。国の問題ゆえそれを受けることは出来ないが一応伝えておく。
恭からはなにやら芳には貸しがあるはずだから、この際それを返して欲しいと言ってきた。王の御物一山と娘一人の命の代わりにお前の命をとの事であった。
また慶からは元公主が大逆は国として必要であったことゆえ、咎めないで欲しいという嘆願書と、景王からのこれまた命乞いの手紙である。
その他の国からもいろいろ使いが来ておる。ずいぶんあちこちと付き合いがあるのだな」
もともと他国との付き合いの少ない国であり、仮朝となってからは妖魔に囲まれて往き来も絶えて孤立していたと思っていたが、決して見捨てられていたのではなく皆心配していてくれたのだとありがたかった。
「他国の意見など無視できても麒麟の声は無視できぬ」
今日が初対面の麒麟がいったい何を、と月渓は黙って座っている幼い麒麟を見た。
ちらりと王を見て麒麟は立ち上がると月渓の側に来た。そして彼だけに聞こえる小さな声で話し始めた。
「ある時からいつも一匹の妖魔が見守ってくれていました。とは言っても近づくのを女怪がいやがり、妖魔自身も私を甘やかすとためにならないと言って、むやみに姿を見せることはありませんでしたが」
妖魔という言葉に月渓ははっとした。この年月閉ざしていた彼の心の扉の一枚に少し隙間が出来たのを感じた。
「とても好きになったので使令にと思ったのですが、まったく相手にされませんでした。おまけに女仙などに聞いてもあれは下すのは無理で、下手をすると麒麟を食べるのだと脅されました」
月渓は微笑み、処罰の決まったばかりの身でありながら、どこか心が浮き立つのを押さえられなかった。こんな気持を最後に感じたのはいったいどれほど前だったろうか。
「それでも姿を現すと、まだ見たこともなく書で読むだけだったこの国の話をしてくれました。
小さな里に住む人やその生活、そして森の花や生き物の事まで、目の前に見えるほどに生き生きと。こちらの子供の遊びまで教えてくれ一緒に楽しみました。
王の仕事についても、王にどんな事を皆が求めているのかも、書で学んでは分からないような事までたくさん話してくれました。
……この年月、本当に民のために尽くして下さっていたのですね」
妖魔を伴って国中を見て回った頃を思い出した。
今でも彼に寄り添っていた愛らしい寵姫の事は、多くの人々に辛い日々の数少ない美しい記憶として懐かしく思い出されていた。
「そしてこの王宮の事も。私が水浴びが好きなのを知って、ここにはよい泉水があると言っていました」
「はい、ございます。熱泉と冷泉の両方がお部屋に」
「そんな話をするときはいつも貴方の姿をとって貴方の声で話していました」
月渓は息をのんだ。
「でもその姿はもっと若くていつも優しく微笑んでいました。あれからも本当に苦労したのですね」
苦労というものなど知らないはずの幼い声にいたわりがこもっていた。
「だから同じ姿の貴方を失うことは耐えられないので、主上にお願いしたのです」
月渓には返す言葉がなかった。
しばらく黙ってそれを見ていた王は、再び言葉を続けた。
「先に話した慶や恭からはその身を預かるとも言って来ている。身分その他は保証するとのことだ」
「ありがたい申し出だと存じます」
下を向いたまま答える月渓を痛ましげに王は見下ろした。
「わたしは決して酷な男ではないつもりだ。お前がいなかったらこの国がもっと荒れていただろうともさんざん言われた。
しかしこうしなければ悪しき先例を作り、私は自分の首を守ることばかりに気を使わなければならなくなる。
分かって欲しい。おまえさえこれに耐えてくれれば決して他の者にはこれ以上の咎めはなく、今後の登用にも差別はせぬ」
「そのお言葉だけで十分でございます」
この事ではそれ以上は彼には不要であった。
ただひとつ月渓は峯麒に尋ねたいことがあった。
「先ほどのお話の妖魔は今はどこでどうしているのかご存じでしょうか?」
「会いたいのですか?」
「はい」
きっぱりと月渓は答えた。
しかし幼い麒麟は月渓を見つめて答えをためらっていた。
「でももう会えないのです」
「会えない?」
「ある日を境に彼は来なくなったのです。黄海に行くたびに捜したのですがいませんでした。玉葉様にお伺いしたら、もう二度とあの姿には会えないと言われました」
「……そう、ですか」
「最後に彼を見たとき、彼は泉に映る自分の、というか貴方の姿を見下ろしていました。私はそこで水浴びをするつもりだったのですが、とてもその水鏡を壊す気にはなれず、その余りに悲しそうな姿に声もかけられずそのまま去りました」
いっとき開きかけた心の扉はまたひっそりと閉じた。そして月渓は初めて自分が何もかも失ったと感じた。
こうして月渓は前王を大逆し、次王により処罰された偽王として名を残し、その間は公には単なる空白の時間として扱われ何も記されることはなかった。